トランスジェンダー

マット・ニューカーク(著者) 、富田美代子(編集) - 2025年 11月 20日  - 

はじめに

論理的であることは重要です。論理によって私たちはこの世界を正しく理解できます。数学や科学は論理によって成り立っています。言語を使ったコミュニケーションは論理によって可能になります。もし論理がなければ、何も理解できず、何も研究できず、何も信頼できず、他の人と分かり合うこともできないでしょう。

『「性別」はどのようにして私たちの体が組み立てられているかを指し、「ジェンダー」はどのようにして私たちが社会で自分を表現するかを指します。これがジェンダーの現代的な定義です。』

そのため、物事に論理的な矛盾があるなら、それは重大な指摘です。ある命題が同じ条件下で、同時に真であり、真ではないということは、論理的にあり得ません。正方形の形をした円は論理的に存在できません。

この記事のテーマはトランスジェンダーです。そして、正方形の形をした円のように、トランスジェンダーは論理的な矛盾です。トランスジェンダーという単語の「トランス」の部分は、ラテン語で「向こう側」という意味ですから、「トランスジェンダー」とは、あるジェンダーから向こう側に行くということです。他のジェンダーに変えるという意味になります。しかし、聖書が私たちに教えるのは、それは論理的な矛盾であるということです。 

定義

本論に入る前に、このトピックに関係する用語を定義します。最初に、ジェンダーとはどういう意味でしょうか。歴史的には文法用語に由来します。

ジェンダーは、さまざまな言語で、名詞や動詞の男性形と女性形の区別を指します。例えば、ヘブル語では、男性形の主語に対応する動詞は男性形、女性形の主語に対応する動詞は女性形に形が変化します。動詞のジェンダーは、主語のジェンダーと一致しています。また、主語が生き物の場合、主語の文法的なジェンダーと生き物の性別は同じです。つまり、歴史的に、ジェンダーという概念は、生物学的な性に依存するものでした。

しかし、1970年代にフェミニストの学者たちがこの用語を異なる意味で使い始めました。生物学的に決定される性別の側面と、社会的に構築される男女の違いの側面を区別するために、「ジェンダー」を使うようになったのです。その考え方では、性別は生物学的なもので、ジェンダーは社会学的なものとされました。「性別」はどのようにして私たちの体が組み立てられているかを指し、「ジェンダー」はどのようにして私たちが社会で自分を表現するかを指します。これがジェンダーの現代的な定義です。

定義したい二つ目の用語は、「トランスジェンダー」です。トランスジェンダーという概念を理解するためには、ギリシャ哲学を少し知る必要があります。初期ギリシャ哲学者の最も有名な二人は、アリストテレスとプラトンです。二人は、人間の自己に関してそれぞれ異なった哲学を持っていました。

『その考え方の根底にあるのは、人間の本当の自己は非物質面で、それは物質面から分離できるため、もしある人が生物学的な性と異なるジェンダーを自認したら、そのジェンダー・アイデンティティは優先されるということです。』

アリストテレスは、人間の非物質面と物質面は、不可分であり、両方が一体となって人間を構成していると考えました。だから、本当の自己は、自分のたましいだけではなく、たましいと肉体の両方です。

一方で、プラトンの考え方では、人間の非物質面と物質面は分離でき、本当の自己は非物質面です。具体的には、「知性」が本当の自己であるとプラトンは考えました。西洋では、アリストテレスの考え方よりもプラトンの考え方が大きな影響力を持ち、トランスジェンダーの思想に哲学的な基礎を提供しました。

冒頭に述べたように、「トランスジェンダー」は文字通りには、あるジェンダーから向こう側に行くという意味です。トランスジェンダーであるということは、生物学的な性と一致しないジェンダーであると自認することを意味します。その考え方の根底にあるのは、人間の本当の自己は非物質面で、それは物質面から分離できるため、もしある人が生物学的な性と異なるジェンダーを自認したら、そのジェンダー・アイデンティティは優先されるということです。その考えに基づいて、多くのトランスジェンダーの人は性別適合手術を受けます。ジェンダー・アイデンティティに一致するように身体的特徴を変えるのです。

一方、聖書はこの概念について何を教えているでしょうか。このことを論じるために、三つの聖書的な原則を分析します。

1. 生物学的な性は二つのみであること

第一に、聖書によれば、生物学的な性は二つのみです。

創世記1章26節で、神は人間をご自分のかたちとして造ります。それは人間が神の王権を現すように設計されているという意味です。

次の節で、その概念が繰り返され、人間についてもう一つの大事なことを学びます。1章27節によれば、「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。」すべての人間は神のかたちとして創造されていて、人間には二つの性別があります。

『人間が「ザカール」と「ネケヴァ」として創造されたことは、社会的なカテゴリではないことがわかります。神は人間を神のかたちとして創造し、二つの生物学的な性に造りました。』

日本語で「男」と「女」と訳されている単語は、ヘブル語では「ザカール」と「ネケヴァ」です。この二つの単語は、人間の性的な違いだけではなく、動物の性別も区別します。例えば、ノアが箱舟に入ったときに、すべての生き物のペアも入りました。創世記7章16節によれば、「入ったものは、すべての肉なるものの雄と雌であった。」この箇所での「雄」と「雌」は、ヘブル語の「ザカール」と「ネケヴァ」で、明確に生物学的な性別を指しています。

ですから、1章27節で人間が「ザカール」と「ネケヴァ」として創造されたことは、社会的なカテゴリではないことがわかります。神は人間を神のかたちとして創造し、二つの生物学的な性に造りました。

神のかたちとして、すべての人には、 男性であっても女性であっても、 計り知れない価値があります。男性であることは、女性であることより良いわけではなく、その逆でもありません。聖書的に、人間の異なる性は、違う役割がありますが、同じ大切さがあります。

宦官

LGBTQを擁護する人が、聖書に登場する宦官を指して、三つ目の性であったと主張することがあります。しかし、宦官とは、三つ目の性ではなく、去勢された人を指します。古代中東では、通常、宦官は女王か王女に仕える男性の官吏でした。

例えば、エステル記2章14節には「側女たちの監督官である、王の宦官シャアシュガズ」という記述があります。あるいは、使徒の働き8章の宦官のエチオピア人は「エチオピア人の女王カンダケの高官」でした(27節)。

そのような宦官が去勢された理由は、女王や王女と性的関係を持たないようにするためでした。つまり、宦官は三つ目の性ではなく、通常、去勢される前には女性と性行為ができた男性でした。

第一の原則をまとめると、生物学的な性は男性と女性の二つのみです。

2. 私たちの本当の自己が、肉体とたましいの両方であること

第二の原則は、聖書によれば、私たちの本当の自己が、肉体とたましいの両方であることです。

創世記1章は天地の創造を記述していますが、2章は人間の創造に焦点が移ります。2章7節にはこのようにあります。「神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった」。この節から二つのことを確認できます。最初の人間が物質的に形作られたこと、また、その人間が神からいのちの息を受けたことです。両方が起こったあと、「それで人は生きるものとなった」と書かれています。つまり、最初の人間の創造においては、物質面と非物質面の両方が造られたときに、人は存在し始めました。その体が創造される前には、アダムは存在しませんでした。

『…最初の人間の創造においては、物質面と非物質面の両方が造られたときに、人は存在し始めました。』

聖書の他の箇所で、アダム以降の人間の存在についても同じことが強調されています。例えば、詩篇139篇13節は「あなたこそ 私の内臓を造り、母の胎の内で私を組み立てられた方です」と言います。母の胎の内にいる前に、何か存在があったとは述べられていません。むしろ、創世記2章7節と同様に、人間の創造は物質的なプロセスとして記述されています。

ですから、人間の基本的な本質は非物質面のみではなく、物質面と非物質面の両方です。人間の本当の自己は、私たちの体から分離されている知性だとプラトンは考えましたが、聖書によるとそうではありません。人間の私たちは、非物質的な側面から分離できない物質的な生き物として創造されています。

言い換えると、私たちの体と私たちの内面は、必然的につながっていて、一致しています。生物学的な性別が男性なら、その人のジェンダーは必然的に男性です 。生物学的な性別が女性なら、ジェンダーも女性です。つまり、聖書的な人間論には、男性の体で女の人のジェンダーを持つ人は不可能で、女性の体で男の人のジェンダーを持つ人も不可能です。

それは、正方形の形をした円のようなもの、あるいは「柔らかい石」のようなものです。不可能であり、論理的な矛盾です。定義的に、石は硬い物なので、柔らかい石が存在することは不可能です。同じように、定義的に、聖書によると、トランスジェンダーであることは存在論的に不可能です。

3. ジェンダー表現が生物学的な性と一致するべきであること

第三の原則は、聖書によれば、ジェンダー表現が生物学的な性と一致するべきであることです。

現代使われているジェンダーという社会的な概念は、古代中東にありませんでした。「定義」で述べたように、その概念は過去50年の間に生まれて発展してきました。しかし、人はどのようにして生きるべきかという社会基準はそれより前から存在しました。聖書にも、そのような社会基準があります。例えば以下のようなものです。

  • レビ記19章13節:「あなたの隣人を虐げてはならない。」
  • 申命記22章1節:「あなたの同族の者の牛または羊が迷っているのを見て、見ぬふりをしていてはならない。あなたの同族の者のところに、それを必ず連れ戻さなければならない。」
  • コロサイ人への手紙3章21節:「父たちよ、子どもたちを苛立たせてはいけません。その子たちが意欲を失わないようにするためです。」
  • ペテロの手紙第一3章8節:「みな、一つ思いになり、同情し合い、兄弟愛を示し、心の優しい人となり、謙虚でありなさい。」

『つまり、聖書的な人間論には、男性の体で女の人のジェンダーを持つ人は不可能で、女性の体で男の人のジェンダーを持つ人も不可能です。』

これらはすべて神の霊感による社会基準です。前述のように、聖書が書かれた時代には、現代のトランスジェンダーの思想はありませんでしたが、トランスジェンダーの問題に適用できるさまざまな社会基準は聖書の中に見ることができます。簡単な例として、旧約聖書と新約聖書から一箇所ずつ取り上げます。

旧約聖書箇所の申命記22章5節にはこのようにあります。「女は男の衣装を身に着けてはならない。また男は女の衣服を着てはならない。このようなことをする者はみな、あなたの神、主が忌み嫌われる。」寒い日にカップルがデートしていて、男性が女性を暖めるために自分のコートを掛けてあげることがあります。この箇所はそのような状況について語っているのではありません。そうではなく、社会で女性として振る舞う男性、または男性として振る舞う女性を問題にしています。それは聖書的に正しくありません。

新約聖書のコリント人への手紙第一11章14−15節にはこのようにあります。「自然そのものが、あなたがたにこう教えていないでしょうか。男が長い髪をしていたら、それは彼にとって恥ずかしいことであり、女が長い髪をしていたら、それは彼女にとっては栄誉なのです。」ある人の髪が長いかどうかを判断するのは主観が入りますね。でもここでのポイントは、社会で男性が自分を表現するべき方法と、女性が自分を表現するべき方法は異なるということです。それぞれの方法について聖書はさまざまな原則を教えます。私たちはその原則、その基準を守るべきです。

これら二つの箇所は、服装や髪型という、ある意味で表面的なことについて語っています。それと比べて、異性のように見せるために自分の身体的特徴を変えることは、表面的なレベルのことではありません。服装や髪型よりはるかに重要な問題です。

これまでの議論をまとめると、聖書によれば、生物学的な性は二つのみであり、私たちの本当の自己は肉体とたましいの両方であるので、自分の性と異なるジェンダーであることは存在論的に不可能です。したがって、ジェンダー表現は生物学的な性と一致するべきで、トランスジェンダーは社会的に禁止されています。

適用

最後に、これらの原則を現代のトランスジェンダーの思想に適用したいと思います。自分がトランスジェンダーだと考える人に出会った時、私たちはどう応答するべきでしょうか?

最初に強調したいのは、相手の考えに同意せずに、その人を愛することは可能であるということです。多くの人が、「あなたがトランスジェンダーの思想に同意しないということは、トランスジェンダーの人を憎んでいるということですね」と主張します。しかし、それは嘘です。

『トランスジェンダーの人にとっての希望は、そうではない人にとっての希望と同じです。神の恵み深い赦しです。』

誰かを愛することは、その人の考え方に同意することと同じではありません。私は自分の子どもたちを愛していますが、「朝、昼、夜アイスクリームを食べられる」という子どもたちの考え方には同意しません。多くの場合、本当の愛とは、その人が聞きたくないことを伝えることです。

真実を伝えることと愛することは決して相反することではありません。逆に、真実を隠したままでは、人を本当に愛することはできません。だから、誰かとトランスジェンダーの思想について話す機会があれば、「あなたはトランスジェンダーの人を憎んでいるのですね」という批判を受け入れないでください。

第二に、トランスジェンダーの思想という罪は特異な罪ではありません。私たちは皆、神のかたちとしての自分の召しを果たすために何らかの葛藤を経験します。神の王権を現すために、私たちは神がどのようなお方かを正しく現す必要がありますが、いつもそのようにできるわけではありません。神が忍耐強いように、私たちも忍耐する者であるべきですが、そうではない時が多いです。神が私たちに親切であるように、私たちも人に親切にするべきですが、そうできない時が多いです。神はこの世界のすべてをご自分の栄光のために造られたので、私たちは何よりも神の栄光を優先するべきですが、そうしない時が多いです。

つまり、私たちは皆、さまざまな点で、神のかたちとしての召しを果たさず、神の基準を守っていません。それでも、できていないからといって単に諦めて良いわけではありません。忍耐しない傾向があるからといって、「私はこのように生まれたんです」とは言えません。その忍耐しない傾向を悔い改める必要があります。怒りやすい性格だからといって、「生まれつきこういう性格なんです」とは言えません。その性格を悔い改める必要があります。同じように、ある人が「自分のジェンダーは自分の性と一致していない」と感じる時に、「私はこのように生まれんです」とは言えません。その感情を悔い改める必要があります。

しかし、良い知らせがあります。神は忍耐強く、優しいので、誰でも、どのような罪でも、悔い改めてイエスの犠牲に頼り、赦しを求めるなら、神は赦してくださいます。ですから、トランスジェンダーの人にとっての希望は、そうではない人にとっての希望と同じです。神の恵み深い赦しです。私たちの責任は、その真実を伝えることを通してそのような人たちを愛することです。

この記事は『性・結婚・ジェンダー』を聖書から学ぶ – CBS教授陣メッセージシリーズ第7回目です。

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