教会における霊的虐待についてのブログシリーズ「講壇からのいじめ」を続けます。(以前の投稿はこちらとこちらとこちらから読めます。)霊的虐待は他の虐待より見つけづらいため、私はこのブログで教会が警戒すべき虐待の兆候を取り上げています。
今回は霊的な虐待を行う牧師の三つ目の兆候、「自分の下にいる人に対して、過度に批判的で厳しい」について見ていきましょう。チャック・デグロートが著書『When Narcissism Comes to Church(自己愛型人間が教会に現れるとき)』で指摘しているように、霊的虐待をする牧師は「度を越して批判的」です(121ページ)。
『霊的虐待を行う牧師は、典型的に相手の欠点を探して指導します。』
この兆候を詳しく見ていきましょう。
粗探しの指導
霊的虐待を行う牧師は、典型的に相手の欠点を探して指導します。自分の下にいる人の仕事の不備や性格の欠点をすぐに厳しく指摘するのです。実際に被害者はよく、牧師によって「監視されている」ように感じると言います。まるで牧師が常に、何かミスを掴んでとっちめてやろうと待ち構えているようだと言うのです。
もちろん、ここには大きな皮肉があります。(前回の投稿で見たように)批判を受け入れない牧師本人が、他の人については過度に批判的だからです。この組み合わせは健全ではありません。そしてデグロートが論じるように、これは典型的なナルシスト(自己愛型人間)の特徴です。
ナルシストは、他人が自分より賢かったり才能豊かだったりするのを認めることができず、常に他人を批判します。逆に、自分が劣っていることや自分の誤りを認めることもできないので、自分自身や自分が導いている働きに対する批判を受け付けられないのです。
しかし、虐待する牧師が粗探しの指導を行うもう一つの(より大きな)理由があります。それは、委縮してしまったスタッフ(や教会員)は、不安を感じやすく、牧師の命令にすぐに従い、指摘された欠点を直そうとするからです。
言い換えれば、これは支配の一形態なのです。そして、弱い者いじめをする牧師がこのような指導を行う理由は単純です。それが「効果的」だからです。
残酷な発言
虐待をする牧師は、常に他人の欠点を探し回るだけでなく、スタッフや教会員に対する話し方が残酷なことも多いです。
会議で相手の話をさえぎったり、何かミスがあった場合に公の場で恥をかかせたり、他の人の前で馬鹿にしたり、相手を貶めるような話し方をしたりします。
もちろん、残酷な扱いの事例の中には、極端なものもあります。スタッフを怒鳴りつけたり、人のことを「脳なし」、「間抜け」と言ったり、罵ったりさえする牧師もいます。メディアの報道によれば、マーク・ドリスコルはスタッフに対して厳しい言葉や罵りの言葉を浴びせることで知られていました。1 ジェームズ・マクドナルドに対しても、同様の訴えがなされています。2
しかし残念なのは、こうした極端な事例があることによって、何を虐待と見なすかの基準が引き上げられてしまうことです。人は、牧師が怒鳴ったり罵ったりしていないのであれば、虐待とまで言えないのではないかと考えるようになります。しかし、これまで見てきたように、もっと巧妙な形で牧師が人に対して残酷になることもあるのです。
『虐待は、虐待をする牧師にその意図がなくても、虐待となるからです。』
残酷な行為は多くの場合に意図的に行われますが、必ずしもそうとは限りません。実際、虐待をする牧師は、自分がどれほど相手を傷つけているか、驚くほどわかっていないこともあるのです。これについてケン・ブルーは次のように述べています。
霊的虐待が他の虐待と異なるのは、「重傷を負わせる」意図で行われることがほとんどない点です。これから見ていくように、霊的虐待を行う人は、自分の虐待行為がどのような影響を及ぼしているかについて、不思議なほどに無自覚です。彼らは普通、自己陶酔がひどすぎる、もしくは、神のためにしている働きに集中し過ぎているがために、自分についてくる人たちが被っている傷に気づかないのです(『Healing Spiritual Abuse』, 12-13ページ)。
これは重要です。虐待は、虐待をする牧師にその意図がなくても、虐待となるからです。
人の罪を指摘するのは?
もちろん、虐待する牧師は自分の行動を次のように弁護するでしょう。「私はただその人の罪を指摘しただけだ。罪を指摘された人間がどのようになるか、あなたも知っているだろう」と。
そして悲しいことに、この戦術は多くの場合うまくいきます。ほとんどの長老会は、虐待する牧師の説明を即座に受け入れ、チャレンジされた羊が聖書の真理に抵抗する典型例に過ぎないと決めつけます。
言い換えれば、こうした長老は問題は羊の側にあり、牧者ではないと、当然のように考えているということです。
確かに羊が牧者に正されることに抵抗することもあるでしょうが、以下に述べる理由から、教会は牧師による説明を安易に受け入れるべきではありません。
『虐待の被害者は、優しい愛のある忠告と、威張って粗探しをする牧師の虐待が違うことはわかるのです。』
第一に霊的虐待は、牧師が罪を指摘しているまさにその時に起こっていることを、多くの事例が示していることです。警察官による虐待も同じであることを思い起こしてください。容疑者が実際に犯罪を犯したときに、警官による過剰な暴力がふるわれていますね。
ジョージ・フロイドは、偽札を使用した疑いで逮捕されました。けれども、だからと言って彼が受けた恐ろしい扱いが容認されるわけはありません。同様に教会員も、虐待を受けないためには、罪なく完璧でなければならない、ということにはならないのです。
つまり、たとえ牧師が本当に罪を指摘していたのだとしても、それで「虐待ではなかった」ということにはなりません。虐待の被害者は、優しい愛のある忠告と、威張って粗探しをする牧師の虐待が違うことはわかるのです。
第二に、虐待する牧師が罪を指摘する際の誤りが多いことです。牧師が人の罪を指摘するならば、その指摘は正しいはずだと私たちは考えます。しかしながら、多くの虐待のケースを調べる中で、そうした牧師が「人の罪」だとする主張が全くの誤りであることが多いことがわかったのです。虐待する牧師にとって、非難は脅しや支配の一形態であることを忘れてはなりません。こうした牧師の主張を、自動的に正しいとしてはならないのです。
第三に、虐待する牧師に長きに渡る人間関係の破綻の歴史があるのであれば、そのすべてが「正されるのを拒む羊の抵抗」だと、本当に考えられるのか、ということです。本当にいつも、問題は「他の人」だったのでしょうか。破綻した関係に唯一毎回いた人物である、牧師本人に問題があったと考える方が妥当なのではないでしょうか。
優しさ:忘れられた奉仕者の資質
新約聖書は、羊に対して過度に批判的で厳しい牧師の問題を認識していないわけではありません。パウロは奉仕者の資質を列挙していますが、その中で「(ですから監督は、)……乱暴でなく、柔和で……なければならない」と言っています(Ⅰテモテ3:3; テトス1:7参照)。
『牧師が人の罪を指摘するならば、その指摘は正しいはずだと私たちは考えます。しかしながら、多くの虐待のケースを調べる中で、そうした牧師が「人の罪」だとする主張が全くの誤りであることが多いことがわかったのです。』
一見、「乱暴」という言葉から、身体的虐待のみが問題となっているように思われますが、「乱暴」を意味するギリシャ語の単語「プレクテス」はもっと包括的です。ギリシャ語辞典(『the Louw-Nida Greek lexicon』)はこれを「好戦的で要求の多い人物、いじめを繰り返す人」と定義しています。英訳聖書のHCSB訳はこの箇所を「いじめず、優しい者」と訳して、このニュアンスを捉えています。
言うまでもなく、現代社会において「優しさ」は、もてはやされる資質ではありません。自己啓発コーナーには、大胆に自信をもって積極的に生きることを説く本が数多く並んでいます。でも、「もっと優しくなる」ことを教える本はなかなか見つからないでしょう。企業のトップに何よりもまず「優しさ」が求められることもありません。そしてもし教会が「優しい主任牧師を新しく採用した」と発表したなら、「大丈夫なのか」と思われるでしょう。
しかしパウロは、優しさ(柔和さ)こそ大事だと考えています。それは、偉大な牧者であるイエスご自身が、この資質を備えておられたからでしょう。イエスは自分のことを「柔和でへりくだっている」と言い、「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い」と言われました(マタイ11:29-30)。
結局のところ、牧師による虐待は、彼らがイエスと正反対の人物だからこそ見分けられるのです。
脚注
[1] https://www.salon.com/2014/04/03/christian_right_mega_church_minister_faces_mega_muntiny_for_abusive_behavior_partner/
[2] https://www.relevantmagazine.com/faith/church/former-harvest-bible-staffers-accuse-james-macdonald-of-lavish-vacations-on-the-churchs-dime/