神に心満たされる

クリスチャン快楽主義の奨め

ジョン・パイパー(著者) 、ブラッシュ木綿子(翻訳) - 2025年 07月 15日  - 

10月の1か月間、「クリスチャン快楽主義」と私たちが呼んでいるものに焦点を当てた記事を公開していきます。これはその最初の記事です。[訳注: この記事はもともと2019年10月に英語で公開されました。]

私たち「デザイアリング・ゴッド」に関わる者からすれば、これは「自分たちの存在理由を喜び祝います」と宣言しているようなものです。私たちの働きの名前が「デザイアリング・ゴッド」であるのは、1987年に出版された同名の書籍に由来します。この本の副題「クリスチャン快楽主義者の瞑想」がとても重要です。私たちは、クリスチャン快楽主義者です。このウェブサイトは、クリスチャン快楽主義者が聖書を瞑想した結果、書かれたものなのです。

私はこの記事の中で、「クリスチャン快楽主義」とは何なのか、明らかにしたいと思います。

さて、「クリスチャン快楽主義」という言葉が聖書にないことは、私も知っています。三位一体、弟子訓練、伝道、講解、カウンセリング、倫理、政治、カリスマ派をはじめ、多くの言葉が聖書にないのと同様です。聖書には、「全体のまとめ」なる67巻目の書物が収められているわけではありません。聖書で教えられている概念をまとめた用語集がついているわけでもないのです。

『クリスチャン快楽主義の本質を説明する上で私が気に入っている言い方は「私たちが神のうちに最も満たされるとき、神は最も栄光を受けられる」です』

神は、何十本もの美しい真理の糸が66巻に織り込まれた、一冊の書物が霊感により記されるのを良しとされました。このすべての糸に名前がついているわけではありません。神は栄光に満ちた作業を私たちにお任せになったのです。「のみわざは偉大。 / それを喜ぶすべての人に 尋ね求められるもの」(詩篇111:2)[訳注: 「尋ね求められる」は英訳では「studied」(学ばれる)]。美しい糸を手繰り寄せ、学び、巧みな織手であられる主を仰ぎ見るとき、私たちはかけがえのない真理を見いだします。そしてそれらに名前をつけることで、その真理を目の当たりにしたときに話すことができるようにしているのです。そうした真理のひとつが「クリスチャン快楽主義」です。

本気の栄光、本気の喜び

クリスチャン快楽主義の本質を説明する上で私が気に入っている言い方は「私たちが神のうちに最も満たされるとき、神は最も栄光を受けられる」です。私たちはこの真理が、神ご自身が永遠に三位一体の関係をもっておられることに根ざしていると信じています。なぜ神がこの世界を創造されたかの核心にあると信じています。またこの真理は、この世においてであれ、永遠においてであれ、私たちが生きる上でのすべての領域に及ぶと信じています。この真理は人間の生の全領域、オレンジジュースを飲むことからピザを食べること(Iコリント10:31)、知らない人を歓迎することから(ローマ15:7)最期の息を吸うことまで(ピリピ1:20)、すべてに関係するのです。これは決して取るに足りない真理ではありません。むしろ、その逆です。

私たちが本気で言っていることがわかったでしょう。「クリスチャン快楽主義」というのは、私たちが自分たちにつけたあだ名でも、スローガンでもないのです。クリスチャン快楽主義は、神の贖いのみわざ、そして私たちクリスチャンの歩みの中心にあるのです。これが中心であり、すべてに関係するのは、神の栄光が中心であり、すべてに関係するものだからです。

あるいは、空間的な比喩を少し変えれば、神の栄光は単に中心であるだけでなく、創造の究極の目的であるからこそ、クリスチャン快楽主義はものすごく重要だとも言えます。なぜなら、神の民が本来意図されたように神のうちに満足していないなら、神は本来意図されたような栄光をお受けにならないからです。

『自分がクリスチャン快楽主義者であるかどうかを調べるひとつの方法は、ウェストミンスター大教理問答書の問一の答えが何を意味するか、自問することです。』

神の偉大さ、神の美しさ、神がどのように価値あるお方であるかに、心が最高に満たされていない神の民は欠陥のある民なのであり、神の名誉を傷つけるのです。それゆえ、宇宙の最終的な目的である神の栄光と神の民の完成は、神よりも神以外のものを好む私たちの罪深い性質に対する神の勝利にかかっています。

これこそ、十字架や復活、聖霊の注ぎ、聖化の進展、そして、すべてのものがキリストにあって最終的に完成されることを通して成されていることなのです。神は御子のために、血で買われた、傷や欠陥の何一つない、完璧な花嫁を得られ、そのとき十分な栄光を受けられます。ですから、神の御子に心から満足していることは、花嫁の美しさに欠かせません。花嫁が満足していないというのは、御子を辱めることなのです。

ウェストミンスターとウォーフィールド

自分がクリスチャン快楽主義者であるかどうかを調べるひとつの方法は、ウェストミンスター大教理問答書の問一の答えが何を意味するか、自問することです。

問1 人間のおもな、最高の目的は、何であるか。
答1 人間のおもな、最高の目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を全く喜ぶことである。

(日本基督改革派教会信条翻訳委員会1963年訳)

「おもな、最高の目的」(単数)の答えにはふたつのこと(「神の栄光をあらわし」と「永遠に神を全く喜ぶ」)が書いてあります。このふたつがひとつの目的であるというのはどういう意味なのかを自問するのです。大教理問答の問一は、私たちにこう問いかけています。「立ち止まって考えなさい。このふたつは、どのように関わり合って、ひとつになっているのか」と。

『人は神の栄光をあらわすように造られたと語るだけでは不十分で、神を大喜びしている心こそ、人が神の栄光をあらわす方法であると明言しなければいけない』

この問いかけに、「永遠に神を全く喜ぶことによって、神に栄光を帰するのだ」と答えたのは、クリスチャン快楽主義者が最初ではありません。1908年、Princeton Theological Review誌で、ベンジャミン・ウォーフィールドは、ウェストミンスター大教理問答書の問一の答えの後半(永遠に神を全く喜ぶこと)は、神を喜ぶことで栄光をあらわすと記したウィリアム・エイムズの信仰問答から取ったのではないかと書いています(Warfield’s Works, Vol. 6, Baker, 2003, 396)。

ウォーフィールド自身は、ふたつのことをひとつの目的とした問一の答えを、クリスチャン快楽主義的に解釈しています。

人を、単に神の栄光をあらわす道具と捉えるのではなく、神の栄光について意識してよく考え、大喜びする運命にある者と捉えない限り、つまり、人が全き栄光のお方として神を喜んでいるのでなければ、真に改革派の[聖書的な]信仰とは言えない(同397)。

これは「人は神の栄光をあらわすように造られたと語るだけでは不十分で、神を大喜びしている心こそ、人が神の栄光をあらわす方法であると明言しなければいけない」と言い換えることができるでしょう。神を全き栄光のお方として喜ぶ心が、神の栄光をあらわすのです。これはつまり、人のおもな、最高の目的は、永遠に神を全く喜ぶことによって神の栄光をあらわすことだ、と言うのと同じです。あるいは、人が神のうちに心満たされるとき、神は栄光を受けられる、ということです。

ウォーフィールドは、先ほどの小論文の最後で、このことをもっとはっきりと述べています。

「人のおもな、最高の目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を全く喜ぶことである。」もちろん、神に栄光を帰さずに神を喜ぶのではない。栄光とは神のものであって、そのようなお方が栄光を受けられずに喜ばれることが可能であろうか。これと同じくらい確かなのは、神を喜ばずに神に栄光を帰すこともできないということだ。なぜなら、その完全性が栄光をお受けになってこそ神の栄光であるが、完全な神が喜ばれないことなど、果たしてあり得るだろうか(同400)。

もっともです!最後の修辞的な問いを見てください。神がまっとうに栄光をお受けになるなら、神の完全性が喜ばれているはずだということですね。これをまとめれば、「神が本来意図されたように人によって喜ばれていないなら、神は本来意図されたような栄光をお受けにならない」となるでしょう。

ジョン・ブラウンとトマス・ビンセント

1787年に亡くなったスコットランドの牧師、ハディントンのジョン・ブラウンは、ウェストミンスター大教理問答を次のように掘り下げました。

問:神の栄光をあらわすことと、永遠に神を全く喜ぶことは、なぜひとつの最高の目的として結びつけられているのですか。
答:誰も、一方がなければ、もう一方を得ることも正しく求めることもできないからです。

問:私たちは、どうすれば神の栄光を最もあらわすことができるでしょうか。
答:最も完全に神を受け入れ、喜ぶことを通してです。

クリスチャン快楽主義はこの問答の後者を、「私たちが神のうちに最も満たされるとき、神は最も栄光を受けられる」と言い換えているわけです。

1678年に亡くなったピューリタンの英国人牧師、トーマス・ヴィンセントも同じことを問いました。

問:神の栄光をあらわすことと、神を喜ぶことは、なぜひとつの最高の目的として一緒にされているのでしょうか。答:神が両者を不可分に結びつけられたので、人はどちらか一方なしに他方を真に追い求めることはできないからです。地上の神の家で神を最も喜ぶ者が、神の栄光を最もあらわし神を最も喜ぶのです。そして、天の聖徒たちによって神が最も完全に喜ばれるとき、神は至高の栄光をお受けになるのです(ブラウンとヴィンセントの引用は、ヴァージニア・ユグノー編纂による)。

『いちばん重要なのは、「神はこの世界をそのように造られたか、そしてこの真理は誤りなき神のことばである聖書の中で私たちに啓示されているか」です』

このように、クリスチャン快楽主義の最も本質的な主張のひとつである、「私たちが神のうちに最も満たされるとき、神は最も栄光を受けられる」は、決して新しいものではありません。これは多くの歴史的な信仰問答に根ざしているのであり、特に、ウェストミンスター大教理問答の「人間のおもな、最高の目的は、何であるか」という問い、そして、「人間のおもな、最高の目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を全く喜ぶことである」という答えに根ざしていると言えるのです。

クリスチャン快楽主義は人の心が神の栄光をあらわすには、神がその人の心でいちばん大切な宝として喜ばれずには起こりえないという、問答の奥義に気づいた歴代の牧師や神学者たちの長い流れに乗っているのです。

これは聖書に基づいているか

もちろん、人間の作り上げた信仰問答がクリスチャン快楽主義を肯定しているかどうかは、究極的には問題ではありません。いちばん重要なのは、「神はこの世界をそのように造られたか、そしてこの真理は誤りなき神のことばである聖書の中で私たちに啓示されているか」です。

デザイアリング・ゴッドは、その答えが「はい」であることを聖書から示そうと、25年間努めてきました。私たちは、他の人が何と言うかより、神のお考えを何千倍も大事にしています。読者のみなさんにもそうであってほしいと思います。もしあなたが、聖書ではクリスチャン快楽主義を教えていないと考えるなら、私たちが教えているからといって信じないでください。みなさんが今月いっぱい私たちと付き合ってくださり、記事の中で様々な角度からクリスチャン快楽主義が論じられるなかで、それが正しいのか正しくないのか、検証してくださることを願っています。

この記事を終えるにあたり、「私たちが神のうちに最も満たされるとき、神は最も栄光を受けられる」ことを教えている聖書箇所をひとつ紹介します。そして、このことの最も包括的で実践的な意味について述べたいと思います。

死ぬことも益

ピリピ人への手紙1章20節でパウロは、自分のいちばんの願いはキリストの栄光をあらわすことだと言っています。それをパウロは「私の願いは……生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられることです」と表現しました。そして続く文で、生きること、死ぬことを通してどのようにキリストの栄光をあらわすのかを説明しています。その説明からパウロがクリスチャン快楽主義者として考えていることがわかります。

『「パウロが、この世で経験する何ものよりもキリストを喜び、死んでも良いと思うほどにキリストのうちに満たされているときに、キリストはパウロによって最もあがめられる」ということです。これはすなわちクリスチャン快楽主義です。』

死ぬことに関しては、自分が死を益と考えている(21節)からキリストの栄光をあらわすことになると言っています。パウロにとって死が益なのは、キリストとともにいることがはるかに望ましいからです(23節)。聖書を真剣に読む者として私がすることは、この時点で立ち止まり、「死に際にキリストを益として経験することが、なぜキリストの栄光をあらわすことになるのか」と問うことです。皆さんなら、何と答えますか。

パウロは「益」を「はるかに望ましい」という言葉で説明しています。死に臨んでいるパウロにとって、この世の差し出す何ものよりも、死んでキリストとともにいる方がはるかに望ましいということです。手紙の後半でパウロははっきりと「私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています」と言っています。(ピリピ3:8)

パウロが言っているのは、キリストがどのようにすばらしい方かを知り、体験することはあまりにもすごいことなので、キリストとともにいることは、この世の何にもまさって大きな喜びだということです。だからこそ、パウロは死をもってしてもキリストの栄光をあらわすことができるのです。あなたの心がある人のうちにものすごく満たされているので、その人と一緒にいるためならこの世のすべてを失うことも益だと感じられるとき、あなたはその人の栄光、その人がいかにすばらしいかをあらわすのです。

つまり、ここでのパウロの考え方を言い換えれば、「パウロが、この世で経験する何ものよりもキリストを喜び、死んでも良いと思うほどにキリストのうちに満たされているときに、キリストはパウロによって最もあがめられる」ということです。これはすなわちクリスチャン快楽主義です。これこそ、パウロが身をもって教えた生き方なのです。

喜びをもって生きる

パウロが生きながらえた場合はどうなのでしょう。彼はその問いに対しても、クリスチャン快楽主義的に答えています。

パウロは「私の願いは……生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられることです」と言っていましたね。パウロはできることなら死にたいと思っています。けれども、彼の益だけが考慮されるならば、生きながらえることを知っているのです。彼には神から与えられた仕事があるからです。ではパウロは、生き続けることがキリストの栄光をあらわすことを、どのように私たちに示しているでしょうか。

しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためにはもっと必要です。このことを確信しているので、あなたがたの信仰の前進と喜びのために、私が生きながらえて、あなたがたすべてとともにいるようになることを知っています。そうなれば、私は再びあなたがたのもとに行けるので、私に関するあなたがたの誇りは、キリスト・イエスにあって増し加わるでしょう。

(ピリピ1:24-26)

パウロの思考を順を追って見てみましょう。(1)私は生き続け、あなたがたのところへ行きます。(2)私が行けば、あなたがたは信仰の喜びを得るでしょう。(3)この喜びはすなわち、あなたがたがキリスト・イエスの栄光をあらわすことにつながります。パウロの人生と宣教が向かっているゴールがわかりますか。そして、どうやってそのゴールに到達するか、わかりますか。

『神にもっと心満たされるように努めることは、神から与えられた、聖書によって命じられている、あなたの人生のすべての瞬間で遂行されるべき義務だ、ということです。』

パウロが目指しているのは、キリストにある誇りが増し加わることです。「誇りが増し加わる」という言葉(ギリシャ語でカウケマ)は、歓喜する、賛美する、偉大であることを示す、とも訳せます。キリストの栄光、これがゴールです(20節の「キリストがあがめられる」と同様)。パウロはピリピの信徒がどのようにこのゴールに到達すると言っていますか。彼らが「信仰の喜び」を経験するのを、自ら助けることによってです。パウロはここで「信仰」とだけ言っても良かったはずですが、「信仰の喜び」と言いました。なぜでしょうか。それは、キリストを喜ぶことで、キリストにある喜びを通して、彼らはキリストを誇り、歓喜し、栄光をあらわすことができるからです。これはすなわちクリスチャン快楽主義です。ピリピ人のおもな、最高の目的は、(御子にあって)永遠に神を全く喜ぶことによって、神の栄光をあらわすことなのです。ピリピ人がキリストのうちに最も満たされるとき、キリストは最も栄光を受けられるのです。

私たちがクリスチャン快楽主義者なのは、聖書が教えているからなのです。

私たちの最大の義務

クリスチャン快楽主義の最も包括的で実践的な意味について述べてこの記事を終えると言いましたね。それはこれです。あなたが神のうちに最も満たされるとき、神は最も栄光を受けられるのだから、宇宙の何ものよりも神を選び取り、神をあなたの至高の宝として、神にもっと心満たされるように努めることは、神から与えられた、聖書によって命じられている、あなたの人生のすべての瞬間で遂行されるべき義務だ、ということです。

聖書には、クリスチャン快楽主義のこの包括的で実践的な意味を支持することがたくさん書かれています。ここではイエスのことばをひとつ、皆さんに考えてほしいと思います。

わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。

(マタイ10:37)

自分の心に問いかけてください。良い親は、子に対してどのような愛をもっているだろうか。良い子の親に対する愛はどうだろうか。大事にする愛ではないだろうか。宝とするような愛、相手を喜び、相手を求める愛ではないだろうか。イエスは、この地上の最も愛しい喜びよりも、ご自分が愛され、大切にされ、宝とされなければなければならないと言われたのです。

そうであるならば、そのような人間になることは私たちの義務であるはずです。実際、それは私たちの最大の義務なのです(マタイ22:36-37)。

This article has been translated and used with permission from Desiring God. The original can be read here, Strive to Be More Satisfied in God.
この記事は「Desiring God」から許可を得て、英語の原文を翻訳したものです。原文はこちらからご覧いただけます:Strive to Be More Satisfied in God