鼻からゆっくり息を吸って、口からゆっくり息を吐いてください。吸った空気の方が冷たく、吐いた空気の方が暖かいことを考えてください。それから、もう一度ゆっくり呼吸してください。リラックスできましたか。
呼吸法のようなテクニックは、不安発作に襲われている人にとって、命綱となり得ます。呼吸法は心拍数を下げ、心を落ち着け、血圧を安定させることもできるのです。呼吸法は、不安症に苦しんでいるときに誰にでもできる、とても簡単な方法です。神は私たちを、霊を持つ体に造られました。神のデザイン通り、私たちも霊と体の両方を見つめ、ケアしていかなくてはいけません。
体だけでなく霊的な面もケアできるように、私たちが整えられていく必要があるということです。残念ながら、私たちは不安に対処する際に、霊的に危険なアプローチをとってしまうことが多いのです。こうしたアプローチは心の問題に対処できないどころか、不安をさらに増大させる可能性すらあります。
不安に対処する5つの危険なアプローチ(不安なときに心が感じる要求)と、それに対する、キリストの示された克服法を以下にご紹介します。
危険なアプローチ1. 問題を軽視する
「私は神経質になり過ぎてるだけ」「何とかなる」「ただのお金の問題じゃない」「ただの結婚式のことなんだから大丈夫」「これで世の終わりってわけじゃないんだから」
私たちは、「そんなに大した問題ではない」という意味の決まり文句を自分に言い聞かせて不安に対処しようとすることがあります。こう言い聞かせれば、現実を正しい視点から見つめ直すことができ、前に進めると思うからです。でも、いくら呪文のように言ったところで、実際に問題が小さくなるわけではありません。私たちの心を占めている問題は、本質的に大切なことが多く、深く考える必要のあることです。ですから、そうした問題を軽視したり、不安を抑え込もうとしたりしない方が良いのです。
感謝なことに、神は私たちの不安をこのようには扱われません。マタイの福音書6章の山上の説教で、イエスは群衆の抱える不安に触れました。このとき、イエスは、群衆が感じていた必要を軽視することはありませんでした。「食べ物や着る物は大切ではない」と言いませんでしたし、「そんなことを心配するな」と戒めもしませんでした。むしろ、彼らの心配に「神は心を留めておられる」と言い、この真理を知ることで不安から解消され、自由になれると示したのです。イエスは言われました。「あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます」(マタイ6:32)
不安を解消しようと、日々の生活の中でつい軽視してしまう問題は何ですか。覚えていてください。神は、あなたの生活の全ての面を大事だと思っておられます。あなたが不安を覚えるところに、神の愛が働かれています。この事実にあなたが憩い、あなたの不安の場が希望の場へと変えられることを、神は望んでおられます。
危険なアプローチ2. 問題と向き合うことを先延ばしにする
プレッシャーが迫ってくると、ストレス要因から逃げ出したくなり、生産的でなくなることがあります。私たちは、家の中を片付けながら、「大変すぎるからあの部屋は覗かずにいよう」と言ったり、旅行から帰って、難しいメールがたまっていると、「後で読もう」と思ったりします。考えるだけで頭が痛くなってくるからです。
マタイの福音書6章34節で、イエスは「苦労はその日その日に十分あります」と言っています。プレッシャーと対峙するのを先延ばしにしても、不安に対処することはできません。神は、私たちが直面する全てのことに対峙できるよう、十分な恵みを与えると約束されました(IIコリント12:9)。後回しにすることで対処しようとしている今日のプレッシャーには、どんなものがあるでしょうか。どうしたら信仰を持って、今日何か1つプレッシャーと向き合うことができるか考えましょう。神はへりくだって神に拠り頼む者に、十分な恵みを与えると約束してくださっていますから(ヤコブ4:6)。
危険なアプローチ3. もっと頑張る
効果があるように思えるので、多くの人がこのアプローチを取ってしまいます。私たちは、ある問題に不安を感じると、二倍の努力をしようとして、いつもより早く起きたり、仕事の時間を増やしたり、副業をしたりします。問題を解決するためにできることは、何でもやろうとするのです。努力は美徳とも言えますが、律法主義の産物とも言えます。律法主義は私たちを、神の国ではなく自分の国の、また、一瞬一瞬の要求の奴隷にします。
マタイ6章33節で、イエスは「神の国を求めなさい」と教えます。私たちの心を神の国に向けることで、真の平安がもたらされるからです。神の国をまず求めると、「あらゆる試練の中でも私たちを支えてくださる王がいるのだ!」と思い出すことができ、平安が与えられます。また、私たちのする全ての活動に目的が与えられます。私たちの王に栄光を帰す機会だと受け止める時、人生のプレッシャーでさえ、心に平安をもたらせるのです。
あなたはどんなとき、努力によって不安を解消しようとしていますか。ご自身ですべてを成し遂げ、あなたに平安を買い戻してくださった王を、見上げることができていますか。この福音によって自由になり、私たちを愛してくださる救い主の御国を、第一に求めましょう。キリストは、キリストを求める努力をできるようにと、あなたに御霊をくださいました。
危険なアプローチ4. 衝動的な慰めに走る
ニュースを読んだ後や新しい授業のシラバスを読んだ後、気まずい会話の後に、どんな気持ちになりますか。私たちはプレッシャーに直面すると、無力感と不安感から、衝動的な慰めに走ってしまうことがあります。台所に行ってケーキをバカ食いしたり、ネットフリックス漬けになったり、ネット通販で衝動買いをしたり。不安になると、不快な現実だけがクローズアップされるので、私たちの心は衝動的な気晴らし無くしてはもうやっていけないと感じるのです。
イエスは、不安から生じるこの種の心の要求についても語っています。自分の世界があまりにゴチャゴチャで、人間関係がもつれにもつれたと感じるとき、救い主の声を聞いてください。イエスは「この被造世界を見て、神が養ってくださるという約束に慰めを得るように」と話しかけてくださっています。マタイ6章26-30節で、キリストは、私たちの天の父が空の鳥を養い、野の花を装ってくださっていると話しました。そして群衆に、被造物の上げる声から、天の父の約束に思いを馳せるようにと諭します。これは、クローズアップしてしまった不安から目を離し、王なる神に憩い、安らぎを得るようにという呼びかけです。神は、全世界を統べ治めつつ、私たちのいのちにも心からの心配をしてくださる王なのです。
衝動的な慰めに走ってしまいやすいのはどんな時でしょうか。そんな時、外に出て散歩してみましょう。星を眺めましょう。被造物の美しさに目を留め、被造物とともに神の約束を何度も繰り返して口ずさみ、神を礼拝しましょう。
危険なアプローチ5. 罪に逃げる
私たちには、情欲、短気、悪口、妬みなど、様々な罪があります。日々の生活の中で、こうした罪との戦いがあると、多くの人が気付いています。でも、不安な心が、罪との戦いにおいては敵であり、私たちをある特定の罪へといざなうことには、あまり気付いていません。たとえば、学業に対する不安が、カンニングの原因となったり、計画達成への不安が、妨害する人に対する怒りや暴言の原因となったりすることもあるのです。
キリストは、ここでも、私たちを憐み、不安を静めてくださいます。マタイ6章25節で、キリストは群衆の不安に具体的に触れました。「いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか。」もしキリストが、今、あなたの隣に座っておられたら、あなたの感じているどの不安に、具体的に名前をあげて触れられるでしょうか。キリストがこう言われるのを想像してみてください。「あなたのいのちは○○○や○○○以上のものではありませんか。」この○○○に何が入りますか?
あなたのいのちは、こうしたもの以下ではなく、もっともっと大切なのです。あなたのいのちは、あなたに約束され、あなたのために守られている、大いなる王国のものです。あなたのいのちは、あなたのために来られ、あなたを心にかけ、ご自分のところへ向かうあなたの旅路を共に歩んでくださる王のものなのです。
不安な心から生じる要求に屈することは、パニック障害を起こしている人に息を止めろと言うようなものです。不安に対して間違った方法で対処すれば、命取りになりかねません。結局のところ、全ての不安は私たちを欺いて、私たちに自分の王国を築かせ、神の国を求めることから私たちを引き離そうとします。感謝なことに、キリストは何度も何度も、私たちを助けてくださいます。今日、私たち一人ひとりが、キリストにあって私たちに注がれる神の生きて働く愛を見て、神が約束してくださっている十分な恵みを大切にすることができますように。