10月23日 第297日
ジョン・パイパー(著者) 、楠 望(翻訳) - 2024年 10月 23日 - この記事は約2分で読めます。
神は昔、預言者たちによって、多くの部分に分け、多くの方法で先祖たちに語られましたが、この終わりの時には、御子にあって私たちに語られました。 ヘブル人への手紙1:1-2
神は昔、預言者たちによって、多くの部分に分け、多くの方法で先祖たちに語られましたが、この終わりの時には、御子にあって私たちに語られました。
終わりの時は、御子がこの世界に来られることから始まります。「この終わりの時には、御子にあって私たちに語られました。」 キリストの時代から、私たちは終わりの時に生きているのです。つまり、神の国が最終的かつ完全に建て上げられる前の、私たちが知る歴史の終わりの時です。
ヘブル人への手紙の著者が示す要点は、神が御子によって語られることばこそが決定的なことばであるということです。御子ご自身の計画によって、そのことばは新約聖書の記述として世々にわたって記録されました。神はこのための備えを明確に与え、それによってどの時代においても人々が神の決定的なことばを自分たちで作り上げることがないようにされました。今の時代のいかなる優れた言葉も、置き換えられる言葉も、この神のことばの後に続くべきものはありません。これは神のことばです。すなわちイエスというお方、イエスの教え、そしてイエスのみわざが、霊感によって使徒の記述に捉えられた、新約聖書と呼ばれるものです。
神のことばが聞こえないと不平をこぼしたり、神の声を聞きたいと願ったり、自分が求めるような方法で神が語ってくださらないと苛立ったりするとき、私はとんだ見当違いをしていないでしょうか? 新約聖書の中に完全かつ誤りなく明らかにされている最終的で決定的な神のことばを、私はすべて知り尽くしたとでも言っているのでしょうか。私は果たして神のことばを知り尽くしたでしょうか。神のことばが私の大部分を占めるほどになって、私の存在そのものを形造り、私にいのちと導きを与えていると言えるのでしょうか。
それとも、私は神のことばを軽く扱ってきたでしょうか。新聞を流し読みするように、次々と流れてくるネットの投稿をすばやくクリックするように、味見だけをするかのように読んで、もっと違うもの、もっと良いものが欲しいのだと、決めつけているのではないでしょうか。私はこれが自分の犯している罪なのだろうかと、自分で認めたくないほど恐れています。
神は私たちに、ご自分の最終的な、決定的な、知り尽くすことのできないことばに耳を傾けるようにと、呼びかけておられます。これを黙想し、学び、暗記し、時間をかけて味わい、これに浸らなければなりません。そのことばが私たちの存在の中心部分まで染み込む、そのときまで——。