汚れた衣は消え去った

5月1日 第122日

ジョン・パイパー(著者) 、楠 望(翻訳) - 2024年 05月 01日  - 

私たちはみな、汚れた者のようになり、/ その義はみな、不潔な衣のようです。

(イザヤ書64:6)

神の律法を一つでも守らないなら、神の完全なるきよさを傷つけ、私たちは裁きを受けることになることは確かです。神はいかなる罪も、好意のまなざしで見ることはできないからです(ハバクク1:13; ヤコブ2:10-11)。

しかし、旧約聖書において人を破滅に導いたのは(そしてそれは現代においても同じですが)、罪のない完全な義を持つことができなかったからではありません。人が滅びに至ったのは、神のあわれみ深い約束、中でも特に、神がいつか民のために完全な義となる贖い主(「主は私たちの義」、エレミヤ23:6; 33:16)を与えてくださるという神の希望の約束を、信じなかったことによるのです。旧約聖書の聖徒たちは、これが自分たちの救われる方法であり、この信仰が従順への鍵であり、従順がこの信仰の証拠であることを知っていました。

唯一価値のある義は転嫁されたキリストの義だ、と言う人がいますが、これは非常に混乱する考えです。もちろん、義認は一切私たちの義に基づくものではありません。信仰による、御霊によって与えられた義でさえも、です。義認は、ただ私たちに転嫁されたキリストの義のみによるのです。しかし、ときに人は軽率にも、神を喜ばせる義など私たちのうちに働かないかのように、人間の義をすべて軽んじて語ることがあります。これは混乱を招きます。

そのような人は、しばしばイザヤ書64章6節を引用します。そこには私たちの義は汚れた布切れ、「不潔な衣」だと書いてあるからです。

しかし、この箇所の文脈を見ると、神の民によって行われる義はすべて神に受け入れられないと言っているのではありません。イザヤはここで、民が行う、偽善に過ぎない義について話しているのです。このような義は、もはや義と呼べません。しかしこの聖句のすぐ前で、イザヤは、神が「喜び、正義を行う者たちに」会ってくださることを語っています(イザヤ64:5)。

これは真実です。なんと栄光に満ちた真実でしょうか。十字架の前後を問わず、神の民は誰も、キリストの完全な義が転嫁されなければ、一切の汚れもないきよい神の御前に受け入れられることなど、あり得なかったのです(ローマ5:19; Iコリント1:30;  IIコリント5:21)。それは真実です! しかし、それは決して、神がまさに「義とされた」民のうちに、当然完成されていなくとも、「不潔な衣」ではない義の経験を生み出してくださらないということではないのです。

事実、神はそのような義を生み出してくださいます。そして、その義は神にとって尊いものであり、神が求めておられるものでもあります。義認がその義に基づくのではありません(義認はキリストの義にのみ基づいています)。しかし、神の子どもとして、私たちが真に義と認められている証しとしてくださるのです。パウロもこの義のために祈っており、私たちも祈るべきです。ピリピ人への手紙1章10-11節で、パウロはこう祈っています。「あなたがたが、大切なことを見分けることができますように。こうしてあなたがたが、キリストの日に備えて、純真で非難されるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされて、神の栄光と誉れが現されますように。」

聖書 新改訳2017©新日本聖書刊行会

THIS ARTICLE HAS BEEN TRANSLATED AND USED WITH PERMISSION FROM DESIRING GOD. THE ORIGINAL CAN BE READ HERE, Dirty Rags No More .
この記事は「DESIRING GOD」から許可を得て、英語の原文を翻訳したものです。原文はこちらからご覧いただけます:Dirty Rags No More .