この性とジェンダーについてのシリーズでは、これまでに「結婚」と「独身」について、聖書の真理を見てきました。まず、結婚と性のための神の良いご計画について学びました。結婚とは、神とその花嫁である民との関係を示すものです。結婚と性は、創造において与えられた良き贈り物です。
一方で、この堕落した世界における結婚には難しさもあります。結婚は、罪人同士の結び合わせであるため、争いの場、傷つける場、また孤独の場にもなり得るのです。しかし、福音によって、罪の赦しと、内に住まわれる聖霊の力とによって、結婚には回復の道もあります。
『結婚がキリストにあって回復されても、罪は残ります。そして罪は私たちの生活のあらゆるところに影響を及ぼします。性生活も例外ではありません。』
結婚がキリストにあって回復されても、罪は残ります。そして罪は私たちの生活のあらゆるところに影響を及ぼします。性生活も例外ではありません。性的罪はあまり気が進むテーマではありませんが、聖書は性と性的罪についてたくさん教えていますので、この話を避けて通ることはできません。
(この記事では、私の派遣教会で語られたロバーツ牧師の説教より、構成と内容に関するいくつかのアイデアを借用しています。この場を借りてお礼申し上げます。)
聖書が描く理想的な性関係と堕落
さて、性的罪について考察する前に、まず聖書が示す理想的な性の関係について考えましょう。これまでの記事では、セックスが一人の男性と一人の女性のため、つまり結婚における一生のものとして与えられたことを見てきました。そしてこの結婚関係においてこそ、性は良き贈り物です。聖書は男性中心の書物だと言われたりしますが、実は、結婚における性については男女両方の立場から語られています。例えば、旧約聖書の雅歌は、花嫁のこの言葉で始まります (1:1-3)。
「あの方が私に
口づけしてくださったらよいのに。
あなたの愛は、ぶどう酒にまさって麗しく、
あなたの香油は香り芳しく、
あなたの名は、注がれた香油のよう。
そのため、おとめたちはあなたを愛しています。
私を引き寄せてください。
私たちはあなたの後から急いで参ります。」
また、箴言5章18−19節で、知恵のある父親は息子にこのように悟らせます。
「あなたの泉を祝福されたものとし、
あなたの若いときからの妻と喜び楽しめ。
愛らしい雌鹿、麗しいかもしか。
彼女の乳房がいつもあなたを潤すように。
あなたはいつも彼女の愛に酔うがよい。」
これらの箇所から、結婚における性的欲求、性的快楽は良いことであることがわかります。これは祝福です。しかし、先ほどの箴言5章のみことばの直後には、このような警告の言葉が続きます(20節)。
「わが子よ。どうしてよその女に夢中になり、
見知らぬ女の胸を抱くのか。」
ここで父親は「どうして」と聞いています。いったいなぜ、性的罪を選ぶのでしょうか。それは一言で言うと、愚かさの極みです。悪です。神のみこころに反するものです。それでも性的罪は、この堕落した世界と、堕落した私たちの生活の一部になってしまいました。
『聖書は男性中心の書物だと言われたりしますが、実は、結婚における性については男女両方の立場から語られています。』
堕落した世界に蔓延するポルノ
この記事では性的罪とポルノについて扱います。ポルノを観ることが、今の時代の最も代表的な性的罪ではないかと思うので、特にポルノを中心に考えたいと思います。
ギリシャ語のポルネーという言葉は、日本語の聖書で「淫らな行い」(新改訳聖書第三版までは「不品行」)と訳されていますが、当然これがポルノという言葉の語源です。世界中のインターネット検索の4分の1が、ポルノ関連だと言われています。インターネットやスマホでは、匿名で安く、そして素早くポルノを手に入れられるのです。誰かが履歴をチェックしない限り、誰も見ておらず、誰も知りません。
ポルノは男性だけではなく、女性の問題でもあります。ノンクリスチャンだけではなく、クリスチャンの問題でもあります。私が牧師だったとき、何人かのクリスチャン男性がポルノ依存症や自慰(マスターベーション)について相談に来ました。そして、相談に来なかった他の人も葛藤していたと思います。また、ポルノは牧師の問題でもあります。ですから、皆さんの教会やミニストリーにおいても、きっとポルノの問題はあると思います。
もしかすると、あなた自身の問題でもあるかもしれません。
もしそうならば、この問題に伴う強い感情もあるのではないでしょうか。まず、信仰者として、心から悲しんでいると思います。ポルノ鑑賞が罪深いことであり、神に喜ばれないことをよく分かっているはずです。そして恐らく何度も止めようとしたのではないでしょうか。しかし止める決心を繰り返しても、止められないでいるかもしれません。
自分のポルノ鑑賞について、恥も覚えているのではないでしょうか。ポルノを観ることが、自分のキリストにあるアイデンティティとは、相入れない行為だとよく分かっているからです。クリスチャンとして、このような罪を誰かに告白したら、恥ずかしいと考えているかもしれません。もしかしたら、自分の葛藤について、誰にも打ち明けていないかもしれません。
『ポルノは男性だけではなく、女性の問題でもあります。ノンクリスチャンだけではなく、クリスチャンの問題でもあります。』
この記事の適用を一つでも自分に当てはめようとするなら、これにしてください。「ポルノや他の性的罪と闘っているのなら、ぜひ、誰かとそれを分かち合ってください。」
他のクリスチャンの学生と、あるいは牧師や長老と、分かち合ってください。その人を通して、主にある助けを求めてください。祈ってもらい、励ましてもらい、罪から抜け出す歩みの伴走者となってもらいましょう。そのようにして、自分の性的罪を光のもとに——福音の光のもとに——持っていきましょう。そこに本当の自由を味わえる希望があるからです。
罪の奴隷
ポルノの罪と闘っているならば、もう一つきっとあなたが体験する感情とは、罪の虜、罪の奴隷になっているという絶望です。ヨハネの福音書8章34-36節を読みましょう。
イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。奴隷はいつまでも家にいるわけではありませんが、息子はいつまでもいます。ですから、子があなたがたを自由にするなら、あなたがたは本当に自由になるのです。 」
この箇所でイエスは、自分たちの宗教的背景を根拠に、自分たちは「自由」であると言い張っていた、当時のユダヤ人を相手にして語られています。イエスの答えは、彼らが実際に奴隷である、というものでした。罪が彼らの主人だったのです。
イエスは、「罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。」と言われました。「罪を行う」という言い方は少し不自然だと思いませんか。私たちは普通、「罪を犯す」とは言いますが、「罪を行う」とはあまり言わないと思います。しかしイエスはここで、罪に満ちた生活のパターン、あるいは罪深い人生の方向について語られています。繰り返される罪の生活です。ある罪が、別の罪を誘導し、連鎖反応でどんどんエスカレートしていくのです。多くの場合、性的罪はまさにそのように続くのです。
『ポルノや他の性的罪と闘っているのなら、ぜひ、誰かとそれを分かち合ってください。』
ポルノは特にそうだと思います。時間の経過につれて、罪が深くなっていき、問題が悪化してしまいがちですね。それは、自力ではそこから抜け出すことのできない、負のスパイラルです。もう二度とあのサイトに行くまいと、度重なる決心をして、一瞬、自由になったのかと思いきや、また陥ってしまうのです。どうしてそうなるのでしょうか。これは、ポルノ自体が持つ二つの性質と関連します。
第一に、ポルノは性を安っぽいものとし、それを下品なものとします。創世記や雅歌に見られる結婚と性の捉え方と、ポルノのそれとを比べてみてください。(言うまでもありませんが、比較するためにポルノを観る必要はありません。)ポルノの世界では、セックスとは、肉体の欲に過ぎないものとされてしまいます。ポルノ業界で働く俳優や女優は悪用され、場合によって完全に虐待されてしまいます。そして、ポルノを観る人も、完全に自己中心になってしまいます。すべてが自分のためだと勘違いするからです。しかし、神の贈り物として与えられるセックスは、コミットメントのある、約束に基づく個人関係において与えたり、受けたりするものです。だからこそポルノは、本当の満足を与えることができません。ポルノは性を安っぽいものとしてしまいます。
第二に、ポルノは観る人を壊します。ポルノ使用がいかに人間を生理学的、心理学的、人間関係的、そして霊的に傷つけているかを示す確固たる科学的データがあります。ポルノは、非常に依存性の高いものです。それは、利用者の脳内でドーパミンが放出されるためでもあるとされています。多くの専門家は、ポルノを観ることはコカインよりも中毒性があると主張しています。そのドラッグがもっと欲しくなりますし、同時にどんどん満足が遠くなっていくのです。そして、他の依存性の高い物質と同じように、脳はドーパミンに対する耐性を蓄積します。つまり、ポルノユーザーは同じ「ヒット」を得るために、より過激な描写を求めるようになるのです。本当に、悪循環です。ポルノ常用者の脳内で放出されるエンドルフィンは、実際に脳を「再配線」し、新たに形成された神経経路に従って、同じ経験をさらに求めるようになるのです。
『ポルノの使用によって損なわれる最も重要な関係は、神との関係です。』
もちろんこれは、普段の男女関係を大いに壊してしまいます。ポルノは、何が性的に「正常」であるかについての見方を腐敗させてしまいます。ポルノはまた、外見やパフォーマンスという誤った基準を設けてしまうのですが、実際の相手はそれに合わせることができません。こうしてポルノは、他者との関係を損なうのです。ポルノは、非現実的な期待と堕落した欲望を作り出すので、まだ結婚していない人の、未来の結婚生活まで損ないます。そしてすでに結婚している人にとって、ポルノ依存症は、夫婦間の不幸、夫婦関係の破綻、そして離婚につながる最も破壊的な力のひとつです。
しかし、ポルノの使用によって損なわれる最も重要な関係は、神との関係です。ポルノ使用者は、最初のきっかけは情欲であっても、孤独、親密さへの憧れ、また支配欲によって誘惑されることも多いようです。これらの感情は本来、私たちの必要を満たし、すべてを支配しておられるイエスへと私たちを駆り立てるはずです。しかしそうではなくポルノに走るとき、私たちはイエスと神の家族から遠ざかるのです。なぜなら、私たちの心は分裂するからです。研究によれば、クリスチャンのポルノ使用者は、教会への献身が薄れてしまい、奉仕への意欲も低下します。そしてイエスに仕える代わりに、そう、罪の奴隷となるのです。非常に悲しい現実です。
罪からの自由
現代はポルノの「パンデミック」になっている、と言う人もいますね。それでは、どうすればいいのでしょうか。その答えは、イエス・キリストの福音がすべての罪人、そして性的な罪人にも希望を与えるということです。ヨハネの福音書8章36節で、イエスは続けてこう語られます。
「子があなたがたを自由にするなら、あなたがたは本当に自由になるのです。」
イエスは私たちに自由を与えてくださいます。それは罪の奴隷からの自由であり、ポルノを含む性的な罪の奴隷からの自由でもあるのです。これは多くのノンクリスチャンにとって驚くべき考えではないでしょうか。心理学者フロイト以来、キリスト教は抑圧的なイデオロギーであり、人々に自然な性欲をおさえつけさせる、そしてそれは人にとって有害であるという考え方が一般的です。だから、多くの人が「性的自由」はキリスト教とは正反対のものだと考えています。しかし実際には、イエス・キリストは私たちを真に自由にしてくださいます。イエスは(1)ポルノ使用による有罪の状態からも、(2)ポルノの力からも、私たちを解放してくださるのです。
どうしてそうなるのか、少し考えてみましょう。まず、イエスは私たちをポルノ使用による有罪の状態から自由にしてくださる、という点を見てみましょう。イエスは罪の深刻さを見逃すことはなさいません。ヨハネの福音書8章で、イエスがユダヤ人に語りかけるとき、「罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。まあ、でも、私たちは皆人間だし仕方がないよね。性的罪だって、とても魅力的なのは知っているから」とはおっしゃいません。むしろ、イエスは、ユダヤ人が罪の奴隷だからこそ、いつまでも神の家にいられないことを明確にされるのです。正当なさばきですね。聖なる神は不品行と共に住むことはできません。神は性的な罪人に対して怒っておられます。
しかし、御子は私たちを自由にし、ポルノに囚われる奴隷状態からの真の自由を与えてくださると、イエスは言われるのです。これこそ福音のメッセージであり、性的な罪人にも、他のあらゆる種類の罪人にも適用することができるものです。
『サタンは私たちを恥の中に閉じ込め、イエスから遠ざけようとするのです。しかし、救い主であるイエスは両手を広げ、赦しときよめのためにご自分のもとに来るようにと呼ばれるのです。』
イエスは完璧な人生を送られました。つまり、完璧な性生活もお送りになったということです。イエスは罪を犯しませんでした。もちろん、性的な罪も犯しませんでした。それなのにキリストは十字架につけられました。私たちの罪のために死んでくださったのです。コリント人への手紙第二5章21節で、使徒パウロはこう言っています。「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。」
神は御子イエスを罪とされたのです。十字架の上でイエスは罪人として扱われ、私たちの罪の罰を負われました。ティム・チェスターというイギリスの牧師は、十字架上で、神はイエスをポルノ依存者が扱われて当然のように扱われたと言っています。つまり、イエスを信じる私たちがすべての罪を完全に赦されるために、イエスは苦しみ、死なれたということです。そのイエスにあって、私たちは神の義となります。神は、私たちのことを、完全で、汚れのない神の御子であるかのように見ておられるのです。
ですから、もしあなたがクリスチャンなら、あなたは本当に赦されています。性的な罪は、過去であれ現在であれ、私たちを恥でいっぱいにすることもあるでしょう。悪魔は私たちに、お前は十分ではない、ふさわしくないと言うでしょう。教会にふさわしくない、奉仕にふさわしくない、神にふさわしくない、などです。サタンは私たちを恥の中に閉じ込め、イエスから遠ざけようとするのです。しかし、救い主であるイエスは両手を広げ、赦しときよめのためにご自分のもとに来るようにと呼ばれるのです。私たちに新しいアイデンティティを与えてくださるのです。ですから、私たちは単なる罪人ではなく、赦された罪人なのです。私たちは永遠にイエスのものなのです。
イエスは私たちを性的罪の有罪判決から自由にしてくださるだけでなく、その力からも自由にしてくださいます。福音のこの部分はしばしば忘れられるのではないでしょうか。私たちが教えるときにも忘れてしまうことがあると思います。イエスが死なれたのは私たちが赦されるためだ、とは正しく人々に伝えていても、イエスが死なれたのは私たちが新しい人間になるためだ、と伝えることを忘れているのではないでしょうか。これらはどちらも、イエスが私たちに与えてくださる自由の本質的な側面なのです。このことを最も明確に表現しているみことばが、使徒の働き2章38節だと思います。そこで使徒ペテロがこのように言います。
「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」
赦しを求めてイエス・キリストのもとに来なさい。そして、イエスの御霊の賜物、すなわち新しい心、新しい願望、新しい性質を求めて、イエスのもとに来なさい、とペテロは呼びかけます。私たちの性的罪との闘いにおいて、神は私たちを奴隷として、たとえ自由にされた、解放された奴隷としてであっても、お見捨てになることはありません。神は私たちを満たし、私たちを変え、罪に対する憎しみとイエスのようになりたいという切なる願いを与えてくださるのです。恥と奴隷状態から、赦しと自由へと。
『イエスは私たちのような、性的罪人を救うために来られました。イエスは私たちに真の自由を与えてくださいます。』
私たちは、誘惑するポルノさえなければいいのに、と思ってしまうことがあるかもしれません。しかし本当は、問題は「そこ」ではなく、「ここ」にあるのです。「そと」ではなく、「うち」ですね。だからこそ、私たちに新しい心を与えてくださる神の聖霊の働きが必要なのです。これは簡単だという意味ではありません。クリスチャンは性的な罪人のままだからです。古い性質・古い人は新しい性質・新しい人と闘い続けるのです。
しかし希望はあります。イエスが私たちとともにいてくださり、力強いお方だからです。この闘いのため、私たちはイエスを必要とし、また互いを必要としています。
繰り返しますが、もしあなたが性的な罪と闘っているのであれば、ポルノであれ、その他の罪であれ、一人で悩まないでください。クリスチャンの友人や教会の人など、誰かに相談してください。あなたの罪を小さくするのではなく、むしろイエスを大きく示し、イエスがあなたに与えてくださる希望と癒しを指し示してくれる人に相談しましょう。
そして、ポルノがあなた個人にとって問題でなくても、きっとあなたの教会やミニストリーの中で最も重要な問題の一つかもしれません。それにもかかわらず、葛藤や問題の多くは隠されたままかもしれません。私は日本の教会で性的な罪についての説教や教えをほとんど聞いたことがないと思います。おそらく、この問題を避ける傾向があるのではないでしょうか。しかし、キリストにあって私たちはそれを避ける必要はありません。私たちは性的な罪人なのです。私たちの罪深い本性は私たちを奴隷へと導いてしまいます。しかし、イエスは私たちのような、性的罪人を救うために来られました。イエスは私たちに真の自由を与えてくださいます。優しい救い主のみもとに行こうではありませんか。
この記事は『性・結婚・ジェンダー』を聖書から学ぶ – CBS教授陣メッセージシリーズ第6回目です。
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