イエス・キリストの処女降誕

ブランドン・D・クロウ(著者) 、ブラッシュ木綿子(翻訳) - 2022年 08月 30日  - 

記事のフォーカス

イエスの処女降誕、より正確にはイエスの処女受胎とは、処女マリアが、通常の生殖過程を経ずに、超自然的に、聖霊の力によって、イエス・キリストを妊娠したという教えです。これにより、イエスは、罪の性質を持たずに生まれました。

要旨

キリスト教正統神学は、イエス・キリストが処女マリアから超自然的に生まれたと教えています。処女受胎の教義は、より一般的に処女降誕と呼ばれていますが、これは聖書の証しの上に築かれた教義であり、そのルーツは、私たちが調べることのできるキリスト教神学史の初期の初期にまで遡ります。この記事では、まず、処女降誕の神学的枠組みを紹介します。第二に、処女降誕に関する聖書の教えを考察します。ここでは、マタイとルカによる福音書の、処女降誕をはっきり教えている箇所に加え、処女降誕を示唆していると考えられる箇所、処女降誕を前提とした議論などを取り上げます。第三に、教父の著作を取り上げ、初代キリスト教会が処女降誕の教義について一致していたことを論じます。第四に、処女降誕の教義が持つ実践的な意味合いについて考えます。

神学的枠組み

『マリア自身は罪人ですが、聖霊が、マリアから生まれて来る子が聖いことを保証しました。』

処女降誕とは、イエス・キリストが通常の物理的な生殖過程を経るのではなく、超自然的に誕生したことを指します。マリアは、聖霊の力によって、処女であったにも関わらず、胎内にイエスを宿しました。永遠の神の御子が完全な人間として受肉する手段が処女降誕だったのです。こうしてイエスは真実の身体と、理性的霊魂をとって人となり、マリアより生まれました。イエスは、アダム以来自然に生まれた他のすべての人間の子孫とは違って、聖く罪のない者として生まれました。これも、処女降誕だからこそ、成し遂げられたことです。最初の人アダムが罪を犯したとき、アダムはイエスを代表してはいませんでした。イエスは「アダムの内」にいなかったのです。その代わり、イエスは新しい創造の頭となられました。

これから、処女降誕の聖書的根拠、教会史における処女降誕、そしてこの教義の持つ、実践的な意味合いについて論じます。二点確認しておきますと、私は、(1)マリアの永久処女性(永遠の乙女説)については論じませんし、(2)マリア自身が原罪から守られていたとされる無原罪の御宿り(無原罪懐胎)説についても論じません。どちらの教義も、聖書に裏付けがありません。

処女降誕の聖書的根拠

マタイとルカによる福音書

処女降誕が最もはっきり教えられている箇所は、キリストの誕生が記録されているマタイとルカによる福音書です。聖書でキリストの誕生が記録されているのはこの二箇所だけです。よって、どちらの記録にもイエスが処女によって生まれたと記述されているのは非常に重要です。

イエスの誕生についての最も詳しい記述はルカによる福音書にあります。御使いガブリエルがマリアに現れる箇所(ルカ1:26-38)で、マリアが処女(ギリシャ語:パルテノス)であったことがはっきりと書かれています(27節)。また、ルカの福音書1章34節では、マリアが、まだ男の人を知らないのに、どうして子を宿すことができるか、と聞いています。マリアは「男の人を知りません」と言っていますが、ルカの文脈を考慮すると、性的交わりを意味する聖書の慣用表現をマリアが使っていることは疑いの余地もありません。これに対し、御使いガブリエルは、生まれてくる子は男女の交わりによるのではなく、聖霊の働きによるのだと伝えています(ルカ1:35)。この一節は、聖霊の働きと、生まれて来る子の聖さとの間にある、密接な関係を明らかにしています。マリア自身は罪人ですが、聖霊が、マリアから生まれて来る子が聖いことを保証しました。マリアの子は父ダビデの王位に着き、とこしえに王国を治めることになります(ルカ1:31-33)。マリアは後にダビデの町、ベツレヘムでイエスを生み(ルカ2:5)、預言を成就させます(ミカ5:2)。

イエスの誕生は、マタイによる福音書にも記されています。マタイの福音書1章20節では、マリアが聖霊によって妊娠したことがはっきりと記されています。これはマリアとヨセフが性的に結ばれる前に起こったことです(1:18, 25も参照のこと)。ここで、ルカ同様、マタイでも「処女」という言葉がマリアに使われています。マタイは1章23節で「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」という、イザヤの預言を引用し(イザヤ7:14)、そして、「それは、訳すと『神が私たちとともにおられる』という意味である。」と付け加えています。イザヤで「処女」と訳されている単語の用法は広く議論されてきましたが、イザヤは処女を指していると思われますし1、マタイは、明らかにマリアを処女だと考えています。

『もしイエスが罪の性質を持って生まれていたとしたら、罪のない救い主にはなりえなかったでしょう。処女降誕こそ、聖なる神の独り子が罪なき人として受肉されるために必要な手段だったのです。』

新約聖書の他の箇所での処女降誕

キリストの誕生をはっきりと記録している上記二箇所で、マリアは聖霊によって身ごもったこと、また、マリアは処女であったことが書かれていました。こうした明確な箇所が、聖書の他の箇所を考える上で助けになります。新約聖書の他の箇所では、処女降誕がはっきりと言及されていないのですが、この教えが否定されることもありません。新約聖書は神の子の先在性を強調します。これは、処女降誕と合わせて考えるべき教えです。

ヨハネの福音書は、神の独り子の神性についての語りで幕を開きます。神の独り子は受肉する前に、「はじめ」から存在していました(参照:ヨハネ1:1-18; 17:5)。イエスは永遠のいのちを与えるために天から来られました(例えば、ヨハネ6:33, 40, 51)。ヨハネも処女降誕を示唆している可能性があります。ヨハネの福音書では、様々な誤解が、イエスに反対する人々の特徴として書かれています。その誤解の1つが、イエスの素姓です。彼らはイエスがどこから来たのか知っていると思っていますが、真の理解を欠いています。多くの人の認識とは違い、イエスは実際にはヨセフの子ではありません。(ヨハネ6:41-42; 8:41を見てください。7:27-28, 40-42も参照のこと。)

マルコによる福音書では処女降誕が取り上げられていませんが、これは問題ではありません。マルコはイエスの幼児期に言及せず、直ちにイエスの公生涯から切り出します。成人したイエスが、偉大な力と危急の主張をもって登場するのです(マルコ1:9)。

使徒パウロも処女降誕に触れませんが、彼の神学的枠組みは処女降誕を前提としています。パウロは、イエスを実在した人物(ガラテヤ4:4; Iコリント15:21)、それもダビデの家系に生まれた者(ローマ1:3-4)として話しています。しかし同時に、受肉前に存在していた方としても、語っています(例:ピリピ2:6; コロサイ1:15-20)。

『私たちの救い主は単に人間であるだけでなく、神性をもつ神の子でもあります。彼こそ神性と人性が結合した方、唯一救いを成し遂げることがおできになる方です。』

パウロの神学的枠組みは特にローマ人への手紙5章12-21節ではっきりと書かれています。ここでパウロは、イエスをアダムと並列させて語っています。アダムは最初の人であり、彼の人類を代表する行いにより、罪と死がすべての人に広がりました。対照的に、イエスを通しては、キリストにあるすべての人に義といのちがもたらされます。パウロはローマ5章で、人類を代表する契約の頭として、アダムとキリストを扱っています。二人とも代表者であり、二人の行いは他の人にも影響を与えます。もしパウロが処女降誕を信じていなかったとしたら、なぜアダムとキリストを並列させたのか、また、なぜキリストはアダムの罪に影響されなかったと考えたのか、理解できません(参照: Iコリント15:22, 47-48)2

新約聖書の他の著者で、処女降誕に明確に言及している人はいません。しかし、新約聖書は、血肉のからだを持たれたイエスの先在性と神性を、何度も強調しています(参照:ヘブル1:2-3; ヤコブ2:1; IIペテロ1:1; ユダ5; Iヨハネ1:1-4; 黙示録1:17-18)。神の御子の先在性と処女降誕は、密接に関連している教義として理解されるべきです。

教会史における処女降誕

聖書の証しを裏付けているのが、新約聖書以外の文書に記されている、イエスの処女降誕を信じる記述です。知られている最古のキリスト教著作に始まって、現在に至るまで、イエスの処女降誕は、正統なキリスト教神学の印となっています。処女降誕は、初代教会にまで遡る歴史をもつ使徒信条でも肯定されています。教会の指導者であったアンティオキアのイグナティオスは、おそらく紀元後110-117年の間という早い時期に書かれた著作の中で、何度も処女降誕に触れています3。二世紀の教父であったアテネのアリスティデス(西暦138年頃没)、殉教者ユスティノス(西暦165年没)、サルディスのメリトン(西暦170年頃)、リヨンのエイレナイオス(西暦180年頃)は皆、処女降誕を肯定していました4

実践的意味合い:処女降誕と救い

処女降誕は、長い間信じられ、聖書的に根拠があるにも関わらず、現代の科学的精査に耐え得ない時代遅れの教義として、しばしば批判されています。処女降誕は、20世紀初頭に、原理主義者とモダニストの間で繰り広げられた論争の火種の一つでした。最近では、処女降誕を受け入れてしまうと、イエスが進化の過程にいなかったことになるため、イエスと罪深い人類が共有する人間性の部分が減ると主張するも人もいます5

しかし、処女降誕は、好みで取捨選択できるような問題ではありません。この問題は、世界への神の超自然的な介入を信じるか否かという問題に加え、罪についての聖書の教え、アダムとキリストの間にある特異な並列関係、聖書の字義通りの解釈、キリスト教を統一する信条などに関わってきます。結論として、以下に、いくつかの実践的な意味合いを示します6

『処女降誕は、キリストの人格と働きとに密接に結びついています。』

第一に、処女降誕の教義は、私たちの贖い主が、本当に、完全に人間でありつつ、しかも罪のない方であったことを示します。イエスは超自然的に生まれましたが、それは、イエスの人間性が、私たちの人間性とは違ってしまうような形で行われたのではありませんでした(ヘブル2:10-11)。聖霊の働きにより、特異に女性から生まれた者として、イエスは原罪を免れ、唯一アダムと並列の関係にあります。もしイエスが罪の性質を持って生まれていたとしたら、罪のない救い主にはなりえなかったでしょう。処女降誕こそ、聖なる神の独り子が罪なき人として受肉されるために必要な手段だったのです。

第二に、処女降誕の前提です。イエスが先在する神の子でなければ処女降誕はありえませんでした。処女降誕は受肉する以前から既に神の子である方に相応しいものです。私たちの救い主は単に人間であるだけでなく、神性をもつ神の子でもあります。彼こそ神性と人性が結合した方、唯一救いを成し遂げることがおできになる方です。彼こそインマヌエル、私たちとともにおられる神です(マタイ1:23)。神がともにおられるというのは契約の語り口調であり、神が私たちの神として私たちの間を歩んでくださるという高尚な契約の約束を反映しています(レビ26:12を参照のこと)。

第三に、処女降誕は、救いにおける神の主導を示します。救いは賜物です。神の子の受肉以前には、多くの人が自分の手で永続する救いをもたらそうとしました。しかし神の計画は、神の定められた時に、神の定められた方法で遂行されました。永続する救いを成しえない人間の弱さ、無力さと圧倒的に対比されて、神の力が示されたのです。

結論

処女降誕は、他と何の関係もない教義ではありません。処女降誕は、キリストの人格と働きとに密接に結びついています。罪ある人によって死がもたらされたのと同じように、罪のない人によって死者の復活がもたらされます(Iコリント15:21を参照のこと)。教父エイレナイオスは印象に残る言葉を残しました。「もし神の子が処女によって生まれたことが受け入れられないのなら、死から復活されたことなど、どうして受け入れることができよう。」7

脚注

[1] See Christophe Rico, La mère de l’Enfant-Roi Isaïe 7,14: «ʿAlmâ» et «Parthenos» dans l’univers biblique: un point de vue linguistique, Étude de la Bible en ses traditions 258 (Paris: Cerf, 2013).

[2] See J. Gresham Machen, The Virgin Birth of Christ, 2nd ed. (1930; repr., Grand Rapids: Baker, 1965), 262–63.

[3] Ephesians 7:2; 18:2; 19:1; Smyrnaeans 1:1.

[4] See, e.g., Justin, Dialogue with Trypho 66–70, 84–85; 1 Apology 22, 33; Melito of Sardis, On the Passover 66, 70–71, 104; Irenaeus, Against Heresies 1.10.1; 3.4.2; 3.5.1; 3.9.2; 3.16.2; 3.18.3; 3.18.7; 3.19.1–3; 3.21–22; 4.9.2; 4.23.1; 5.19.1; 5.21.1; idem, Demonstration of the Apostolic Preaching 32–33, 36–39, 53–57; Aristides, Apology 2; Machen, Virgin Birth, 2–43, cf. 317–79.

[5] Andrew T. Lincoln, Born of a Virgin? Reconceiving Jesus in the Bible, Tradition, and Theology (Grand Rapids: Eerdmans, 2013), e.g., 9, 255, 258–59.

[6] These follow closely my discussion in Brandon D. Crowe, Was Jesus Really Born of a Virgin?, Christian Answers to Hard Questions (Phillipsburg, NJ: P&R Publishing; Philadelphia: Westminster Seminary Press, 2013), 26–28.

[7] Irenaeus, Dem. 38. Translation from On the Apostolic Preaching, trans. and ed John Behr, Popular Patristics Series 17 (Crestwood, NY: St. Vladimir’s Seminary Press, 1997), 64.

参考文献

  • Bavinck, Herman. Reformed Dogmatics. Edited by John Bolt. Translated by John Vriend. 4 vols. Grand Rapids: Baker Academic, 2003–8, esp. §§366–67 (3:286–95).
  • Crowe, Brandon D. “Of the Virgin’s Womb.” TableTalk 12 (2018): 20–21.
  • Crowe, Brandon D. Was Jesus Really Born of a Virgin? Christian Answers to Hard Questions. Phillipsburg, NJ: P&R Publishing; Philadelphia; Westminster Seminary Press, 2013.
  • Holmes, Michael W., ed. and trans. The Apostolic Fathers: Greek Texts and English Translations. 3rd Grand Rapids: Baker Academic, 2007.
  • On the Apostolic Preaching. Translated and edited by John Behr. Popular Patristics Series 17. Crestwood, NY: St. Vladimir’s Seminary Press, 1997.
  • Keener, Craig S. The Gospel of Matthew: A Socio-Rhetorical Commentary. Grand Rapids: Eerdmans, 2009.
  • Lighfoot, John. The Apostolic Fathers.
  • Machen, J. Gresham. The Virgin Birth of Christ. 1930. Repr., Grand Rapids: Baker, 1965.
  • Mohler, Albert. “Must Christians Believe in the Virgin Birth?” Ligonier.com
  • Rico, Christophe. La mère de l’Enfant-Roi Isaïe 7,14: «ʿAlmâ» et «Parthenos» dans l’univers biblique: un point de vue linguistique. Étude de la Bible en ses traditions 258. Paris: Cerf, 2013.
  • Turretin, Francis. Institutes of Elenctic Theology. Translated by George Musgrave Giger. Edited by James T. Dennison, Jr. Phillipsburg, NJ: P&R Publishing, 1992–97, esp. question 13.5 (2:306–10). Latin version available online here.
  • Vos, Geerhardus. Reformed Dogmatics. 5 vols. Translated and edited by Richard B. Gaffin, Jr. Bellingham, WA: Lexham, 2012–16, esp. 3:187–91.

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