「聖書はつまらない!」に聖書で戦う方法

「聖書はつまらない病」に聖書で戦う方法

ジョン・ブルーム(著者)、ブラッシュ木綿子(翻訳)-  2022年 08月 30日 - 

本を書きなさいという課題があなたに与えられたとしましょう。ただし、その本は、何千年にもわたって人々に意味のあるものでなければならず、また、世界史上最も偉大な文明をも根こそぎ変えるほどの影響力を持つ本でもなければなりません。さて、あなたなら、どうしますか。

よし、ではまず編集に1,500年以上かけ、少なくとも40人の著者を雇い、多くの文学ジャンルを取り入れ、3ヶ国語(へブル語、アラム語、ギリシャ語)で書かれた本にしよう、と思うでしょうか。おそらく思わないでしょう。

こういう事業に際して、神が私たちに相談を持ちかけないのは良いことですね!

聖書はこの世で一番素晴らしい本です。私たちが聖書をつまらないと思うときには、一歩下がって、この文学作品がどれほど素晴らしく、ユニークで、力強いものなのかを思い出す必要があるかもしれません。聖書は、比類の無い影響力を持ち、その主張は大胆で、どんなに(かたく)なな罪人をも謙虚な聖徒に変えてしまうという、無敵の本なのですから。

比類なき影響力

『聖書は、比類の無い影響力を持ち、その主張は大胆で、どんなに頑なな罪人をも謙虚な聖徒に変えてしまうという、無敵の本なのです。』

聖書という書物を用いて、神が成し遂げようとされたことを、考えてもみてください!神は、救いの真理(福音)を、何千という多様な文化の、何千という異なる言語を話す人々に対し、何千年にも渡って理解し信じ続けることができる形で、提供されたのです。どの時代であろうと聖書のメッセージは信じられ、最も洗練された文化でも、最も原始的な文化でも、福音を信じて生きる人々が起こされているというのは、本当に驚くべきことではありませんか。

それだけではありません。神は、聖書の最も重要な部分が、小さな子供や教育を受けていない大人にも理解できるようにされました。しかし聖書は、同時に、どのような学術的な文学批判にも耐え得るのです。歴史を見渡しても、聖書以上に批判を受けてきた本はありません。批判の大砲が、ボカンボカンと容赦なく撃ち込まれました。しかし、聖書という名の船は沈まないのです。

聖書がノーベル文学賞に選ばれることはないでしょうが、聖書の文学性は間違いなく注目に値します。とにもかくにも、世界史上、聖書のように昔も今も歴史の流れを形成し続けてきた本はないのです。聖書は、歴史的現象として、真に類なき本なのです。

大胆さ

そして、聖書の主張は何とも大胆です。だからこそ聖書は、読む人の応答を二分するのです。それは、献身と憎しみです。J.C.ライルが言うように、

もし聖書が霊感によって書かれた神の言葉でないとするならば、キリスト教世界は、1,800年(現在は2,000年)もの間、妄想に惑わされていたことになる。人類の半数は(だま)され、(あざむ)かれていたのであり、教会は「愚かさの記念碑」以外の何物でもない。しかし、もし聖書が霊感によって書かれた神の言葉であるとするならば、信仰を拒む者は皆、恐るべき危険の中にいることになる。実に彼らは、永遠の悲惨に落とされる瀬戸際で生きていることになるのだ。

(Old Paths, 11)

聖書自体は、「聖書はすべて神の霊感による」(IIテモテ3:16)、「完全」(詩篇19:7)な神のことばであり、それは「生きていて、力があり…心の思いやはかりごとを見分けることができ」(ヘブル4:12)ると主張しています。

『聖書は、それ自体で神の栄光を証しするものであるが、この、神の民の人格と行いにおける変化も、神の栄光の証しとなる。』

書き記された神のことばのクライマックスとして記録されているのが、ナザレのイエスの生涯と教えです。聖書は、イエスを「受肉したことば」だと記しています(ヨハネ1:1)。そして、この受肉したことばは、自分こそ、燃える茂みからモーセに語ったことばであり(出エジプト3:14; ヨハネ8:58)、「道であり、真理であり、いのち」であり、自分を通してでなければだれも神のみもとに行くことはできないと、大胆に主張しました(ヨハネ14:6)。

聖書を文字通り受け入れ、イエスの言葉をその通りに受け入れるとすると、読者には二つの選択肢しか残されません。イエスを万物の創造主であり、悔い改める者を救われるお方だと受け入れて御前に膝をかがめるか、あるいは、イエスを史上最も危険な誇大妄想家だとして拒むかの二択です。聖書を信じる者が騙された愚か者なのか、聖書を信じない者が恐ろしい危険にさらされているのか、どちらかなのです。中立の立場というものはありません。聖書について生ぬるい人は、聖書の主張を真剣に聞いていない人です。

無敵の力

しかし、この本を真摯に受け止め、その主張と指し示される救い主を受け入れる人々の生活の中に、この本の真の力を見ることができます。ジョン・パイパーはこのように書いています。

聖書の神の「特有の栄光」は、神の民に反映されている。彼らは、自己中心で自己顕示欲の強い者から、神中心でキリストを讃えるしもべにと変えられ、他者のために生きるようになる。この点で、彼らはキリストのような存在である。キリストは、自分を低くする愛が持っている特有の栄光を、完全に体現した。聖書は、それ自体で神の栄光を証しするものであるが、この、神の民の人格と行いにおける変化も、神の栄光の証しとなる。みことばによって劇的に変えられる人ほど、聖書の神の存在を証しするのだ。

(A Peculiar Glory, 260)

聖書は、様々な歴史的惨事を誘発する原因であったと、よく非難されます。しかしながら、これは聖書に記されている歴史、また、聖書の外で繰り広げられた歴史についての、無知で、愚かで、時に故意に誤解を招くようになされた解釈です。有史以来、人間は、金銭、セックス、権力を求める、邪悪で自己陶酔的な欲望を満たすために、ありとあらゆる力を操り、ありとあらゆる宗教を用いてきました。しかし、聖書が邪悪な欲望に悪用されてきたというのは、真実ではありません。それどころか、聖書は、邪悪な欲望によってこのようなことが起こっても、全く驚くことはないと、教えているのです。

『聖書の物語る真実は、罪人を救う、比類なき神の力です。聖書は、残忍で、貪欲で、性的に不道徳で、病的に自己中心的な人々を、謙虚で、自己犠牲的で、仕える心のある、神と人を愛する人たちに変えます。』

聖書の物語る真実は、罪人を救う、比類なき神の力です。聖書は、残忍で、貪欲で、性的に不道徳で、病的に自己中心的な人々を、謙虚で、自己犠牲的で、仕える心のある、神と人を愛する人たちに変えます。歴史上、どのグループの人々よりもキリスト者が、貧困者の支援、病人の世話、大衆教育、不正の排除などに、第一線で取り組んできたのには理由があります。それは、聖書の教えです。

本気で世界を変えたいですか。ならば、真剣に聖書に取り組み、マタイの福音書22章37-39節でイエスが語られたことばに従うべきです。このことは、歴史も証ししています。

もちろん、歴史を見ると、悲惨で恥ずべきキリスト者の失敗も目立ちます。しかし、より大きな(通常、貪欲が動機の)文化的な失敗(例えば、アフリカの奴隷貿易やアメリカ先住民に対する度重なる裏切り)をよく調べてみてください。最も犠牲や危険が大きい時に、抑圧された人々の権利を守るために立ち上がった数少ない人たちは、誰だったでしょうか。時代に合わせた自由主義の宗教家でしょうか。無神論者でしょうか。いいえ、真剣に聖書を信じ、聖書に従うキリスト者です。自分たちの命を危険にさらしてでも、他人の差し迫った必要へと彼らを向かわせる比類のない力が、聖書にはあるからです。

なんと言われようと、退屈ではない

聖書は世界で最も素晴らしい本です。聖書を愛し信じることも、憎み(さげす)むこともできます。しかし、その比類のない世界的影響力と大胆な主張、そして人生を美しく変革する無二の力を否定することはできません。聖書は、他のどの本にも成しえないことを成してきたのです。

そして、私もあなたも、その聖書を手にすることができるのです!

聖書が退屈になっていますか。なんてことでしょう!これぞ、有限で堕落した自己中心な肉の災いです。どんなに尊い宝でさえも、身近なものになったというだけで、いとも簡単に飽きてしまうのです。父なる神、私たちをお赦しください。何にでも退屈してしまうという私たちの恐るべき能力が去り、驚嘆の心を持ち続けるという、驚くべき能力を得ることができるその日を、早めてください。

もし聖書があなたにとってつまらないものになってしまっているとしたら、その「つまらない病」と戦いましょう!聖書がどんなに驚くべき本なのかを思い起こし、もう一度驚くのです。聖書を見直し、時間をかけて、よく見てください。聖書を退屈に思う時ほど、聖書を読み続ける必要があるのです。「特有な栄光」が再び輝くまで、もう見たくないとは思わなくなるまで、見続けるのです。人は、この栄光を見ることはできても、決して見極めることはできないのですから。


This article has been translated and used with permission from Desiring God. The original can be read here, Yawning at Majesty.
この記事は「Desiring God」から許可を得て、英語の原文を翻訳したものです。原文はこちらからご覧いただけます:Yawning at Majesty