9月24日 第268日
ジョン・パイパー(著者) 、楠 望(翻訳) - 2024年 09月 24日 - この記事は約2分で読めます。
信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。 (ヘブル人への手紙12:2)
信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。
ここでのイエスの姿は、クリスチャン快楽主義(Christian Hedonism)の原則と矛盾しているでしょうか? すなわち、愛こそが喜びの道であり、人はまさにその道を選ぶべきである——決して全能者への従順を不本意に思ったり、恵みの水路となる特権を恨んだり、約束された報いを軽んじたりするようなことがあってはならない、という原則です。
ヘブル人への手紙12章2節は、非常に明確に、イエスはこの原則に矛盾しなかったことを教えています。
かつてないほどの偉大なる愛の御業がなされたのは、イエスが、想像しうる限り最高の喜びを追い求められたからです。その喜びとは、贖われた者たちの礼拝で神の右の座の栄光を受ける喜びです。イエスは「ご自分の前に置かれた喜びのために、……十字架を忍」ばれました。
このように記されているのは、ヘブル人への手紙の著者が11章に登場する聖徒たちの一人としてイエスを紹介しているためです。ここに紹介される聖徒たちは、「はかない罪の楽しみ」(ヘブル11:25)を拒み、神のみこころにかなうために虐げられることを選ぶほどに、神によって与えられる喜びを心から求め確信を持っている人々です。
ですから、少なくともゲッセマネの暗闇の中でキリストを支えた思いの一つは十字架の先にある喜びへの希望であった、と言うことは、実に聖書的です。これは、私たちに対するキリストの愛の現実と偉大さを損なわせることはありません。なぜなら、キリストが望んだ喜びは、多くの子たちを栄光に導くための喜びだったからです(ヘブル2:10)。
キリストの喜びは私たちの贖いのうちにあり、その喜びは神の栄光をもたらします。私たちはその喜びをイエスと分かち合い、それによって神が栄光を受けられるのです。
{※クリスチャン快楽主義(Christian Hedonism)とは何か}