風に語りかけるような言葉

1月16日 第16日

ジョン・パイパー(著者) 、楠 望(翻訳) - 2024年 01月 16日  - 

「ことばで私を責めるつもりか。絶望している者のことばを、風とみなすつもりか。」

(ヨブ記6:26)

悲しみと痛み、絶望の中にいるとき、人は普段なら言わないことまで言ってしまうものです。明日になって太陽が昇れば変わるのでしょうか、しかし今彼らは、現実を暗い色で描かずにはいられません。短調(マイナーキー)の歌を口ずさみ、それ以外の音楽は存在しないかのように話します。そして空など存在しないかのように、その目には雲しか映っていません。

「神はどこにいるのか」と彼らは言います。または「続けても意味がない」「何もかもが理不尽だ」「私には希望がない」「神が善いお方なら、こんなことは起こらないはずだ」とも言うでしょう。

私たちはこのような言葉をどう受け止めるべきでしょうか?

ヨブは、彼らを責める必要はないと言います。このような言葉は風のようなものであり、文字通り「風に語りかけている」のです。このような言葉は、すぐに舞い散ってしまいます。状況が変わるたびに発せられ、絶望していた人があるとき暗い夜から目覚めると、その軽はずみな言動を後悔するのです。

ですから、私たちに大事なことは、そのような言葉を責めることに時間とエネルギーを注がないようにすることです。それらは風に乗って舞い散ってしまうものだからです。秋の枯れ葉を刈る必要はないのと同じです。そんな労力は無駄でしょう。いずれはみな、風に吹かれて散ってしまうのですから。

ただ風に語りかけるような言葉に対し、いかに私たちは直ちに神を弁護しようとしたり、真理を弁護しようとしたりすることでしょうか。私たちに見極める力があれば、それが根を張った言葉であるか、ただの舞い散る言葉であるか、わかるはずです。

確かに、深い過ちと深い悪に根差した言葉も存在します。しかし、灰色の言葉がすべて、黒い心からその色を得ているのではありません。痛みや、絶望によって灰色がかっていることもあるのです。あなたの耳に入る言葉がすべて、最も深いところから生まれているとは限らないということです。もちろんその根っこには、確かな暗い要素もあるでしょう。しかし、それは一時的なことです。いずれ癒えていく感染症のように、確かで、痛みを伴いますが、その人の真実の姿ではありません。

ですから、しっかりと見極めることを学びましょう。私たちに敵対して語られているか、また神に敵対して語られているか、真理に敵対して語られているか、またはただ風に語りかけているだけなのか——魂からではなく、痛みから語られているのか、判断しましょう。もしそれが、風に語りかけているだけの言葉なら、私たちはただ静かに待ち、責めてはいけません。私たちの愛の目指すところは、魂の回復であり、痛みを責めることではありません。

 聖書 新改訳2017©新日本聖書刊行会

THIS ARTICLE HAS BEEN TRANSLATED AND USED WITH PERMISSION FROM DESIRING GOD. THE ORIGINAL CAN BE READ HERE, Words for the Wind.
この記事は「DESIRING GOD」から許可を得て、英語の原文を翻訳したものです。原文はこちらからご覧いただけます: Words for the Wind