危険な動機

5月4日 第125日

ジョン・パイパー(著者) 、楠 望(翻訳) - 2024年 05月 04日  - 

「だれがまず主に与え、主から報いを受けるのですか。」 すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。

(ローマ人への手紙11:35-36)

従順について考えるとき、感謝の思いを動機とするのは危険です。借金をした側の感覚に陥る傾向があるからです。例えば、「神があなたのためにどれだけのことをしてくださったか、見てみなさい。あなたも、感謝の思いから、神のために何かもっとすべきではないですか?」とか、「今のあなたがあり、今与えられているものがあるのは、すべて神のおかげです。あなたはそのお返しに、神に何をしましたか?」などと、言ってしまうことがあるでしょう。

このような動機において、私は少なくとも三つの問題が考えられると思います。

第一に、神が与えてくださったすべての恵みに対してお返しをすることは、不可能です。私たちにはほんの少しのお返しもできません。それは、ローマ人への手紙11:35-36に書いてある通りです。「『だれがまず主に与え、主から報いを受けるのですか』[答えは、だれもできません!] すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。」 神はすでに、私たちが持っているもので神に与えようとするものを、またその努力も含めて、すべて所有しておられるのです。ですから、私たちが神にお返しすることはできません。

第二に、たとえ私たちが神の与えてくださったすべての恵みにお返しすることに成功したとしても、それは恵みをビジネスの取引きに変えてしまうことに過ぎません。私たちがお返しすることができるなら、それは恵みでも何でもないのです。誰かがあなたに特別な愛の好意を示そうとして、夕食に招いたとしましょう。その晩の終わりに、あなたが次の週はあなたがその人を招いてお返しするから、と言ったとしたら、あなたはその人の恵みを無効にし、単なる取引に変えてしまうことになります。神は、ご自分の恵みが無効になることを望まれません。その恵みがほめたたえられることを望んでおられるのです(エペソ1:6, 12, 14)。

第三に、従順の動機として感謝の思いに焦点を当てることは、神の将来の恵みを信じる信仰という重要な点を見落としてしまいがちになります。感謝の思いは、過去に受けた恵みを振り返り、感謝することです。それに対して信仰は、将来に約束されている恵みに目を向けます。それが5分後に与えられる恵みであろうと、5世紀後に与えられる恵みであろうと、先のことに希望を抱くことなのです。「信仰は、望んでいることを保証」するものです(ヘブル人への手紙11:1)。

将来の恵みに対するこの信仰こそが従順の動機であり、その動機は人間の従順の恵み深い質が失われていません。従順とは、神にお返しをすることで恵みを取引に変えてしまうことではないのです。従順は、神がさらに恵みを与えてくださること——将来の恵み——に信頼することです。したがって、従順は無限に豊かな神の愛と力をより大きく際立たせます。信仰は、「あなたがいくところどこででも、[わたし]があなたのともにいる」という約束を見つめ(ヨシュア1:9)、従順のうちに、危険の中をも前進し、約束の地を手に入れることなのです。

聖書 新改訳2017©新日本聖書刊行会

THIS ARTICLE HAS BEEN TRANSLATED AND USED WITH PERMISSION FROM DESIRING GOD. THE ORIGINAL CAN BE READ HERE, A Dangerous Motive.
この記事は「DESIRING GOD」から許可を得て、英語の原文を翻訳したものです。原文はこちらからご覧いただけます:A Dangerous Motive.