10月29日 第303日
ジョン・パイパー(著者) 、楠 望(翻訳) - 2024年 10月 29日 - この記事は約2分で読めます。
この使いについて、私から去らせてくださるようにと、私は三度、主に願いました。しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。 コリント人への手紙第二12:8-9
この使いについて、私から去らせてくださるようにと、私は三度、主に願いました。しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
クリスチャンが出会う苦しみは、迫害の苦しみも、がんを患う苦しみも、果たして同じものでしょうか? 私たちに与えられている約束は、どちらの苦しみにも適用されるのでしょうか? 私の答えは「はい」です。いかなる人生においても、神の栄光と人々の救いを追い求める信仰によって熱心に生きているなら、必ず何らかの障害物や苦しみに直面することになります。従順なクリスチャンが出会う苦しみは、神の召しに従順に生きることに伴う犠牲の一部です。
キリストが導いておられる道を歩むことを選ぶとき、私たちはその道にあるすべてのものを神の主権的な摂理のもとで選んでいることになります。したがって、従順の道で出会う苦しみはすべて、キリストとともに受ける苦しみであり、キリストのために受ける苦しみです。それが自宅で起こるがんであれ、遠くの地で起こる迫害であれ、同じことです。
そしてそれは、「選んだもの」です。つまり、私たちは進んで苦しみが降りかかるとわかっている従順の道を選ぶのです。そして神に不満を言いません。苦しみを去らせてくださいと祈ることはあるでしょう——パウロもそうでした。しかし神が望まれるなら、私たちはその苦しみを、天の御国に至る従順の道での訓練における犠牲の一部として捉え、大切にします。
クリスチャンの従順の道で体験するすべての苦しみは、それが迫害、病い、あるいは事故であっても、一つの共通点があります。それは、どの苦しみも神の善良を信じる信仰を脅かし、従順の道を離れるよう私たちを誘惑するという点です。
ですから、信仰のすべての勝利と、従順のすべての忍耐は、神の善良とキリストの尊さを証しします。病い、サタン、罪、妨害行為など、何が敵であろうと同じです。したがって、クリスチャンとして召された道で私たちが耐え忍ぶ、すべての、さまざまな苦しみは、「キリストとともに」あり、「キリストのため」のものです。
「キリストとともに」あるとは、私たちは信仰のうちにキリストとともに歩む中で苦しみに出会い、その苦しみは、キリストが大祭司として私たちに同情し与えてくださる力によって耐え忍ぶものであることを意味します(ヘブル4:15)。「キリストのため」であるとは、苦しみが、キリストの善良と力に対する私たちの忠実さを試すこと、そしてすべてを満たす補償であり報酬であるキリストの価値を明らかにするものであることを意味します。