10月17日 第291日
ジョン・パイパー(著者) 、楠 望(翻訳) - 2024年 10月 17日 - この記事は約2分で読めます。
盗みをしている者は、もう盗んではいけません。むしろ、困っている人に分け与えるため、自分の手で正しい仕事をし、労苦して働きなさい。 エペソ人への手紙4:28
盗みをしている者は、もう盗んではいけません。むしろ、困っている人に分け与えるため、自分の手で正しい仕事をし、労苦して働きなさい。
物質的なものと同様、生き方には、三つの段階があります。(1)盗んで手に入れる、(2)働いて手に入れる、(3)与えるために働いて手に入れる、です。
あまりに多くのクリスチャンが二番目の生き方をしています。盗んだり “たかったり”する(タダで手に入れようとする)よりも、私たちは働くことを称賛します。また盗んだりたかったりすることを拒む自分や、きちんと働いた分に対してきちんと給料を受け取る自分を、高潔な人間だと讃えます。それは悪いことではありません。働くことは盗みやたかりよりも良いことです。しかし、使徒はそのような生き方に私たちを招いているのではありません。
私たちの文化が与えるあらゆる影響力は、二番目の生き方、すなわち働いて手に入れる生き方を勧めています。しかし、聖書は容赦なく私たちに三番目の生き方を求めます。それは、与えるために働いて手に入れる生き方です。「神はあなたがたに、あらゆる恵みをあふれるばかりに与えることがおできになります。あなたがたが、いつもすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれるようになるためです」(IIコリント9:8)。
なぜ神は私たちを豊かに祝福されるのでしょうか? それは、私たちが生きるのに十分なものを得、さらに多く受けた分を、霊的また肉体的な困窮、すなわち一時的また永遠の苦しみを和らげるための、あらゆる良いわざのために用いるためです。私たちは十分に受け、他の人も豊かに受けるのです。
問題は、人がどれだけ稼ぐかではありません。大企業や高額の給与は現代に実際にあるものであり、それ自体は必ずしも悪ではありません。悪いのは、高収入を得ているなら贅沢なライフスタイルが伴うべきだという考えに陥ることです。
神は私たちを恵みの水路として用いてくださいます。その水路が、金で飾られていなければならないと考えるのは危険な思い込みです。銅の水路で十分なのです。銅の水路は、信じられないほどの豊かさを人々に届けることができます。そして人に与える経験を通して、私たちは大きな祝福を楽しむことができるのです(使徒20:35)。