3月12日 第72日
ジョン・パイパー(著者) 、楠 望(翻訳) - 2024年 03月 12日 - この記事は約2分で読めます。
「ああ、自分を形造った方に抗議する者よ。陶器は土の器の一つにすぎないのに、粘土が自分を形造る者に言うだろうか。『何を作るのか』とか『あなたが作った物には手がついていない』と。」 (イザヤ書45:9)
「ああ、自分を形造った方に抗議する者よ。陶器は土の器の一つにすぎないのに、粘土が自分を形造る者に言うだろうか。『何を作るのか』とか『あなたが作った物には手がついていない』と。」
無からの(ex nihilo)創造という視点から神を見るとき、神の威厳はより偉大なものとなります。神は無に命じ、無はそれに従い、有となりました。
神は無から粘土を造り、そして粘土から私たちを造られました。私たちは主の陶器です(イザヤ書45:9)。そのようにして造られた私たちは、主の所有物であり、主の栄光のために存在し、主に完全に依存しています。
「知れ。主こそ神。 / 主が 私たちを造られた。 / 私たちは主のもの 主の民 その牧場の羊」(詩篇100:3)。自分が誰かの所有する羊、または陶器であるというのは、謙遜にならざるを得ません。
今朝、イザヤ書を読んでいると、神の威厳について書かれている別の箇所を見つけました。その一節と、創造主としての神の絶対的権力と権利とが合わさったとき、私の心の中で「ドカーン!」と化学反応が起きたのです。
イザヤ書33章21節に、このようにあります。「そこには威厳のある主が 私たちとともにいてくださる。」
私たちとともに! 味方でいてくださるのです! 創造主は、私たちの味方であり、敵ではありません。宇宙のすべての権力と、ご自身の願うとおりに被造物を動かす絶対的権利とを持つお方が、私たちとともにいてくださるとは!
「とこしえから……目で見たこともありません。あなた以外の神が 自分を待ち望む者のために、このようにするのを」(イザヤ64:4)。「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」(ローマ8:31)。
これ以上に平安を与え、保証を与え、喜びを与えることが、何か一つでもあるでしょうか? 威厳のある主が、私たちとともにいてくださるのです。