11月3日 第308日
ジョン・パイパー(著者) 、楠 望(翻訳) - 2024年 11月 03日 - この記事は約2分で読めます。
彼は、キリストのゆえに受ける辱めを、エジプトの宝にまさる大きな富と考えました。それは、与えられる報いから目を離さなかったからでした。 ヘブル人への手紙11:26
彼は、キリストのゆえに受ける辱めを、エジプトの宝にまさる大きな富と考えました。それは、与えられる報いから目を離さなかったからでした。
私たちが苦しみを選ぶのは、単にそう言われたからではありません。苦しみを選びなさいと私たちに語る方が、それは永遠の喜びへの道であると教えておられるからです。
神は私たちを苦しみの従順へと招かれますが、それは私たちの義務への献身の強さを示すためでも、道徳的決意の力を明らかにするためでも、または痛みに対する耐性の限界を証明するためでもありません。むしろ子どものような信仰によって、すべてを満たす神の約束の限りない尊さを声高らかに宣言するためです。すなわち神ご自身の栄光のすべてを満たす偉大さと美しさが、そのすべての約束の成就であることを明らかにするのです。
モーセは「はかない罪の楽しみにふけるよりも、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。……それは、与えられる報いから目を離さなかったからでした」(ヘブル11:25-26)。つまり、モーセの従順は苦しむ決意を称えるものではなく、その報い——すなわち神がキリストにあってモーセのために表されるすべてのこと——を称えるものとなったのです。
これはクリスチャン快楽主義の根幹です。苦しみを通して喜びを追い求めるとき、私たちは喜びの源にこそ、すべてを満たす価値があることを大きく表します。私たちの痛みのトンネルの終わりには、神ご自身の光が輝いています。
神こそが私たちの目指すゴール、そして苦しみにある喜びの根拠であることを伝えないなら、私たちの苦しみの意味が完全に失われてしまいます。
苦しみの意味とは、神を得ることです。神を得ることに尽きます。神ご自身を、得るのです。これこそ、苦しみの意味です。人のおもなの目的は、神の栄光をあらわすことです(ウエストミンスター小教理問答の問1)。そして苦しみの中にあるときほど、その真実がさらに深まる場所は他にありません。私たちが神に最も満足するとき、神は私たちにあって最も栄光を受けられるのです。
{※クリスチャン快楽主義(Christian Hedonism)とは何か}