クリスチャンは、聖書はすべて神の霊感によるものであると信じています(IIテモテ3:16)。けれども、書かれたみことばを保持するために、神は何をされてきたのでしょうか。特に、神の保持のみわざと、写字生との関係はどのようなものでしょうか。写字生は眠気に襲われたり、ペンを滑らせたり、はたまた彼らの用いた羊皮紙は劣化したりするのです。ここで「摂理」という概念が役に立ちます。神が「摂理によって」聖書本文を保持されたとはどういう意味でしょうか。また、聖書的な摂理の理解によって聖書本文はどの程度保持されていると期待できるのでしょうか。
摂理とは何で、どのような働きを指すのか
『ここで摂理が万物に及ぶ点に留意することが重要です。つまり何かが存在する(あるいは起こる)のであれば、それは摂理によって存在している(あるいは起こっている)というのが基本中の基本だということです。』
「摂理」(英: providence, [プロビデンス])という言葉が聖書にあるわけではありません。これはある特定の神のみわざについての聖書の教えを総括した神学用語です。神の計画(ギ: πρόθεσις, [プロセシス] )、予知(πρόγνωσις [ギ: プログノシス] )、予定(ギ: προορισμός, [プロオリスモス])といった聖書的な概念に関わるみわざです(いずれも接頭辞「プロ」が共通しています)。「摂理」という言葉の語源も「あらかじめ見る」であり、創世記22章14節の「アドナイ・イルエ」(「主が見てくださる、主が備えてくださる」)と関連づけられることがあります。
13世紀の神学者トマス・アクィナスは、摂理を「万物をその目的へと導く神の支配」と定義しました。さらに彼は、この「支配」を次のように2つに区別しました。(1) 神による永遠の万物の配置、および (2) 宇宙の統治を通じて時間軸の中で行われる支配(『神学大全』I.22.1)です。宗教改革後、多くのプロテスタント神学者は基本的にアクィナスの定義を受け入れ、世界における神の摂理の働きを「保持」、「協働」(二次的原因を用いての働き)、「統治」と3つに区分するのが一般的です。ここで摂理が万物に及ぶ点に留意することが重要です。つまり何かが存在する(あるいは起こる)のであれば、それは摂理によって存在している(あるいは起こっている)というのが基本中の基本だということです。
二通りの摂理の働き方
摂理をより具体的に説明するために二通りの摂理の働き方を紹介しますが、よく誤解されたり混同されたりするので注意が必要です。神学ではまず、「通常の摂理」と「非常の摂理」を区別します。これは摂理の働き方に関する違いです。「通常の摂理」と言うと退屈に聞こえるかもしれませんが、これは平凡な働きを意味するわけではありません。この用語はラテン語の「ordinarius(オーディナリウス)」に由来し、「規則に従って」という意味です。この場合の「規則」とは神ご自身の規則であり、神によって確立された自然法則を指します。神は通常の摂理において、被造物を通して、自然法則に従って働きかけます。例えば、あなたの誕生は決して退屈でも平凡な出来事でもありませんでしたが、通常の摂理によって起こったことです。
一方、「非常の摂理」とは、通常の被造物による働きかけの外で、あるいはそれを超えて、またはそれに反して、神が働かれることです。聖書の奇跡がこれに当たります。イエスが水の上を歩かれたとき、それは、本来の水に関する物理法則の外で、あるいはそれを超えて起こったことでした。ここで忘れてならないのは、神の摂理が通常であろうと非常であろうと、神は常に働いておられ、そのみわざは常に賛美に値するということです。神の働きによるものはすべて、神に感謝し御名をほめたたえるべきなのです(詩篇145:10)。
二通りの摂理の対象
摂理はまた、「一般の摂理」と「特別な摂理」とに区別されることがあります。これはウェストミンスター信仰告白5:7などに見られるもので、摂理の対象による区別です。一般の摂理とは、万物に対する神の働きを指します。一方、特別な摂理は、とりわけ神の教会に対する神の配慮を指し、さらに広義には、個々の信仰者の人生に対する神の特別な計画や目的にも適用できます。クリスチャンが「あれはまさに神の摂理だった!」と言うとき、多くの場合、神の特別な摂理を指しています。
『神の摂理が通常であろうと非常であろうと、神は常に働いておられ、そのみわざは常に賛美に値するということです。』
摂理の働き方と対象による区別が聖書本文にどのように適用されるかを検討する前に、2つの重要な点を抑えておく必要があります。
まず、こうした区別を混同しないよう注意しなければなりません。摂理の対象によって働き方が決まるわけではありません。「通常の摂理」が「一般の摂理」とは限りませんし、同様に、「非常の摂理」が「特別な摂理」とも限らないのです。詩篇104篇と105篇を比べてみてください。詩篇104篇は一般の摂理(世界の保持)に、詩篇105篇は特別な摂理(神の民の保持)に、それぞれ焦点を当てています。しかしどちらの詩篇も、通常と非常、両方の摂理の例で満ちています。奇跡によるものであれ、様々な手段によるものであれ、どちらの詩篇も神の素晴らしいみわざを賛美しているのです。
次に、聖書は、特別な摂理がどこでどのように起きるかを考える上で慎重であるように教えています。神の摂理によって起こることは、多くの場合に私たちが望むよりもはるかに複雑です。神の民の歴史を見てください!信仰者は、神の計画の詳細まで知ろうとするのではなく(その多くは私たちに隠されています(申命記29:29))、神が愛をもって、私たちの益のためにすべてのことを働かせてくださっていると信じて従うように、さらには喜ぶように、勧められています(ローマ8:28)。神が具体的にどのように働いておられるかを考えたところで、その考えは間違っている可能性が高いのです。すべてのことに対する神の視点が私たちにはないのですから、神が多くの事象の詳細でどのように働いておられるかを知ることはできないのです。
以上のことが、聖書の保持とどのように関係しているのでしょうか。私は聖書自体に、神が通常の摂理によって、特別な摂理と一般の摂理の両方を組み合わせながら聖書本文を保持してこられた、と示唆する記述があると考えています。これは摂理による聖書の保持が、多くの人が考えるよりも複雑であることを意味します。
摂理と保持
文書による神の啓示についての聖書の教えを考えれば、私たちは少なくとも、もともとの聖書本文(原典)が「十分に保持される」ことを期待するでしょう。何に対して十分かと言うと、聖書の目的が果たされるために十分ということです。聖書は主に、キリスト・イエスに対する信仰による救いのためにあります(Ⅱテモテ3:15–17)。この前提に照らせば、救いの目的が達成されなくなるほどにみことばが失われたり改ざんされたりすることを神がお許しになるとは考えられません。神の摂理がこれを保証するのです。
『聖書は主に、キリスト・イエスに対する信仰による救いのためにあります。この前提に照らせば、救いの目的が達成されなくなるほどにみことばが失われたり改ざんされたりすることを神がお許しになるとは考えられません。神の摂理がこれを保証するのです。』
でもこれは、あくまで最低限のことです。私たちには、聖書本文が極めて正確に保持されることを期待すべき聖書的な論拠があります。(語源的に言えば、「正確さ」(accuracy)とは、主に神ご自身によって「大切に守られてきた」という意味です。)聖書の著者たちは、イエスと同様に、聖書の写本を神の権威をもって引用しています。新旧両約聖書は、過去に書かれたもの(啓示)が新しい世代にとっても有用であることを主張しながら、写本においても継続する聖書の権威を認めています(イザヤ8:16; ローマ15:4)。
神のことばは「永遠に立つ」(イザヤ40:8; ペテロ第一1:25)のですから、私たちは、正典として記された神のことばもまた、私たちのために保持されていると期待すべきです。イエスが「天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します」と教えた有名な箇所があります(マタイ5:18)。これはおそらく、特別な摂理の働きを指しているでしょう。しかしこの聖句は、律法のことばがどこにあるかを教えてはいませんし、すべての信仰者に、みことばへの完全かつ即時のアクセスを約束しているわけでもありません。では、摂理による保持はどのように成し遂げられるのでしょうか。
まず、「非常の摂理」、すなわち「奇跡」について考えてみましょう。拙著『聖書が語る 神が語る—神の摂理による聖書の保持とは』の第2章で述べたように、教会史のさまざまな時期で、「聖書本文は奇跡的に保持されてきた」という考えが一般的でした。もちろん、奇跡による保持があり得ないわけではありません。しかし聖書には、おそらく出エジプト記34章1節を除いて、聖書本文の奇跡的な保持や写しの例は一切ありません。むしろ、みことばを書き写すことに言及している数少ない箇所からは(申命記17:18やエレミヤ36:32など)、細心の注意を払いつつ、あくまで普通に書き写される様が見て取れます。
保持が通常の摂理によるならば、写本作成時の誤りや、聖書本文の意図的な改ざんは実際に起こり得ます。本文への意図的な改変が現実にあり得るからこそ、聖書につけ加えたり減らしたりしてはならない(申命記 4:2; 黙示録 22:18–19)という警告があるのです。同様に「書記たちの偽りの筆」(エレミヤ 8:8)への言及は、旧約聖書の時代にさえ、一部の写字生によって自らの利益のためにみことばが改変されたことを示しています。サマリア人の持っていたモーセ五書の誤りをイエスが正されたことは、意図的な本文の改変が認識され、批判されたもう一つの聖書の例です(ヨハネ4:20–22)。イスラエルの王が律法を写す際に祭司の立ち会いが定められていたのも、意図的な改変や写し間違いを防ぐためだったでしょう。このように、聖書の正確な写本と不正確な写本を区別すべきであることを、聖書自体が示唆しています。
保持を認識する
しかし、何が正確で何が正確でないかは、誰がどのように判断するのでしょうか。ここで「一般の摂理」と「特別な摂理」の区別が役立ちます。聖書の中に、聖書本文の保持における通常かつ特別な摂理の例が明らかにあります。上述した、祭司立ち合いの写本作成がその一例です。もう一つは、幕屋にある契約の箱のそばに律法の書を保管するという、神によって定められた決まりがあったことです(申命記31:26)。このように旧約聖書の時代の大部分において、神が、神の民とお立てになった指導者を摂理によって保持され統治されたことで、聖書も保持されたことがわかります。ですからこれは、特別な摂理による聖書の保持と言えるでしょう。
『神は、その比類なき配慮と摂理によって、書かれたみことばを極めて正確かつ純粋な形で守り続けてこられました。』
新約聖書の時代になると、状況はより複雑になります。教会は「真理の柱と土台」(Iテモテへの手紙第一 3:15)として召されており、この召しの一部は、間違いなく聖書本文を大切に守ることにあるでしょう。神の摂理による御民の保持は、新約の時代にも書かれたみことばの摂理による保持と密接に結びついています。したがって、正典形成の過程も、特別な摂理の一例と見なすことができます。しかし、自分の人生、あるいは教会に関することで、特別な摂理の働きを具体的に示そうとするのが霊的に危険であるのと同様に、摂理による保持の教理を特定の「承認された」写本や写本の伝統に結びつけることは賢明ではありません。聖書は、今日の教会にそのような権威を与えてはいないのです。
私たちには、どこまでが一般の摂理で、どこからが特別な摂理なのか、いつもわかるとは限りません。まして教会外のことにおいてはなおさらです。キリストの時代から数世紀経ったころ、クリスチャンではないユダヤ人の学者が旧約聖書本文の保持に努めましたが、神は確かに彼らの働きを用いられました。したがって、今日の翻訳聖書の基礎となっている写本の写し、保持、さらには写本の研究において、一般の摂理の働きを排除する理由はありません。
結論
結論として、神は、その比類なき配慮と摂理によって、書かれたみことばを極めて正確かつ純粋な形で守り続けてこられました。確かに複雑ではあるのですが、特別な摂理と一般の摂理の両方による(この両者の違いは識別できないことも多いのですが)、通常の摂理を用いた保持が、「摂理による聖書の保持の教理」の、最も良い聖書的かつ神学的な説明だと思われます。
This article has been translated and used with permission from the Text & Canon Institute. The original can be read here, Providence and Preservation.
この記事は「Text & Canon Institute」から許可を得て、英語の原文を翻訳したものです。原文はこちらからご覧いただけます:Providence and Preservation。