この記事では「独身」というテーマについてお話しします。全体を導く聖書箇所はコリント人への手紙第一7章1–8節、32–40節と、ピリピ人への手紙4章10–13節です。是非この記事を読む前に読んでみてください。
『パウロは独身もまた神からの良い賜物であり、神の栄光のために用いることができると教えています。』
パウロがコリント人への手紙で語っているのは、結婚と独身に関するテーマですが、さらにその背景には「救われた時のままの状態に留まること」という強調点があります。つまり、この記事を読んでいる皆さんが今独身であれば、それは良いことであり、そのままでいるのも良いことです。既婚者であれば、それも良いことであり、そのままでいるのも良いことです。また、ピリピ人への手紙は、神が私たちをどこに召しておられるにせよ、すべての状況の中で感謝と満足を与えてくださるという真理を明らかにします。私たちが結婚していようと独身でいようと、葛藤の根底には「自分にないものを持っているように見える他人を羨む誘惑」があるのです。今日、私が皆さんに一つの目標として願うのは、結婚しているかどうかに関係なく、「今、与えられている場所で感謝し、満足すること」です。
これらのみことばの真理を念頭に、聖書が独身について何を語っているかを詳しく見てみましょう。独身が意味すること、意味しないことについて、いくつかの側面から考えます。
第一に、「独身」は賜物です。
「そんな賜物は欲しくない!」と思う方もいるかもしれませんが、結婚も独身も神からの贈り物です。私自身、大学時代には神様がガールフレンドや結婚を目指せる相手を与えてくださらないことに怒りを覚えたことがありました。多くの人にとって、独身は賜物というよりも「呪い」に感じられるかもしれません。そして残念なことに、この苦しみは教会内部のプレッシャーからも来ています。時に私たちは教会内で独身の方々に、早く結婚するようにという不必要なプレッシャーを与えてしまいます。
私たちは教会の中で、「結婚が人生のより良い召命であるとは限らない」ということを、もっと明確に語る必要があります。もちろん、聖書は結婚について多くの肯定的で素晴らしいことを語っていますが、パウロは独身もまた神からの良い賜物であり、神の栄光のために用いることができると教えています。パウロは人生のある時点では結婚していた可能性もありますが、聖書によれば、キリストの使徒として仕えていた時には独身でした。イエス・キリストご自身もまた独身であり、私たちに寄り添うために人間として生きたキリストの人生に欠けはありませんでした。
『教会で結婚を奨励することは良いことですが、それと同時に、私たちは独身のままでも主の大宣教命令を果たすことができるという事実を忘れてはなりません。』
コリント人への手紙でパウロが語っているように、独身であることによって、私たちは様々な制約から解放され、より神に集中することができるのです。少し話がそれますが、時に私たちは「子どもを持つこと」が最大の祝福だと考えます。しかし、私たちキリスト聖書神学校のマット・ニューカーク校長は、「神の国を広げる」という人間の責任についての本を書いています。確かに、子どもを持つこともその命令の一部ですが、最も重要な方法は「キリストに従う弟子たちを育てること」です。伝道と弟子訓練は、神を敬う子どもを育てることと同じくらい、あるいはそれ以上に重要です。
事実、もし私たちが神を恐れる子どもを育てることに失敗すれば、それは神の創造の命令に背くことになります。一方、伝道と弟子訓練は、地を満たすという神の命令に従う行為です。パウロはテモテを自分の子のように扱いました。彼の霊的成長に関わったからです。家族は素晴らしいものですが、イエスの言葉によれば、霊的な家族は肉親以上に深い絆を持つようになります。ですから、教会で結婚を奨励することは良いことですが、それと同時に、私たちは独身のままでも主の大宣教命令を果たすことができるという事実を忘れてはなりません。実際、パウロによれば、独身の方がやりやすいこともあるのです。
つまり、独身は「呪い」ではなく「賜物」なのです。
第二に、「独身」は賜物ですが、変わらない賜物ではありません。
数年前、あるクリスチャン・カウンセラーを招いた素晴らしいセミナーがありました。そのカウンセラーは、「独身という賜物は、誰もが経験するものである」と語っていました。(この講義へのリンクが文末にあります。)考えてみてください。私たちは皆、まず「独身」として生まれます。誰も結婚した状態で生まれてはきません。若い時代の多くを独身として過ごします。その後、結婚という賜物が与えられる人もいますが、やがて配偶者を亡くした後、再び「独身」の賜物を経験することになります。
つまり、独身は特別な人だけに与えられる賜物ではありません。「あの人はすごく霊的だから独身という賜物を持っている。でも自分は違う」と思うかもしれません。しかし、「今の自分の状態こそが、神が与えてくださった賜物だ」という理解の方が適切でしょう。今独身ならば、それが今与えられている神の賜物です。それは将来変わるかもしれません。しかし「今」というこの瞬間は、まさにその場所に神があなたを置いておられるのです。
『パウロは、私たちの罪深い傾向を理解しており、結婚は性的欲求や孤独を和らげる助けになると語っています。』
私は現在結婚していますが、将来何かが起きて、私か妻に何かあれば、再び独身になるかもしれません。もちろんそんなことは考えたくありませんが、それもまた現実です。そしてその時には悲しみもあるでしょうが、それでも神が与えてくださった人生に満足できるよう祈ります。
ですから、今この瞬間、神があなたをそこに置かれたという単純な事実を信じてください。パウロが言うように、どのような状況にあっても感謝を学ぶことができるのです。そしてそれを助けるのは、「私たちはいつも神の善き御手の中にある」という確信です。神は決して間違いをなさいませんし、私たちが神の計画を台無しにすることもできません。あの時こうしていれば今の自分は違ったのに、と過去の決断を後悔している人もいるかもしれません。たしかに人は誰でも失敗しますし、過ちを悔い改めて神の似姿へと成長するのは良いことです。しかし、私たちがどんな大きな失敗をしたとしても、それによって神の計画が壊されることはありません。
今この瞬間、あなたがこの記事を読んでいることさえも、神があなたに与えた「今」なのです。独身であっても、結婚していても、それを神から与えられた贈り物として受け取り、その状況に感謝しましょう。なぜなら、独身の方には将来結婚の賜物が与えられるかもしれませんし、結婚している方々にも、将来再び独身になる日が来るかもしれないからです。キリストにあってそのどちらも良いことなのです。
最後に、「結婚」は美しい祝福ですが、究極の祝福ではありません。
コリント人への手紙第一7章8–9節をもう一度読んでみましょう。パウロは「欲情に燃える」人は結婚を望むべきだと語ります。ではこの「欲情に燃える」とは何でしょうか。パウロはこれを「自制心の欠如」と関連づけているので、ある程度「罪」と関係があると見なして良いと思います。
これは男女両方に向けられているメッセージです。性的な欲望に限らず、「孤独感から来る強い渇望」である場合もあります。つまりこれは、単なる「性的誘惑に苦しむ独身男性」の話ではありません。現代では性的誘惑が非常に多くなり、テレビやインターネットを通じて、私たちが望まなくてもそれらが押し寄せてきます。
『ある人には信じがたいかもしれませんが、イエスと顔と顔を合わせて出会う日には、私たちは「性」よりも満たされるのです。』
また、女性の場合は異なる形の誘惑になることもあります。たとえば韓国ドラマのようなロマンチックな物語が、関係への憧れや渇望をかき立てることもあります。男性が水着姿の女性に誘惑されるように、女性もまた「理想の男性像」に心を奪われることがあるのです。
私たちを神への満足から引き離し、「神よりも求めるもの」があるとすれば、それはすべて誘惑です。パウロは、私たちの罪深い傾向を理解しており、結婚は性的欲求や孤独を和らげる助けになると語っています。
しかし、罪深い状態からの霊的成長を目指す代わりに結婚すればいい、と思ってはいけません。これらの問題に悩む私たちの中には、結婚しないまま人生を終える人もいるでしょう。そして強く言いたいのは、「結婚すれば全ての問題が解決するわけではない」ということです。むしろ、問題が悪化することさえあります。結婚は助けになりますが、問題に対する答えではありません。
唯一の、本当の答えは「福音」です。性的な欲求や孤独に対する答えが神なのかと不思議に思うかもしれませんが、その通りなのです。ある人には信じがたいかもしれませんが、イエスと顔と顔を合わせて出会う日には、私たちは「性」よりも満たされるのです。
性は、結婚においてキリストを指し示す一つのしるしにすぎません。やがて私たちは、神との完全な交わりにおける本当の喜びを経験するでしょう。たとえこの地上で結婚や性を経験しないまま死んだとしても、キリストに出会うその日、「何も失っていなかった」と確信するはずです。
私たちが本当に必要としているのは「結婚」ではなく、「キリストとの生きた関係」です。このことを知ると、誘惑にも打ち勝つことができ、より良い夫や妻にもなれるのです。
皆さんが、まず何よりもキリストのうちに満足を見出すことができるように祈っています。
この記事は『性・結婚・ジェンダー』を聖書から学ぶ – CBS教授陣メッセージシリーズ第3回目です。