魂の錨となる希望

漢字の向こうに聖書が見える:2024年3月

ブラッシュ木綿子(著者)-  2024年 03月 01日 - 

思い切って跳んでみよう
そこでならはっきり見える

今月の漢字は「確」で、左に石偏、右にカタカナの「ワ」(⼍)とふるとり(隹)があります。石は崖下の石の形を、隹は尾の短い鳥の形を表します。そして隹の上に⼍がつくと、鳥かごの中にいる鳥になります。

英語で「A bird in the hand is worth two in the bush.」 という(ことわざ)があります。手の中にいる一羽の鳥は、(やぶ)の中にいる二羽に値する、という意味です。少なくても確実に自分のものとなっているものの方が、手に入るかわからない多くのものより価値があるということで、日本語だと「明日の百より今日の五十」です。でも、手の中よりも、さらに確実に自分のものとなっている鳥がありますね。そう、鳥かごの中の鳥です。ですから「確」の右側には、「しっかりして動かない」という意味があります。「確」の左側も石偏ですから、かたく、動きません。そこで「確」は左右合わせて、最強レベルに「まちがいない、しっかりして動かない」の意味になりました。

漢字の向こうに聖書が見える:確
さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。(ヘブル人11:1)

この新聞を定期的に読んでいる方の中には、「聖書のメッセージは本当かもしれない」と思い始めている方もおられるかもしれません。寸分の狂いもなく、精緻に造られた世界が指し示す、神の知性。聖書の預言と、その成就が指し示す、救い主イエスの存在。弱虫で、イエスを捨てて逃げた一握りの弟子たちが、殉教をいとわず建て上げた教会が指し示す、復活の史実。よく見れば、聖書の主張が真理であることを示すエビデンス(証拠)が色々とあるように思われます。そして自分の内を見つめれば、確かに罪の問題と向き合わざるをえません。聖書の伝える罪の問題の解決、「福音」が、本当に「良い知らせ」のように聞こえてきた方もおられるのではないでしょうか。

聖書の信仰は、理性に反するものではありません。たとえば、エビデンスが全部右を指しているのに、目をつぶって左に跳ぶことが、信仰を持つことではありません。しかしながら、やはり神は目に見えないし、聖書の真理は科学の実験で証明できる類のものではないので、理性を超えて信頼しなければいけない面があります。先ほどのたとえで言えば、石橋を(たた)いて渡るように、安全が確認できなければ右方向に行かないのではなく、あるときに「えいっ」と一歩、右に跳ばなければいけないでしょう。でも一歩跳んで信仰の世界に入ったとき、「望んでいること」が保証され、「目に見えないもの」を確信できる大きな喜びが与えられます。聖書の約束する罪の赦し、神との和解、永遠のいのちが、鳥かごの中の鳥のように、確実に自分のものとなるのです。

この連載では二年間にわたり24の漢字を使って聖書を(のぞ)いてきました。分厚くて難しそうな聖書ですが、そのエッセンスは神の愛、救いと希望です。聖書に、信仰者の持っている希望は「安全で確かな、たましいの(いかり)のようなもの」と書いてあります(ヘブル人6:19)。この世界で生きていくのは大変です。大波に()まれそうになることがあります。だからこそ、たましいの錨となるような聖書の教える希望を、ひとりでも多くの方に見つけていただきたいと思います。(終)


「漢字の向こうに聖書が見える」のシリーズは、福音歌手森祐理さんのラジオ番組「モリユリのこころのメロディ」で取り上げられました。祐理さんは、CBI Pressから昨年出版されたデボーションガイド、『365日の恵み浴』を使っています。皆さんも、主の恵みを浴びて一日を始めてみませんか?

聖書 新改訳2017©新日本聖書刊行会

この記事は『クリスチャン新聞福音版』2024年3月号(No. 570)より、許可を得て転載しています。