今月の漢字、「住」は、人偏(イ)に主です。「主」は、台の上で火がじっと燃えている形です。昔、火をともして明かりをつけたら、家の中心に置きました。それで「主」は、家の中心の者(ぬし、あるじ)や、中心となるものを表します。また、「主」に部首をつけると、火が長く燃える様子の「じっと」の部分が生きてきます。木偏をつけると「柱」(じっと動かない木)になり、さんずい(氵)をつけると「注」(そそぐ)になります。水は、じっと少しずつ流さないとこぼれてしまいますからね。そして、人偏をつけると「住」。人がじっと長くとどまる場所が、住んでいる場所だということですね。
さて、聖書の神は、主なる神です。キリスト教の宣教師だったパウロが、「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主です」と言っている通りです(使徒17:24)。そして聖書は、神は光だと教えています。イエスの弟子だったヨハネは、「神は光であり、神には闇が全くない」と書きました(Iヨハネ1:5)。だから、「主」という漢字は、意味も形も、聖書の神を表すのにぴったりですね。そして私は、この神と人が隣同士に並んだ「住」という漢字は、クリスマスにぴったりだと思うのです。先ほどのヨハネは、神を「ことば」と呼んで、福音書の冒頭でこのように書いています。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」(ヨハネ1:14)。神が、天地の主が、人となって私たちの間に住まわれたという、この驚くべき出来事を覚えて祝うのが、教会のクリスマスです。
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。(ヨハネ1:14)
これは本当に驚くべきことだと思います。一緒に生活している人が、人となった神?そんなことを、すぐには信じられませんよね。当時の人も、このことが起きたとき、それがわからなかったし、受け入れなかったと聖書に書いてあります。日本人は、人が何かすごいことをすると、すぐ「神業だ」、「神対応だ」と騒ぎます。とは言え、神と人間の境界線がルーズな日本人でさえ、その人が本当に神だとは思っていませんよね。厳格な一神教のユダヤ人は、もっともっと厳しく、神と人間の間に線引きをしていました。人間と神を同一視することは絶対にできませんでした。「人となった神」というのはイエスのことですが、イエスが嵐を静めたり、律法の専門家を黙らせるような返事をしたり、他に数え切れないほどの神業、神対応をしても、イエスが生きている間は、「人となった神が私たちの間で生活されている」とは思われていなかったのです。
これが変わったのが、イエスが十字架で死んだ後、復活したイエスに人々が会ったときです。最後まで復活を信じられなかった弟子のトマスも、イエスに会って、イエスに向かって「私の主、私の神よ」と言いました(ヨハネ20:28)。ついこの間まで一緒に生活していたイエスは神だったのだと、ユダヤ人のトマスが認めたのです。
それから二千年。イエスが人となった神だったと受け入れる人と、受け入れない人と、いつの時代にも人々の反応は分かれています。でも、受け入れた人には神の子どもとなる特権が与えられるというのが、聖書の約束です(ヨハネ1:12)。みなさんも、今年のクリスマスには教会に足を運んで、イエスについて知ってみませんか。
「漢字の向こうに聖書が見える」のシリーズは、福音歌手森祐理さんのラジオ番組「モリユリのこころのメロディ」で取り上げられました。祐理さんは、CBI Pressから昨年出版されたデボーションガイド、『365日の恵み浴』を使っています。皆さんも、主の恵みを浴びて一日を始めてみませんか?