9月22日 第266日
ジョン・パイパー(著者) 、楠 望(翻訳) - 2024年 09月 22日 - この記事は約2分で読めます。
あなたがたは、光に照らされた後で苦難との厳しい戦いに耐えた、初めの日々を思い起こしなさい。嘲られ、苦しい目にあわされ、見せ物にされたこともあれば、このような目にあった人たちの同志となったこともあります。あなたがたは、牢につながれている人々と苦しみをともにし、また、自分たちにはもっとすぐれた、いつまでも残る財産があることを知っていたので、自分の財産が奪われても、それを喜んで受け入れました。ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはいけません。その確信には大きな報いがあります。 (ヘブル人への手紙10:32-35)
あなたがたは、光に照らされた後で苦難との厳しい戦いに耐えた、初めの日々を思い起こしなさい。嘲られ、苦しい目にあわされ、見せ物にされたこともあれば、このような目にあった人たちの同志となったこともあります。あなたがたは、牢につながれている人々と苦しみをともにし、また、自分たちにはもっとすぐれた、いつまでも残る財産があることを知っていたので、自分の財産が奪われても、それを喜んで受け入れました。ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはいけません。その確信には大きな報いがあります。
ヘブル人への手紙10章32-35節に登場するクリスチャンたちほどに、大きな代償を伴う愛を教える権利を得ている人はいるでしょうか。
おそらく彼らの状況は次のようだったのでしょう。彼らは回心して間もなく、仲間が何人か信仰のために牢に入れられました。残された者たちは、厳しい選択を迫られます。信仰を隠して「安全」に過ごすか、あるいは牢にいる兄弟姉妹を訪ねて自分の命と財産を危険に晒すか——。彼らは愛の道を選び、それに伴う代償を受け入れたのです。
「あなたがたは、牢につながれている人々と苦しみをともにし、……自分の財産が奪われても、それを喜んで受け入れました。
では、彼らは負けたのでしょうか? いいえ、違います。彼らは自分の財産を失い、喜びを得たのです! 彼らは喜んで損失を受け入れました。
ある意味で、彼らは自分自身を否定したと言えます。それが現実であり、大きな代償を伴いました。しかし別の意味では、彼らは自分自身を否定していないとも言えます。彼らは喜びの道を選んだのです。明らかに、このクリスチャンたちは、マケドニアの信者たち(IIコリント8:1-9)が貧しい人々を救おうとしたのと同じように、獄中伝道に意欲を燃やしていたのでしょう。彼らが神に抱いていた喜びは、他の人々に対する愛となって溢れ出していたのです。
彼らは自分たちの命を見て、「主の恵みは いのちにもまさる」と言いました。(詩篇63:3参照)。
彼らは自分たちの財産を見て、「私たちには天にもっとすぐれた、いつまでも残る財産がある」と言いました(ヘブル10:34参照)。
そして彼らは、互いを見つめて言った——おそらく歌った——のです。それは、マルティン・ルターの偉大な讃美歌のことばのようだったことでしょう。
わが命も わが宝も 取らば取りね神の国は なおわれにあり