11月8日 第313日
ジョン・パイパー(著者) 、楠 望(翻訳) - 2024年 11月 08日 - この記事は約2分で読めます。
「もし、あなたが安息日に出歩くことをやめ、/わたしの聖日に自分の好むことをせず、/安息日を『喜びの日』と呼び、/主の聖日を『栄えある日』と呼び、/これを尊んで、自分の道を行かず、/自分の好むことを求めず、無駄口を慎むなら、/そのとき、あなたは主をあなたの喜びとする。/わたしはあなたに地の高いところを踏み行かせる」 イザヤ書58:13-14
「もし、あなたが安息日に出歩くことをやめ、/わたしの聖日に自分の好むことをせず、/安息日を『喜びの日』と呼び、/主の聖日を『栄えある日』と呼び、/これを尊んで、自分の道を行かず、/自分の好むことを求めず、無駄口を慎むなら、/そのとき、あなたは主をあなたの喜びとする。/わたしはあなたに地の高いところを踏み行かせる」
神を追い求めながら、神を崇めないことは可能です。神を尊ぶことを私たちの探求とするなら、私たちは神との交わりの喜びのために、神を追い求めなければなりません。
このことの例として、安息日について考えてみましょう。主はご自分の聖日に、民が自分の好むことをするのを叱責されます。「もし、あなたが安息日に出歩くことをやめ、/わたしの聖日に自分の好むことをせず……」 これはどういう意味でしょうか? 主の日に、私たちは自分の喜びを追い求めるべきではないという意味でしょうか? いいえ、そうではありません。なぜなら、読み進めると、神はその日を「『喜びの日』と呼び」なさいと言っておられます。14節には、「あなたは主をあなたの喜びとする」とあります。つまり、神が批判しておられるのは、彼らが安息日に自分の関心ごとに喜びを見出していることです。本来、安息日は、彼らの神の美しさと、安らぎと、聖さに喜びを見出すための日なのです。
神は民の快楽主義(彼らが喜びを第一に求めること)に対して叱責しているのではありません。しかし、その弱みに対して叱責しておられます。C.S. ルイスが言ったように、「わたしたちはあまりにもたわいないうれしがりやなのです。」(C.S.ルイス『栄光の重み』6頁. 新教出版社) 彼らは世の興味に心を囚われ、主よりもそれらを尊んでいるのです。
安息日を『喜びの日』と呼ぶことと、主の聖日を『栄えある日』と呼ぶことが並列になっていることに注目してください。「安息日を『喜びの日』と呼び、/主の聖日を『栄えある日』と呼び、……」 これはすなわち、私たちは「栄えある」とするものを「喜ぶ」ということを意味します。私たちは楽しむことを崇める、とも言えるでしょう。
神を楽しむことと、神を崇めることとは、一つです。神の永遠の目的と、私たちの永遠の喜びは、礼拝という体験のうちに一つになります。主の日は、そのためにあるのです。そうです、人生のすべては、そのためにあるのです。
{※クリスチャン快楽主義(Christian Hedonism)とは何か}