神の啓示:ご自分をお知らせになる神

ジョン・M・フレーム(著者) 、ブラッシュ木綿子(翻訳) - 2022年 08月 30日  - 

定義

神は啓示を通してご自身を主としてお知らせになります。神の啓示には、被造世界と人間を通してすべての人に与えられるものと、歴史上の出来事や、霊感によって聖書に書き記されたみことば、そしてイエス・キリストご自身を通して特定の人に与えられるものがあります。

概要

神はまず、語られる人格神としてご自分を完全に知っておられ、被造物にもご自身を知らしめられます。すべての人は罪のためにこの神知識を抑圧していますが、神は被造世界と神のかたちとして造られた人間を通して、被造物にご自身のことを明確に伝えられました。この「一般啓示」に加え、神は特定の人に「特別啓示」によってご自身を伝えられます。特別啓示には、自然や歴史の出来事、神の霊感によって聖書に記された人間の言葉、そして究極の神のかたちであられるイエス・キリストを通しての啓示が含まれます。これら異なるすべての方法を通して、神はご自分を主として啓示されます。神は万物を支配され、万物の上に臨在され、万物に対して権威を持っておられる方です。


『この世の被造物は、神を完全に知ることはできません。神でない限り、神を完全に知ることはできないのです。しかし、被造物は神を知ることによって大きな恩恵を受けます。実際、神を知らずに生きることはできません。神がいのちの著者であられるからです。』

聖書の神は人格神であり、他の多くの宗教や哲学の、抽象的または非人格的な力としての神とは対照的です。三位一体の教理はこの事実を明確にしています。聖書の神は人格的であるだけでなく、三位一体の神ご自身がコミュニティーであられ、相互の愛と多様性のうちに永遠に存在しておられるからです(ヨハネ17章)。

ですから、神はなさることを何でもお知らせになります。三位一体の各位格は互いを完全に知っておられ、それぞれが他の位格の思考と行為を理解しておられます。人間の場合、自分の本性にも隠れた深みがあるので、自分の行動や動機を完全に理解することができません。しかし神は、ご自身によって完全に知られています。神についての多くのことは、私たちにとっては奥義ですが、神にとってはそうではないのです。

聖書が神の完全な自己認識を表現する1つの方法は、神を「語る神」と表現すること、簡単に言えば、神をことばとすることです。

初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

(ヨハネ1:1)

神はただ単に永遠、聖、全能、……の存在であるばかりではなく、こうした属性を人間の言葉などを通して表現され、共有されます。その永遠の神性において、神は語る力(ことば)を持っておられ、語る力こそ、神がどのような方かを示しています。神のことばは永遠に神とともにあり、神のことばは神の本質そのものなのです。ヨハネは、ヨハネの福音書1章14節で、この「ことば」をイエス・キリストと結び付けています。イエスにおいて、ことばは人となったのです。つまり「ことば」は、イエスが受肉した時点で存在し始めたのではありません。旧新両約聖書には、神がご自身を啓示する手段としての神の「ことば」に関する言及が何百とあります。

さらに、神はご自分をご自分に、つまり、三位一体の各位格が他の位格に啓示され、その啓示はご自分の外にも広がります。啓示は神が創造された世界にも届き、特に知的な被造物である御使いや人間に届きます。自己啓示が神のご性質であるからこそ、神はすべての被造物が神を知ることを望んでおられるのです。

この世の被造物は、神を完全に知ることはできません。神でない限り、神を完全に知ることはできないのです。しかし、被造物は神を知ることによって大きな恩恵を受けます。実際、神を知らずに生きることはできません。神がいのちの著者であられるからです。このことは、私たちの生物としてのいのちと、霊的ないのちの両方に当てはまります。アダムは、神がその鼻にいのちの息を吹き込まれたときに、生きるものとなりました(創世記2:7)。そしてイエスは、永遠のいのち、罪からの救いという大きな恵みは、神を知ることだと言っています。

永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。

(ヨハネ17:3)

ある意味ですべての人間は、悪者でさえも、神を知っています。

というのは、不義によって真理を阻んでいる人々のあらゆる不敬虔と不義に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。神について知りうることは、彼らの間で明らかです。神が彼らに明らかにされたのです。神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はありません。

(ローマ1:18-20)

しかし、多くの人はこの啓示を拒んでいます。パウロが「不義によって真理を阻んでいる」と言っている人々です (ローマ1:18)。神はすべての人に明らかに啓示されているにもかかわらず、アダムが園で神から隠れたように(創世記3:8)、堕落した人間は神を知っていることをむしろ否定したがるのです。人が神を知らないと言うとき、それは神がご自身を啓示できなかったからでも、神の啓示が十分でなかったからでもありません。むしろ、神に対する無知は、人間が自分自身に対して行っていることなのです。このような人たちは自分に嘘をつき、神は存在しない、はっきりしないと言い聞かせているのですが、その間もずっと、神は彼らを見つめておられるのです。

『一般啓示は、神の存在、神はどのようなお方か、そして、神の道徳的な基準を私たちに知らせます。神の基準を明らかにすることで、私たちがその基準に達していないことも教えます。』

神はご自分を主として啓示される

神の個人名は「主」と表記されますが、これは出エジプト記3章14-16節で神がモーセに明らかにした「わたしはある」という神秘的な名を普通名詞で置き換えたものです。神が主であられることは、特に、被造世界に対する神のご支配、権威、臨在と関係しています(ジョン・フレーム著、『The Doctrine of God』、21-240頁、同『The Doctrine of the Word of God』、3-14頁、47-68頁を参照のこと)。啓示を含め、神のみわざはすべて、支配、権威、臨在という神のご主権を反映しています。聖書は、神のことばによる啓示を、強力な神のご支配に結びつけています:

わたしのことばは火のようではないか──のことば──。岩を砕く金槌のようではないか。

(エレミヤ23:29)

神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。

(へブル4:12)

また聖書は、神の啓示のことばには、至高の権威があることを明確にしています:

わたしを拒み、わたしのことばを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことば、それが、終わりの日にその人をさばきます。

(ヨハネ12:48)

聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。神の人がすべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるためです。

(IIテモテ3:16-17)

そして、みことば(神の啓示)は、神がご自分の民とお会いになる場所、つまりご臨在でもあります。神がイスラエルの民の近くにおられたのは、みことばが民の近くにあったからです(申命記4:7-8; 30:11-14)。そして神は私たちとともにおられるために(インマヌエル)、人となって来られました。御子イエス・キリストは、私たちに与えられた、生ける神のことばです(ヨハネ1:1-14)。

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

(ヨハネ1:14)

『特別啓示の内容は、一般的に、さばきの警告と恵みの約束のどちらか、あるいはその両方を含んでいます。福音は恵みの特別啓示であり、最高に良い知らせです。』

聖書の神は、異教の神のように抽象的な力ではなく、人格神であると上述しました。神の啓示によって神と神の民は人格的に出会うことができます。神の啓示を聞くとき、私たちは神ご自身の声を聞くのです。御声に対する私たちの応答は、最高の力、究極の権威、そして親密な父親に対する応答であるべきです。

一般啓示と特別啓示

神学者たちは、啓示をさまざまな種類に区別しています。最も一般的な分け方は、一般啓示と特別啓示に分けることです。一般啓示は、すべての人に与えられる神の啓示です。ローマ人への手紙1章に書かれているような啓示です。一般啓示は、神の存在、神はどのようなお方か、そして、神の道徳的な基準を私たちに知らせます。神の基準を明らかにすることで、私たちがその基準に達していないことも教えます。パウロは一般啓示は罪人に対する神の怒りを明らかにすると言っています(ローマ1:18)。一般啓示は自然界を通して(いわゆる自然啓示)、また私たち自身の性質を通して、人間にもたらされます。人間は創世記1:26-27にあるように神のかたちであるため、神の啓示となるのです。

一方、特別啓示は、神に選ばれた使者がまず啓示を受け取り、他の人にも伝えた啓示です。啓示の受け手は、御使い、預言者、使徒などです。啓示は口頭で伝えられることもあれば、使徒たちが教会に権威ある手紙を書いたように、文書に記されることもあります(Iコリント14:37-38を参照のこと)。聖書全体も、書かれた神の特別啓示です(IIテモテ3:15-17)。特別啓示の内容は、一般的に、さばきの警告と恵みの約束のどちらか、あるいはその両方を含んでいます。福音は恵みの特別啓示であり、最高に良い知らせです。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

(ヨハネ3:16)

啓示の手段

啓示の種類を区別するもう一つの方法は、啓示が私たちにもたらされる方法、すなわち啓示の手段によって分ける方法です。啓示の手段には、基本的に、出来事、ことば、人間の3種類があります。この3つは、先に述べたご支配、権威、ご臨在の区別にもほぼ対応しています。こうした3区分はいずれも、啓示全体に対する私たちの見方として理解されるべきものです。啓示で明らかにされる出来事は、神のご支配を示すだけでなく、神の権威と臨在をも表します。ことばと人間による啓示も同様です。

出来事

神は、自然や歴史の出来事を通してご自身を啓示されます。私たちは季節の移り変わりや自然の力、太陽、月、星から神を知ります。また、歴史、すなわち人間の運命を形作っていく歴史上の出来事を通しても、神を知ることができます。神こそ、すべての国の境を定め(使徒17:26)、奴隷だったイスラエルの民をエジプトから救い出して、約束の地を所有させた方です。神のご計画の中で、歴史は救済史となります。イエスの到来によってご自分の民を罪から贖うために、神が歴史の出来事を動かされるからです。

『神は万物を支配され、万物の上に臨在され、万物に対して権威を持っておられる方です。』

ことば

ある意味では、神の啓示はすべて、ことばによる啓示です。それは神ご自身のことば、すなわちヨハネ1:1-14に書いてある「ことば」から啓示が生じているからです。しかし、もう一歩進んだ意味での「ことばによる啓示」もあります。つまり、啓示が人間の言葉によって与えられるという意味です。神は、歴史におけるみわざの意味を、私たち人間が考えなければいけないようにはされませんでした。神は私たちの経験に入って来られ、人間の言葉で私たちに語りかけてくださいます。預言者の言葉は、神のことばそのものなのです。神はモーセに預言者とはどのような者かを、次のように定義されました。

わたしは彼らの同胞のうちから、彼らのためにあなたのような一人の預言者を起こして、彼の口にわたしのことばを授ける。彼はわたしが命じることすべてを彼らに告げる。わたしの名によって彼が告げる、わたしのことばに聞き従わない者があれば、わたしはその人に責任を問う。ただし、預言者であっても、わたしが告げよと命じていないことを、不遜にもわたしの名によって告げたり、あるいは、ほかの神々の名によって告げたりする者がいるなら、その預言者は死ななければならない。」
あなたが心の中で、「私たちはが語られたのではないことばを、どのようにして知ることができるだろうか」と言うような場合、預言者がの名によって語っても、そのことが起こらず、実現しないなら、それはが語られたことばではない。その預言者が不遜にもそれを語ったのである。彼におびえることはない。

(申命記18:18-22)

預言者や使徒がみことばを書き記したものが聖書です。聖書は、主の力、権威、ご臨在として受け取られるべき書物なのです。

人間

神は三つの位格をもった人格神であられるので、神の啓示は人間という手段で与えられるときに特に鮮明となります。神はアダムとエバをご自分のかたちとしてお造りになり、ご自身の啓示とされました(創世記1:26-27)。そして、最も高く、最も深い神の啓示が、人となられた神、受肉された主イエス・キリストであることは、私たちにとって驚きではありません。イエスは万物に対する御父のご支配を示し(マルコ4:41)、御父のことばを語り(ヨハネ3:34)、ご自分の民とともにおられる御父の栄光ある姿で現れた方なのです(マタイ17:1-8)。

結論

私たちが神を知ろうとするならば、神の定められた方法で知識を求めることが重要です。多くの人は、自分の理性や主観的な直感によって、神についての知識を得ようとしてきました。しかし、聖書の神は、神がどのようなお方であるかだけでなく、私たちがどのように神知識を求めるべきかも教えておられます。神知識は、私たちが神の創造された世界に注意を払い、不義によって真理を阻むことなく、神ご自身の導きと、聖書とイエスを通して与えられる神の特別啓示を受け入れることによって得ることができます。神が定められた手段によってのみ、私たちは神を主として、また、罪からの救い主として、知ることができるのです。

参考文献

聖書 新改訳2017©新日本聖書刊行会

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この記事は「The Gospel Coalition」から許可を得て、英語の原文を翻訳したものです。原文はこちらからご覧いただけます:Divine Revelation: God Making Himself Known。このエッセイは「Concise Theology」シリーズの一部です。 このエッセイで述べられているすべての見解は、著者の見解です。このエッセイは、帰属リンク、変更点の表示、および同じクリエイティブ・コモンズ・ライセンスが適用される限り、他の媒体/フォーマットでの共有や内容の翻案/翻訳を許可するクリエイティブ・コモンズ・ライセンスによる著作権のもと自由に利用可能です。私たちのコンテンツを翻訳することに興味がある方、または私たちの翻訳者コミュニティに参加することに興味がある方は、The Gospel Coalition, INCまでご連絡ください。
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