神は他の神を造られない

8月23日 第236日

ジョン・パイパー(著者) 、楠 望(翻訳) - 2024年 08月 23日  - 

その日に主イエスは来て、ご自分の聖徒たちの間であがめられ、信じたすべての者たちの間で感嘆の的となられます。そうです、あなたがたに対する私たちの証しを、あなたがたは信じたのです。

(テサロニケ人への手紙第二1:10)

パウロは、キリストがあがめられ、感嘆の的となられるために来られることをここで述べています。これこそが、キリストが来られる理由なのです。

神がご自分の栄光を称賛し、ご自分の民によってほめたたえられることを求められることについて、つまずく人がいます。なぜなら、聖書は私たちがそのようにならないようにと教えているからです。例えば聖書は、愛は「自分の利益を求め」ないと教えています(Iコリント13:5)。

神は愛でありながら、どうしてここまで「自分の」栄光と賛美と喜びを求めることに熱心でいることができるのでしょうか? それほどまでにご自分のために存在していながら、どうして神は私たちのためにおられると言えるでしょうか?

私の考える答えはこうです。それは、神は唯一、完全に栄光に満ちた方であり、完全に自己充足しておられる存在であるため、神が私たちのためにおられるためには、ご自分のために存在するお方でなければならないからです。被造物に求められる謙遜のルールは、創造主に対しても同じように適用することはできません。

もし神が、無限の喜びの源であるご自身から離れなければならないとしたら、神はもはや神ではなくなってしまいます。それは、神がご自分の栄光の無限の価値を否定されることになります。神ご自身よりも価値のある何かが、神以外のところにあると暗示することになります。それはすなわち、神が他の神を崇めることになるのです。

これは私たちにとって益となりません。神が不義なる存在になられたら、私たちはどこに行けば良いのでしょうか? 神の心が、何よりも価値あるものを、何よりも大切にすることをやめてしまったら、私たちは宇宙のどこに完全なる岩を見つけることができるのでしょうか? 神がご自分の無限の価値と美しさを主張されなくなったら、私たちはどこに向かって礼拝を献げることができるでしょうか?

私たちは決して、神が神でなくなることを要求することで、神のご自分への称賛を愛に変えることはしません。

そうではなく、神の民が主の御名を心からほめたたえることを、神が執拗なほどに求められるからこそ、神は愛なのだということを、私たちは理解しなければなりません。神の偉大さをほめたたえる私たちの賛美は、私たちの喜びと神の偉大さの頂点なのです。

聖書 新改訳2017©新日本聖書刊行会

THIS ARTICLE HAS BEEN TRANSLATED AND USED WITH PERMISSION FROM DESIRING GOD. THE ORIGINAL CAN BE READ HERE, God Is Not an Idolater.
この記事は「DESIRING GOD」から許可を得て、英語の原文を翻訳したものです。原文はこちらからご覧いただけます:God Is Not an Idolater.