私は孤独です。あなたも共感できますか。それとも私だけでしょうか。普段の私を知っている人は、私が孤独だと聞いて驚くかもしれません。私は活気ある大きな教会の主任牧師で、周りにはいつも多くの人がいます。私の人生は常に「人間関係の渦中にある」と言えるのですから。私には夜電話したり立ち寄ったりできる家庭が何百とあり、いつだって暖かく受け入れてもらえます。私はまさに、人に囲まれていても孤独であり得ることの生き証人だと言えるでしょう。
牧師が深い友情を築くのは難しいものです。私は最近ある主任牧師と話す機会がありました。彼は非常に社交的ですし、何年も若者担当の副牧師として働いていた時には、いとも簡単に友情を築くことができたと言っていました。しかし主任牧師になってみて、どうして友情を築くのがこんなに難しくなってしまったのだろうと困惑しているそうです。彼も孤独を感じているのです。
もしかしたら、私は独身だから寂しいのかもしれません。独身者は、いつか配偶者が孤独の痛みを取り除いてくれると期待して生きています。結婚願望がある人が好む聖書箇所のひとつは創世記2章18節でしょう。「人がひとりでいるのは良くない」とあります。教会での交わりは確かに素晴らしい祝福ですが、毎日誰かと一緒に生きることができないというのは、独身者にとってやはり大きな試練です。自分に欠けているのは配偶者だと感じてしまいます。でも果たしてそうなのでしょうか。
感情というものは、その声にきちんと耳を傾けるならば、私たちの助けとなってくれます。孤独も同じで、きちんと向き合うときには敵や災難ではなく、私たちの友となり、役に立つ仲間になってくれるのです。孤独な時、私の魂には神学の真理が力強く響いてきます。なぜでしょうか。
神との深く親密な関係のために造られた自分
孤独にはするどい刃があり、私たちが神のかたちとして造られたがために、この刃が突き刺さります。私たちは設計された時点で、存在の始まりから、神のために、神によって造られました。これは創世記1章27節から明らかです。このように造られたからこそ、私たちは神と関係を持つことのできる霊的な存在なのであり、神のみが私たちを満たすことができるのです。
アウグスティヌスの有名な言葉に、「私たちの心は、あなた(神)の中に安らぎを見出すまで落ち着くことができない」というものがあります。私たちは自分の感情を誤って解釈することが多いです。私たちは「〇〇があれば痛みはなくなる」と考えますが、いかなる〇〇も、本物の影でしかありません。友人や仲間は素晴らしい祝福かもしれませんが、神のために造られた心にとってはどちらも不十分です。究極の存在にはなり得ません。孤独は神によって貼られた付箋のようなものです。そこにはこう書いてあります。「自分が誰のために造られたのかを忘れるな」と。
私も含め強い孤独感に襲われる人にとっては、これから私が書こうとしていることは妄想のように思われるかもしれません。しかしながら、孤独という強力な感情を理解し、これに打ち勝とうともがき苦しんだ私自身の経験から得たこととして、皆さんにお分かちしたいと思います。
自分を導く友として孤独を受け入れる
私たちは孤独を、どんなことをしても避けるべき敵として見ています。しかし、贖いが完了する前の「こちら側の世界」で生きている限り、私たちの人生が孤独から解放されることはありません。神は私たちの注意を引くために孤独を用いられます。ですから孤独の波が襲ってくるときには、私は意識的に次のように考えるようにしています。「私がこのように感じるのはなぜだろうか。私がこのように感じるのは、私が神のために造られたからだ」と。エリザベス・エリオットの助言に従って、私は孤独を「ひとりの時間」と捉え、ひとりの時間を祈りに使うようにしています。
こうすることで孤独は悪ではなくなります。むしろ、孤独は私たちを導く友となれるのです。ただ、これは私たちが神の意図されるように孤独に向き合う時にのみ言えることです。もし買い物に走ったり、チョコレートを食べすぎたり、自分を捨てた相手をじっと恨んでいたりするならば、孤独に備えられた神との歩みを深める能力を妨害してしまうでしょう。
共同体の力で「ひとり」にならないよう戦う
「ひとりでいること」と「孤独であること」は違います。人がひとりでいることは神の意図ではありませんでした。だからこそ、神はエバを創造し結婚を定められたのです。だからこそ、神は家族を造られたのです。だからこそ、教会は「からだ」と呼ばれているのです。神は誰もひとりでいることを望んでおられません。独房は刑務所のためであり、教会のためではないのです。
神は教会を「人が所属する場所」として制定されました(ローマ12:5)。私たちは神の家族です。けれども、一人ひとりが「他の人が私の必要を満たしてくれる」ことを期待して教会に来る限り、とても孤独な家族になるでしょう。自分のことを忘れ、他の人のことを気にかけ、他の人の必要、特に、自分の必要を満たしてくれそうもない人の必要を満たそうとするとき、私たちは孤独に打ち勝つのです。
青年会などの独身者のための働きではこの点が見逃されることが多いように思います。ずっと前、独身者の集まりに参加したときのことを思い出します。知らない人でいっぱいの部屋に入って行くときのあの恐ろしい感じは、独身者だけが知っているものだと思います。いっそのこと、「私には必要があります」という看板でも堂々と持って入ったら良いのではないかと思うほどです。私が入室するとみんなが話すのをやめました。部屋全体が一瞬止まって、私を上から下まで眺めました。そして何もなかったかのように会話が再開されたのです。あの瞬間、何が起こっていたのでしょう。部屋にいた人全員が、私は彼らの必要を満たすことのできる人物かどうか、見定めていたのだと思います。彼らの反応からして、私は失格だったようですね。
キリストのからだのどこででも、このような光景が見られます。神の民が自分の必要を満たしてもらうためだけに教会に関われば、必ずそうなるのです。これでは教会は立ち行きませんし、これこそ、私たちの多くが非常な孤独感に苛まれている原因なのです。私たちは、神との関係を求めて感じている痛みを、単なる人間に癒してくれるように期待しているのですから。
クリスチャンの共同体の力は次のように働きます。「愛されたい」という私たちの自然な欲求を反転させ、他の人を愛し、他の人に仕えていくことを選ぶとき、私たちを通して示される神の愛が私たちの内にうずく孤独を和らげるのです。「受けるよりも与えるほうが幸いである」とイエスが言われた通りです(使徒20:35)。愛には祝福という副産物があるのです。自分を与える愛は他の人の祝福となるだけではありません。これにより、私たちは聖霊による神のいのちを体験するのです。
私は「神がおられれば十分」と、本気で信じているか
孤独には「恐れ」という醜い双子の姉妹がいます。私は孤独を感じると、自分は一生孤独なままなのではないかと恐れます。私には魅力がないのだろうか、私は何かおかしいのだろうかと考えてしまいます。しかしここで、孤独は私たちを最も素晴らしい真理に導いてくれます。神は私たちが愛すべき存在だったから愛されたのではなく、ただ神が愛であられるがゆえに愛してくださったのだと。
次の聖句を思い出してください。「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます」(ローマ5:8)。そして「私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか」(ローマ8:32)。神の愛は、私たちが着飾るから、また、愛すべき存在になるからその資格が与えられるものではないことがわかるでしょう。神が恵み深く無償で差し出してくださる賜物として、私たちはただ神の愛を受け取るのです。この神の愛こそ、孤独な私の心が求めているものです。キリストを持つということは、この愛を知っているということなのです。
私には妻がいないかもしれません。でもキリストがいます。あなたには夫がいないかもしれません。でもキリストがいます。あなたは家族と離れているかもしれません。でもキリストがいます。あなたは未亡人かもしれません。でもキリストがいます。あなたは配偶者に捨てられたかもしれません。でもキリストがいます。そして、あなたも私もキリストのために造られたのですから、キリストがおられるということは、いつの日か二度と孤独を感じなくなることを保証するキリストの御霊を持っているということなのです。
ですから、私たちは新しい人間関係や友情、恋愛に究極の希望をかけてはならないのです。クリスチャンとしての私たちの希望は、私たちがもうすでに持っている関係を十分に理解することにあるのです。私たちが内向きになり孤独を感じるときにも、主はそこにおられます。そして主がおられるならば、孤独の谷にも道があるのです。
人間関係に絶望し、心の飢え乾きが満たされずにどん底だと感じるときには、このままずっとひとりの可能性を考えます。けれどもそこで、孤独が私を秘密の通路へと案内し、神のもとへと導きます。このような孤独の導きに従えば、私はそこで神の臨在と約束を見つけ、神を求めて感じている痛みが和らぐのです。ひとりでいるからといって孤独にならなくてよいのです。孤独は、私の魂が神のうちに安らぎを見出すために神が用いられる道なのです。