あなたもぜひ、クリスチャン快楽主義者に!

ジョン・パイパー(著者) 、ブラッシュ木綿子(翻訳) - 2025年 09月 09日  - 


クリスチャン快楽主義とは

クリスチャン快楽主義を最も簡潔にまとめるならば、「私たちが神のうちに最も満たされるとき、神は最も栄光を受けられる」となります。

『クリスチャンは自分の快楽ではなく、神のみこころを追い求めるべきだと信じる人もいるでしょう。』

人は皆、自分が最も喜びを感じるものを神とします。クリスチャン快楽主義者とは、最大の喜び、つまり神を追い求め、喜びとすることによって、神を神としたい人たちのことなのです。

クリスチャン快楽主義は、自分たちの幸せを最善としているわけではありません。けれども、最善を追い求めることは常に、結局は自分たちの幸せに結びつくと考えます。私たちはこの幸せを懸命に追い求めるべきです。幸せになりたいという願いは、すべての良い行いの動機となり得ますし、自分の喜びを追い求めることを止めるならば、人を愛することも、神を喜ばせることもできないのです。

この世の快楽主義とクリスチャン快楽主義の違い

クリスチャンは自分の快楽ではなく、神のみこころを追い求めるべきだと信じる人もいるでしょう。しかしながら、聖書的倫理がこの世の快楽主義と異なるのは、聖書的倫理が快楽に無関心で義務に追い立てられている点ではなく、もっとずっと大きくて清いものに関心がある点においてなのです。クリスチャン快楽主義は、神に従うことこそ最終的かつ永続する幸せにつながる唯一の道だと認める点において、聖書的倫理と合致しているのです。この点を、次の聖書箇所から考えてみましょう。

ルカの福音書6章35節には、「あなたがたは自分の敵を愛しなさい。彼らに良くしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いは多く……」と書いてあります。イエスが「返してもらうことを考えずに」と言っているのは、この世的な自分の利益を考えずとも、将来報いを受けるという約束のゆえに、私たちには今進んで損をする強さが与えられるという意味です。

また、ルカの福音書14章12-14節には次のように書いてあります。「昼食や晩餐をふるまうのなら、友人、兄弟、親族、近所の金持ちなどを呼んではいけません。彼らがあなたを招いて、お返しをすることがないようにするためです。食事のふるまいをするときには、貧しい人たち……を招きなさい。その人たちはお返しができないので、あなたは幸いです。あなたは、義人の復活のときに、お返しを受けるのです」これも、この世の益のために善行をするのではなく、霊的な、天の御国における報いのために行いなさい、という意味です。

義務が動機となるべきか

けれども、「いやいや、この聖書箇所は見返りを求めずに善いことをすれば結果として報われると言っているだけで、霊的な報いを求めよとまでは教えていない」と言う人もいるでしょう。

これに対しては、二通りの答えができます。

1) 「この錠剤を飲んだら1ドルあげるよ」と言うのは、1ドルのために飲んだ人には薬が効かないとしたら愚かなことでしょう。けれどもイエスは愚かではありません。イエスは自分に従う者に祝福を約束しておきながら、その祝福が従順の動機となったならそれを咎める、というようなことはなさらないのです。

2) さらに重要なことは、将来の祝福を期待して善を行うことを勧めるだけでなく、それを命じている箇所があることです。

ルカの福音書12章33節を見てください。「自分の財産を売って施しをしなさい。自分のために、天に、すり切れない財布を作り、尽きることのない宝を積みなさい」とあります。施しをして天に尽きることのない宝が積まれるのは偶然の結果ではありません。れっきとした目的です。

『私たちは、単なる義務に訴えて誰かを動機付けようとはしません。むしろ、満ち足りた喜びが神の御前にあることを伝え、私たちの義務はこの喜びを求めて神のもとに来ることだと語るのです。』

「天に宝を積むことを目指しなさい。そのために財産を売って施しをしなさい」ということなのです。

そしてまた、ルカの福音書16章9節には、「不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうすれば、富がなくなったとき、彼らがあなたがたを永遠の住まいに迎えてくれます」とあります。ルカは、財産を賢く使ったら永遠の住まいという結果がついてくるとは言っていません。「永遠の住まいを確保する目的で、賢く財産を使いなさい」と言っているのです。

ですから、「善行は喜びよりも義務によって動機づけられるべきだ」という信念には、断固として「ノー」と言いたいと思うのです。

簡単に満足しない

ヘブル人への手紙11章6節には、「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです」と書いてあります。報いを求めて神に近づかなければ、神に喜ばれることはできないのです。したがって、神に喜ばれる信仰とは、クリスチャン快楽主義的に神を追い求める信仰なのです。

クリスチャン快楽主義者である私たちは、人はみな幸せを願うものだと知っています。私たちはこの願いを否定しろとか抑え込めとは決して言いません。心が満たされることを願うことは問題ではないのです。簡単に満足してしまうことが問題です。心が満たされることを願う人は、お金や権力や性欲からそれを求めるのではなく、魂の飢え渇きが神の恵みによって満たされることを追い求めるべきなのです。私たちは聖霊によってあらゆる努力をしながら、他の人にも次のことを示してこれを奨励しています。

  • 受けるよりも与えるほうが幸いであること(使徒20:35)
  • 主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、すべてを損と思うべきこと(ピリピ3:8)
  • イエスが命じられることの目的はすべて、私たちが喜びで満ちあふれるようになるためであること(ヨハネ15:11)
  • 主を自らの喜びとするなら、主が心の願いをかなえてくださること(詩篇37:4)
  • 満ち足りる心を伴う敬虔こそが、大きな利益を得る道であること(Iテモテ6:6)
  • 主を喜ぶことは私たちの力であること(ネヘミヤ8:10)

私たちは、単なる義務に訴えて誰かを動機付けようとはしません。むしろ、満ち足りた喜びが神の御前にあることを伝え(詩篇16:11)、私たちの義務はこの喜びを求めて神のもとに来ることだと語るのです。


This article has been translated and used with permission from Desiring God. The original can be read here, We Want You to Be a Christian Hedonist.
この記事は「Desiring God」から許可を得て、英語の原文を翻訳したものです。原文はこちらからご覧いただけます:We Want You to Be a Christian Hedonist