教会で深刻になっている霊的虐待について、新しいブログを始めました。ブログのタイトルは「講壇からのいじめ」です。けれどもまず、霊的虐待とは何を意味するのか、立ち止まって定義しましょう。
まず、何についてではないかを明確にすることから始めましょう。第一に、私たちは誰かを叩いたり殴ったりするような身体的虐待について話しているのではありません。
第二に、私たちは肉体的な接触であれ、不適切な会話や誘いであれ、性的虐待について話しているのではありません。
『霊的虐待とは、…霊的に権威のあるポジションにいる者が、自分の立場を利用して配下の人を操ったり、支配したり、いじめたり、威圧したりして、自分が考えるところの聖書的・霊的な目的を達成することです。』
第三に、私たちは単に精神的虐待について話しているのではありません。(もちろん、霊的虐待と精神的虐待には重なる部分があります。)精神的虐待は、夫婦関係や職場など、キリスト教と関係ないところでも起こり得ることであり、必ずしも教会あるいは霊的な指導者が関係しているとは限りません。
霊的虐待とは、牧師、長老、キリスト教団体のトップなど、霊的に権威のあるポジションにいる者が、自分の立場を利用して配下の人を操ったり、支配したり、いじめたり、威圧したりして、自分が考えるところの聖書的・霊的な目的を達成することです。では、この定義に上がった特徴を詳しく見てみましょう。
①霊的虐待には、霊的に権威のあるポジションにいる者が関与する
虐待をする側が複数の権威をもっていることが実際によくあります。例えば牧師が教会のスタッフを虐待するなら、彼はその人にとって牧師と上司という二つの面で権威をもっています。そしてもしそのスタッフが女性なら、牧師の中には自分にはもうひとつの権威があると感じる人もいます。(女性がすべての男性に、男性だからという理由だけで服従するように求められているわけではないにもかかわらずです。)
ジョンソンとヴァンヴォンデレンは、「霊的虐待は、指導者がその霊的に権威のある立場を利用して他の人を支配したり、権威をふるったりするときに起こりうる」と論じています1。
『初めからそうだったとは限りません。多くの場合、こうした虐待行動は…時間が経つにつれてエスカレートしていきます。』
さて、聖書は教会と世界における権威の適切な役割を肯定しています。聖書は決して権威に反対でも、立場の違いをなくそうとしているわけでもありません。しかし同時に、人が堕落しているがゆえに起こる権威の悪用についても繰り返し警告しています(マタイ20:25; Iテモテ3:3; Iペテロ5:3)。
例えば教会員が他の教会員に上から目線で「あなたは律法主義だ」、「ちょっと母親としてそれは良くないのでは」、「痩せるべき」などと言った場合、言われた方はもちろん傷つくでしょうが、権威を伴っていないので、言葉にそこまで重みがありません。
これとは対照的に、もし牧師が同じことを言ったならば、言われた人を砕くような傷となる恐れがあります。(牧師はある意味で神を代表する立場にありますから、)その人は神が自分のことをどう思っているのか疑うようになったり、(もしその人が教会のスタッフならば、)仕事を失うのではないかと恐れたり、牧師が他の教会員にも自分のことを悪く言っているのではないかと考えたりするかもしれません。
②霊的虐待では、人を支配したり権威をふるったりする方法が罪深い
虐待を行う指導者の下にいた人たちと話すと、権威主義的、人を思い通りに操る、支配的、意地悪、残酷、報復的、自分を守る、批判を受け入れられない、といった言葉がよく出てきます。
しかし、初めからそうだったとは限りません。多くの場合、こうした虐待行動は指導者が誰かをネタにして残酷な冗談を言ったり、自分の下で働くスタッフに対して必要以上に批判的だったりすることから始まり、時間が経つにつれてエスカレートしていきます。
『霊的な権威を守りたい、教理や自分流のやり方を守りたいと必死になっていると、疑問を呈す人、反対する人、自分の思う通りの霊的な行動を取らない人は誰でも虐待の対象となるのです。』
霊的虐待をする牧師と馬の合わない人は、よく孤立させられ、恥をかかされ、疎外され、意見することを許されないと感じます。同時に、自分が不従順で、反抗的で、神から教会に与えられた指導者の権威を損なう者だと思わされます。
もちろん、「虐待」と呼ばれるものがすべて虐待なわけではありません。牧師が人の罪を指摘したり、ある行動が聖書に反していると言っただけで「虐待だ」と言われることがあります。私たちはもちろん、そのような考えを受け入れません。「虐待」という言葉自体が誤解され、乱用される可能性があることも認識しておかなければいけないでしょう。
でも私たちがここで扱っているのは、牧師やクリスチャン指導者が本当に罪深い方法で人を支配したり権威をふるったりしている場合です。こうした事態はペテロの手紙第一5章3節以降など、聖書でも認識されています。
③霊的虐待はしばしば、聖書的、霊的な目標を達成するために起こる
ここで霊的虐待の鍵となる特徴にたどり着きました。少なくとも、保守的な福音主義の教会で起こる霊的虐待については、それが聖書的な目標を達成するために起こることがよくあると言えます。
なぜ牧師が自分の下にいる人を虐待するのかという問いには、自己陶酔的な性格を含め、多くの理由が考えられることでしょう。しかし虐待は通常、牧師が自分の置かれている状況を必死にコントロールしようとして起こります。牧師が自分のスタッフ、教会のビジョン、教会の方向性をコントロールしたいと考えるとき、自分に対する忠誠は何としても維持されなければなりません。教会の働きを脱線させるようなことは許されません。歩調を乱す人がいると(人間なのでよくあることですが)、鞭で叩くようになるのです。
『彼らの働きは祝福されているように見えます。そしてそのために、彼らに対する「告発」が正しいはずはないと考える人も多いのです。』
もう一度ジョンソンとヴァンフォンデレンを引用しましょう。「霊的な権威を守りたい、教理や自分流のやり方を守りたいと必死になっていると、疑問を呈す人、反対する人、自分の思う通りの霊的な行動を取らない人は誰でも虐待の対象となる」のです2。
要するに虐待行為は、(奇妙に聞こえるかもしれませんが)教会の良い目標を達成する手段となっているのです。
そしてもちろん、霊的虐待を悲惨にし、見抜くのを難しくしているのが、まさにこの特徴なのです。霊的虐待で非難される牧師の多くが、福音が遠くまで届くように労し、教会を開拓し、貧しい人を助け、といったように、神の国のために良いと思われることをしています。彼らの働きは祝福されているように見えます。そしてそのために、彼らに対する「告発」が正しいはずがないと考える人も多いのです。
悲惨なことに、このようなシナリオのもとでは、虐待が発覚しても信じようとしない人がいます。自分の牧師が虐待をしていたと認めてしまえば、牧師を中心として築き上げてきた綺麗な世界が壊れてしまいます。そこへ、虐待をしていた牧師がそれらしい説明をすると、支持者はその説明を受け入れます。せっかく実を結んでいる教会の働きを終わらせたくないからです。
以上3つに分けて霊的虐待の定義を見てきました。この定義ですべてを網羅できているわけではありませんが、このブログシリーズを始めるにあたって十分な土台となったと思います。霊的虐待の定義についてさらに知りたい人は、以下の文献を参照してください。
- Wade Mullen, Somethings Not Right: Decoding the Hidden Tactics of Abuse (Tyndale, 2020)
- Chuck DeGroat, When Narcissism Comes to Church (IVP, 2020)
- Paul David Tripp,Lead: 12 Gospel Principles for Leadership in the Church (Crossway, 2020)
- David Johnson and Jeff VanVonderen,The Subtle Power of Spiritual Abuse (Bethany House, 1991)
脚注
[1]David Johnson and Jeff VanVonderen,The Subtle Power of Spiritual Abuse (Bethany House, 1991), p20
[2] Ibid., p23
This article has been translated and used with permission from the author, Michael J. Kruger. The original can be read here, What is Spiritual Abuse?.
この記事は著者マイケル・J・クルーガー氏の許可を得て、英語の原文を翻訳したものです。原文はこちらからご覧いただけます:What is Spiritual Abuse?。