過越を成就したイエス

身代わりによる救い

ジャスティン・ディルヘイ(著者)、ブラッシュ木綿子(翻訳)-  2024年 03月 26日 - 

今年(2020年)、ユダヤ教の過越の祭りは4月8日の水曜に始まります。これはキリスト教の受難日の2日前です。このふたつの宗教で聖なる日が近いのは新しいことではなく、イエスが死んだのが過越の祭りの最中だったこと、ユダヤ人としてイエスも過越の祭りを祝うためにエルサレムに来ていたことを私たちに思い起こさせるものです。

しかしこれは単なる偶然だったのでしょうか。イエスはたまたま過越の祭りの最中に死んだのでしょうか。

聖書の答えは「いいえ」です。イエスがあの時、最後にエルサレムに来たのは単に過越の祭りを祝うためではなく、私たちの過越になるためだったのです。使徒パウロがコリント人への手紙第一5章7節で「私たちの過越の子羊キリストは、すでに屠られた」と明言している通りです。

でもこれは一体、どういう意味なのでしょうか。

その答えを知るためには、最初の過越が書かれている出エジプト記12章から始める必要があります。なぜ過越が必要だったのかとその意味を、そこから知ることができます。過越の意味を学んだ後に、キリストがどのように私たちの過越となられたのか、見ていくことにしましょう。

出エジプト記12章と最初の過越

『神はその無限の愛において、正義とあわれみを同時に実現する方法を示されました。それが身代わりによる救いです。』

舞台はエジプト、情勢は非常に混乱していました。エジプトは、次々と降りかかる9つの災いのせいで壊滅的な打撃を受けたところでした。しかもそれは単にエジプトの運が悪かったからではなく、神によるエジプトへのさばきでした。さらに神が約束を守っておられるという側面もありました(出エジプト2:23-25)。神はアブラハム、イサク、ヤコブに、彼らの子孫が相続としてカナンの地を受け継ぐと誓われましたが(創世記15:18-21)、当の子孫は、何世紀もの間エジプトの地から出ることができないでいました。それを今こそ神がエジプトから救い出し、故郷に連れ帰ろうとしておられたのです。

けれどもその前に、最後の災い、今までの災いを上回る、最もひどい災いが起きます。それまでの災いではすべて(あるいはほとんど)、イスラエルに害は及びませんでした。イスラエルの家畜は死にませんでしたし(出エジプト9:6)、彼らの穀物の上に雹は降りませんでした(同9:26)。また、彼らの住んでいる地が暗くなることはありませんでした(同10:23)。イスラエルの民が災いを避けるために何かをしたわけではありません。ただ単に、神がイスラエルを区別して扱われたのです。

しかしながら、最後の災いは違いました。この災いでは、すべての人が同様に扱われるはずでした。前代未聞の神の備えがなければ、イスラエルの長子も含め、エジプトの地のすべての長子が神に打たれようとしていたのです。

なぜでしょうか。

それは、イスラエルの民もまた、罪人だからです。彼らは確かに神に選ばれた民であり、また何世紀にもわたって虐げられてきた側でしたが、彼らも罪人であることに変わりありません。エゼキエル書20章4-10節によれば、イスラエルの民はエジプトの偶像を礼拝さえしていたのです。神がこのような罪を見逃されることはありません。

10番目の災いは、神が聖であり義であることを伝えます。しかし過越は神があわれみ深い方であることも伝えます。あの最初の過越の日、神は同時に義でありつつあわれみ深くある方法を示されたのです。これを「身代わりによる救い」と呼んでもよいでしょう。

『私たちの救いはイエスの身代わりによってもたらされます。だからこそ神は私たちに、「イエスの血を見て、あなたがたのところを過ぎ越す」と言うことができるのです。』

神の備えた方法は簡単です。子羊を取るのです。傷のない、成長した一歳の雄の子羊を取り(出エジプト12:3-5)、何の欠点もないことを確かめるために4日間よく見守ります(同12:6)。そしてその月の14日、夜に「滅ぼす者」が長子を殺すというその日、その子羊を屠り、その血を家の門柱と鴨居に塗ります(同12:7)。神はその血を見て、「あなたがたのところを過ぎ越す」のです(同12:13)。

これが「過越」の意味です。神は、イスラエルの長子がエジプトの長子より優れていたからではなく、彼らの代わりに傷の無い子羊が死に、その血が彼らの戸に塗られていたから、彼らを滅ぼさなかったのです。

身代わりによる救い。そして、新約聖書によれば、過越のメッセージは受難日のメッセージでもあるのです。

受難日と真の過越の子羊

動物が人間の身代わりになど、本当になれるのだろうかと思っているかもしれません。その答えは、究極的には「できない」です(へブル10:4)。どうしたら神が動物の死で人の罪を見逃すことができるかは、未解決の問題でした(ローマ3:25)。

この問題に神が最終的な解決を与えたのが受難日です。

10番目の災いで、イスラエルでさえ、その偶像礼拝のゆえに神の怒りの対象だったのと同じように、私たちもみな、私たちの偶像礼拝のゆえに神の正しい怒りの対象です。私たち全員が罪を犯し、神の栄光を受けることができません。何らかの備えがなければ、私たちは一人残らず、悪魔とその使いのために用意された永遠の火の中で、神の怒りの下に永遠に滅びる身なのです。それは、神が聖であり、義であられるからです。

しかし、神はその無限の愛において、正義とあわれみを同時に実現する方法を示されました。それが身代わりによる救いです。過越はこの救いを描き出す絵となるべきものでしたが、救いそのものではなかったのです。福音書の段階になって、本物の身代わりが登場します。バプテスマのヨハネの言葉を借りれば、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」(ヨハネ1:29)です。

予型論ではいつもそうですが、イエスは旧約聖書の予型より偉大です。今回、神は私たちに子羊を用意するようにとは言われませんでした。神ご自身が子羊を備えられたのです。そしてこの子羊は獣ではありません。完全に神であり、罪はありませんでしたが、完全に私たちと同じような人となられた子羊です(へブル2:17; 4:15)。

『あなたはキリストの血でおおわれていますか。』

そうではあっても、すべての予型論と同じように、イエスは旧約聖書の型と多くの点で一致しています。過越の小羊と同じように、イエスは成長した男性でした(ルカ3:23)。イエスの骨は一本も折られませんでした(出エジプト12:46; ヨハネ19:36)。イエスは徹底的に調べられましたが、何の欠点もないことが判明していました(Iペテロ2:22)。そしてイエスは、私たちの罪のために屠られたのです(Iコリント15:3; 黙示録1:5)。私たちは「銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、尊い血によっ(て)」贖われたことを誇ります(Iペテロ1:18-19)。

パウロが「私たちの過越の子羊キリストは、すでに屠られた」と言ったのは、こういう意味なのです。私たちの救いはイエスの身代わりによってもたらされます。だからこそ神は私たちに、「イエスの血を見て、あなたがたのところを過ぎ越す」と言うことができるのです。

残る疑問はひとつだけです。

キリストの血とあなたの関係

あなたはキリストの血でおおわれていますか。

出エジプト記12章を思い出してください。厳密に言えば、過越の子羊が屠られるだけでは不十分でした。神が彼らを過ぎ越すためには、その血が戸に塗られていなければいけませんでしたね。そこを省略してしまえば、子羊は何の役にも立たなかったのです。同じように、ジャン・カルヴァンもこのように書きました。「キリストが私たちの外に留まる限り、そして、私たちがキリストから離れている限り、人類の救いのためにキリストが苦しまれ、成し遂げられたすべてのことは、私たちにとって何の役にも立たないし、何の価値もない」(キリスト教綱要III.1.1.)。

あなたのために刺し通された子羊を見上げ、神の怒りからあなたを守る唯一の方として、信仰によってキリストを受け入れなければいけません。キリストの血があなたに適用される手段が信仰です。もしあなたが身を低くして、信仰をもってキリストの戸をたたくなら、キリストの家にはあなたのためにも十分な部屋があることがわかるでしょう。そしてあなたに適用された血を見るとき、神はあなたを過ぎ越されるでしょう。

身代わりによる救い。

これが過越のメッセージです。

これが受難日のメッセージです。

そしてこれこそ、全世界の希望です。


This article has been translated and used with permission from The Gospel Coalition. The original can be read here, How Jesus Fulfilled the Passover.
この記事は「The Gospel Coalition」から許可を得て、英語の原文を翻訳したものです。原文はこちらからご覧いただけます:How Jesus Fulfilled the Passover