最後のアダム、イエス・キリスト

ブランドン・D・クロウ(著者)、ブラッシュ木綿子(翻訳)-  2022年 08月 30日 - 

記事のフォーカス

神は大地のちりから最初の人間アダムを形造ったと聖書は教えています。アダムの不従順によって世界に死が入り、この死は全人類に及びました。対照的に、イエス・キリストの従順によって、いのちがもたらされます。このイエス・キリストこそ、第二のアダムであり、最後のアダムなのです。

要旨

この記事は、聖書で描写されているアダムと、アダムとキリストとの関係性に焦点を当てています。まずは、神がアダムと結ばれた契約など、旧約聖書がアダムについて何と書いているのかを考えます。神は初めにアダムと契約を結び、完全な従順を条件に、永遠のいのちを約束されました。したがって、アダムを契約の「(かしら)」として捉えるのが良いでしょう。すなわち、アダムの行動が「アダムの内にいる」すべての人に影響を与えるということです。次に、新約聖書におけるアダムの記述を見ますが、ここでは人としてのキリストとキリストの働きに、密接な結びつきがあります。これは、特に福音書、使徒の働き、パウロ書簡を見ると明らかです。イエスはアダムと同じく契約の「頭」です。しかし、イエスはアダムと違って完全に神を愛し、神に従いました。代表としてのイエスの従順は、アダムの不従順を克服し、信仰によってキリストと結ばれたすべての人に与えられます。最後に、聖書がアダムについて教えていることが、私たちにどう関係してくるかという、この教えの実践的な意味合いを考えてみたいと思います。

概要

聖書はアダムが世界史上最初の人間だったと教えています。しかし、人類は長い期間を経て今のように進化したとする、進化論に基づいた学説の影響力が増すに連れ、アダムの歴史的信憑性は広く議論され、しばしば否定されるようになりました。だからこそ、旧新約聖書がアダムについて何と教えているか、また、そうした教えがどうして大切かを、注意深く検討する必要があります。これは単なる雑学の域をはるかに越えることであり、聖書の歴史と救いのみわざにおけるアダムの役割は、非常に重要です。

旧約聖書におけるアダム

創造

創世記によれば、神は天地創造の六日目に男と女を創造されました(創世記1:26-27)。人間の創造については、創世記2章に、より詳細に書かれています。主なる神は大地のちりで人を形造りました(創世記2:7)が、これは特別な創造の行為です。人が下等生物から進化したものだとは、書いてありません。さらに、まず先に男性としてアダムが造られ、後にアダムの脇から女性であるエバが創造されました(創世記2:21-23)。ここに表れている男女の秩序は、はじめからの神のご計画でした(参照 マタイ19:4-6; Iテモテ2:13)。

アダム契約と堕落

神がアダムと契約を結んだことも創世記から知ることができます。この契約はしばしば「行いの契約」(あるいは「創造の契約」、「いのちの契約」、「自然の契約」など)と呼ばれます。この契約に関しては賛否があり、今も「行いの契約」という言葉に違和感をもつ人がいます。しかし、正しく理解すれば、聖書の本文をよく反映していると言えます。行いの契約と言いますが、アダムが行いによって神に近づくことができるという意味ではありません。というのも、アダムは被造物であり、その存在からして、神に従う義務を負っているからです。そうではなく、神はアダムと関係を持つために、自ら進んで契約を結んでくださり、完全な従順を条件に、アダムにいのちを約束された、ということです。「契約」という言葉そのものは創世記1-3章で使われていませんが、契約の要素(契約の構成員、規定、報いや呪いの可能性など)を見ることができます。またホセア6章7節はアダムとの契約を示唆していると考えられます。

『パウロはまるで、世界史にはアダムとキリストの二人しか存在しなかったかのように話す。この二人の腰に、万人が結ばれていたのだ。』

創世記2章16-17節では、アダムに試用期間が設けられ、試験が与えられています。善悪の知識の木から食べることを禁じられ、この戒めを破ったときの結果は死だと告げられます。この命令は決して気まぐれな戒めではなく、アダムの神への全き愛を試す目的で課された、総括的な戒めでした。アダムはあらゆる面で完全に神に従わなければなりませんでした。この契約において、愛と従順は、表裏一体だからです。はっきりと述べられていませんが、試験に合格した暁には、アダムは永遠のいのちを受け継ぐはずだったのでしょう。アダムは直ぐな者として造られました(伝道者7:29)。同時に、「豊かないのち」を手にするというゴールも目前でした。それにも関わらず、アダムは試験に落第し、その結果、死を招きました。(創世記2:17; 3:19)。それでも、主は女の子孫を通して人類の救済を約束されました(創世記3:15)。

旧約聖書の遺産

天地創造以降の旧約聖書では、アダムが名指しで語られることはほとんどありません。しかし、旧約聖書全体で、神がすべての人の創造主であることが前提とされており、それに基づいて女への約束がいろいろと具現化していきます。アダムの歴史性は創世記5章1-3節、歴代誌第一1章1節の系図に反映されていて、新約聖書でも、これが確認されています(ルカ3:38; ユダ14)。ホセア6章7節に加えて、ヨシュア記7章21節も、アダムの最初の罪に言及していますし、ヨブ記31章33節、イザヤ書43章27節でも、同じことが言えるかもしれません。

新約聖書におけるアダム

福音書

新約聖書も、アダムが最初の人間であると、はっきり語っています。イエスの処女降誕は、アダム以来の誕生の型を破るもので、これによりイエスは、新しい人類の聖なる頭となりました(参照 ルカ1:31-35; 3:38)。アダムは、ある意味で、神の子です(創世記5:1-3)。イエスは、もっと根本的な意味で、神の子です。ルカによる福音書では、イエスの超自然的な神の子としての地位が、バプテスマで宣言され(ルカ3:22)、荒野で試されて(ルカ4:1-13)示されています。バプテスマと荒野の誘惑の橋渡しとなっているのがルカの系図です。ここでキリストは、アダムの子孫として記されています(ルカ3:38)。同様に、マルコの福音書でも、イエスが誘惑に直面した際に、神に忠実に従ったことが書かれていますが、イエスは、呪いの結果を覆す新しいアダムとして、このようにされたのです。アダムの罪は不協和音といばらをもたらしましたが、イエスは荒野で従順を通し、野生動物と平和に過ごしました(マルコ1:12-13)。

『アダムは、単なる例として取り上げられているのではなく、歴史的な真理、霊的な現実として、罪の起源と、罪からの救いを説明する際に取り上げられています。』

福音書はアダムの要素であふれかえっています。イエスが自分のことを指して頻繁に用いていた「人の子」という称号は、ダニエル書7章13-14節に由来していると考えられますが、そこでは、人の子の王国(創世記1-2章、詩篇8篇)が、不敬虔な、獣のような王国と対比されています。アダムは、神のお造りになったものを支配するべく、尊厳と威光をもって創造されました。人の子は新しいアダムであり、永遠の王国を支配する者です。福音書の中でイエスは、人類の代表として、最初の人が犯した罪を克服し、救いを達成します。イエスは従順によって強い者を縛り上げ、悪魔に束縛されている人を解放し、罪の赦しを与えるのです(マタイ12:22-32、マルコ3:22-30)。1

イエスの死でさえ、アダムを連想させる表現で描かれています。ヨハネの福音書で、ピラトがイエスを群衆の前に引き出す場面があります。イエスは、いばらの冠と紫色の衣を身にまとった、ユダヤ人の王として立たされます。ピラトは「見よ、この人だ。」(ヨハネ19:5)言いますが、これも、創世記3章22節の神がアダムについて言った言葉、「見よ。人は・・・」と呼応しているのです。この皮肉な場面は、キリストのアダムとしての働きの、王としての側面を映し出しているのです。イエスはメシアを偽った者として死刑を宣告されますが、新しいいのちによみがえることで、何の罪もなかったことを示されました。アダムと違って、イエスは神を愛し抜きました。完全に従順な神の人として、イエスは死からよみがえり、永遠の御国の玉座に着かれました。ヨハネ20章15節(参照 19:41)で、マリアがイエスを園の管理人と間違えたことも、実は、適切です。最初のアダムが園で神に従う責任を負ったように、イエスも、園で新たないのちを得たのです。2

教父エイレナイオスは、特にその死と復活において顕著に見られるアダムとキリストの並列性を、詩的にうまく捉えています。木の下の不従順で罪が世界に入ったように、イエスは木の上の従順で、罪を克服されました(十字架上の従順)3。アダムを通して死が入ったように、キリストを通していのちが来たのです。この点は、パウロの手紙の中でさらに明確にされています。

使徒の働き、パウロ書簡

使徒パウロはアダムについて多く語っていますが、ほとんどの場合、イエス・キリストの人格と働きに関連させています。鍵となる箇所はローマへの手紙5章12-21節とコリント人への手紙第一15章20-49節でしょう。ローマ5章12-21節では、一人の人間(アダム)の罪によってすべての人が罪に定められ、死ぬ運命となったことが書かれています(5:12, 18)。アダムの代表的な不従順に取って代わるのが、イエスの代表的な従順なのです。この従順はイエスにあるすべての人に義といのちを与えます(5:18-19)。アダムは、単なる例として取り上げられているのではなく、歴史的な真理、霊的な現実として、罪の起源と、罪からの救いを説明する際に取り上げられています。アダムが本当に人類の頭であるからこそ、アダムの行いによる、死とさばきの普遍性が説明されるのです。アダムの歴史的行いは、もう一人の歴史的行いによって克服されなければなりませんでした。イエス・キリストこそ、義といのちをもたらすために、歴史の上に現れた人なのです。

『アダムの歴史的行いは、もう一人の歴史的行いによって克服されなければなりませんでした。イエス・キリストこそ、義といのちをもたらすために、歴史の上に現れた人なのです。』

パウロは、コリント人への手紙第一15章21-22、44-49節でも、キリストに関連させてアダムについて語っています。ここでもパウロは、アダムとキリストの二人を頭とする契約の枠組みを明らかにしています。15章21節では、死が一人の人を通して来たのだから、死者の復活も一人の人を通して来ると述べています。パウロは、一人目の人間であるアダム(15:45)と、最後であり二人目のアダムであるイエス・キリスト(15:45, 47)を、世界の歴史の中で示された人類の代表として語っています。例外なく、世界史上あらゆる人の運命が、この二人との関係にかかっているのです(15:48-49)。4

同様に、使徒の働き17章に記録されているアテネでの説教で、パウロは、神がすべての人を造られたお方であると語っています。神は一人の人から(ギリシャ語:エクス・ヘノス、17:26)あらゆる民を造り出して、地の全面に住まわせたと言っています。これもアダムを指しての言葉でしょう。そしてパウロは、今度はキリストを指して、この一人の方、すなわち死者の中からよみがえり、すべての人をさばくイエス・キリストの支配のもとに、全ての人が置かれていると教えています(使徒17:30-31)。

パウロはアダムとキリストを契約の頭として理解していました。神学者トーマス・グッドウィン(1600-1680)の言葉が印象的です。「パウロはまるで、世界史にはアダムとキリストの二人しか存在しなかったかのように話す。この二人の腰に、万人が結ばれていたのだ。」5

実践的な意味合い

  1.  聖書の神は理神論の語るような遠い神ではなく、世界を治め、被造物と交わりを持つ神です。神は大地のちりからアダムを造り、そのアダムと契約を結びました。そして、アダムが到底受けるに値しなかった報いを約束されました。アダムが罪を犯したとき、神は人類を滅ぼすどころか、世を救うために介入してくださいました。
  2. 聖書のアダムについての教えは、私たちの聖書信仰を試します。今日、アダムに関する聖書の教えを疑う人が多くいます。アダムが最初の人間だったという教えを攻撃しようとするなら、緻密で知的な議論を、いくらでも積み上げることができるでしょう。私たちは、選ばなければなりません。ありそうにない、ありえないと思われることでも、聖書の明白な教えを受け入れるかどうか。聖書の明確さと真実さが問われているのです。
    • さらに、歴史上の人物であるアダムについてはっきりと語っている聖書の箇所を疑うのであれば、他の箇所はどうなるのでしょうか。もしアダムが歴史的人物でないなら、ローマ5章とIコリント15章におけるキリストの働きについてのパウロの論理は成り立ちません。この意味するところは重大です。パウロは霊感を受けた使徒ではないのでしょうか。パウロの救いについての教えさえ、信頼できなくなるのでしょうか。パウロはキリストの代表的な働きがアダムの代表的な働きと並列関係にあると信じていますが、アダムが実在しないのであれば、キリストの働きが私たちのため、ということにもならないでしょう。これに対しパウロはどう説明するというのでしょう。
    • アダムの歴史性を否定してしまうと、パウロが間違っているだけでなく、少なくとも、創世記、歴代誌第一、使徒の働きの著者も、ルカも、ヨハネも、ユダも間違っていることになります。私たちが聖書の権威なのではありません。聖書が私たちの権威なのです。聖書の著者を被告席に立たせてはなりません。たとえ現代の考えに合わないものだとしても、私たちは聖書を信じなければなりません。
  3. キリストの働きは、人類を代表する働きとして、アダムと関連させて理解しなければなりません。キリストの従順こそがアダムの不従順に対する答えなのです。アダムは契約の頭として、私たちの代表として行動しました。イエスも同様に、契約の頭として行動されました。すなわち、イエスの働きが代理的に他の人に充てられるのです。「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです」(使徒4:12)。

脚注

[1] See further Brandon D. Crowe, The Last Adam: A Theology of the Obedient Life of Jesus in the Gospels (Grand Rapids: Baker Academic, 2017), 153–66.

[2] See, e.g., Crowe, The Last Adam, 195; Alistair Begg and Sinclair B. Ferguson, Name Above All Names (Wheaton: Crossway, 2013), 34–35.

[3] See e.g., Irenaeus, Demonstration of the Apostolic Preaching 34; idem, Against Heresies 5.16.3; cf. 3.18.1, 7; 5.16.3; 5.21.1.

[4] See Richard B. Gaffin, Jr., No Adam, No Gospel: Adam and the History of Redemption (Phillipsburg, NJ: P&R Publishing; Philadelphia: Westminster Seminary Press, 2015), 10–12.

[5] This is my paraphrase of Thomas Goodwin, “Christ Set Forth,” in vol. 4 of The Works of Thomas Goodwin (Edinburgh: James Nichol, 1862), 31.

参考文献

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  • Begg, Alistair and Sinclair B. Ferguson. Name Above All Names. Wheaton: Crossway, 2013.
  • Crowe, Brandon D. The Last Adam: A Theology of the Obedient Life of Jesus in the Gospels. Grand Rapids: Baker Academic, 2017.
  • Crowe, Brandon D. “The Passive and Active Obedience of Jesus Christ: Recovering a Biblical Distinction.” Pages 437–64 in The Doctrine on which the Church Stands or Falls: Justification in Biblical, Theological, Historical, and Practical Perspective. Edited by Matthew Barrett. Wheaton: Crossway, 2019.
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  • Gibson, David. “The Story of Two Adams.” Ligonier.com
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