鬱について分かち合うことは、容易なことではありません。でも、経験を分かち合うことで、現在鬱に悩んでおられる方の助けとなるのであれば、パウロがコリント人への手紙第二1章4節で語っている意味と目的が、私たちの苦しみに与えられることになります。
主人ボブの著書に『クリスチャンなのに、なぜ鬱になるのか ― 暗い谷で意味と希望を見い出す』というものがあります。この本で、主人は鬱の経験を書いています。鬱を発症したきっかけや症状、鬱の最中にどのように希望や慰めを見つけて守られたか、鬱がどのように治ったか、そして牧会や宣教の働きに復帰できた経緯などを綴りました。
主人は長年にわたる牧会のストレスで体に支障をきたし、神経系に問題が生じて、過度の不安や鬱に陥りました。本当に、魂が暗黒に包まれる経験、言葉で言い表せないほどの深い苦しみでした。
主人はその暗闇と、彼が知っている唯一の方法で戦おうとしました。それは、日々みことばを読み、瞑想し、魂の奥底を探りながら祈りの時間を持つという方法でした。信仰書を読み、クリスチャン音楽に浸ってイエスの福音に心を浸しましたし、クリスチャン・カウンセラーと話したり、励ましとなることを書き記したり、他の人に助けの手を差し伸べたりもしました。そうして、これらすべてのことをしながら、主人は毎日、主がその日に必要な憐れみと恵みを与えてくださるように乞い求めました。憐れみ深い神は、この祈りに応えてくださり、主人がこのように苦しい日々を、一日一日絶え忍んで歩むことができるように恵みをくださいました。
しかし、主人が実践した霊的な鍛錬は、主人の信仰を強める助けとはなりましたが、それで鬱が消えた訳ではなかったことを、付け加えておく必要があります。このように鍛錬しても、鬱は何日も、何週も、そして何ヶ月も続いたのです。
この経験から、私は次のことを学びました。すなわち、私たちの側で「する」ことは、決して私たちの癒しを保証するものではないということです。私たちは、自分の善行によって神から癒しを「得る」ことはできないのです。神は私たちに何の借りもありません。私たちの救いのために、神はすでに究極の代価を払ってくださいました。私たちの癒しと、私たちの行い(すること、しないこと)にはまったく関係がないのです。癒されるかどうかは神次第、神がご自身の良い目的のために決められることです。パウロも、肉体に与えられたトゲから解放されることはありませんでしたが、神の恵みは十分であるという確信が与えられました。
さて、6年が経過しました。ボブはすっかり以前と同じライフスタイル、つまり、働き過ぎの日々に戻りました(彼自身もそのように語っています)。あるとき私が転んで足を骨折し、そこから生じる様々な問題が起きたときに、彼の身体は再び重度の鬱に陥ってしまいました。今それから更に2年半ほどが経ち、ようやく暗闇に光が差し込み始めたところです。本当にしつこい暗闇なのです!
今振り返ってみて分かることは、ボブのスケジュールには休む暇がなく、身体が極限まで酷使されていたので、何か問題が起こると、神経系がそれに対応できなくなっていたということです。過度のストレスによって副腎に負担がかかると「副腎疲労」を起こすのだと学びました。副腎は神経系を司り、体が戦うか逃げるかの反応を決める器官です。副腎は、体内で最も重要な抗ストレスホルモンであるコルチゾールを生成します。過度のストレスによって身体に耐えきれない負担がかかると副腎疲労となり、身体が回復することができずに、多くの場合に不安症や鬱となるのです。何度でも!
こうした経験を通して、神は恵みにより、私にいくつかのことを教えてくださいました。それをこれからお分かちします。
「する」ことよりも、「知ること」が先になくてはならない
まず私が学んでいるのは、神は「私が神のために奉仕すること」よりも、「私が神を知ること」を大切に思われているということです。いつでも、「すること」より「知ること」が先行しなければなりません。私たちがこのことに気づくために、神は私たちの人生に試練を与え、それによって私たちの心を明らかにし、私たちがどれだけ神を必要としているかを示されるのです。私もこのような経験を通りました。憐れみにより、神は私の心の内で取り扱われなければならない点をいくつか示してくださいました。
結婚して以来、ボブと私はずっと「すること」に忙しかったのです。「ミニストリーをすること」に忙しくて、イエスよりもミニストリーを第一に愛するようになることもあるのです。ミニストリーさえも偶像となりうるのですね。そんなとき神は愛をもって、私たちが大切にしているものを取り去られるのです。私たちが神ご自身を一番大切な宝とするためです。私たちの場合も、一心に走っていた私たちを、神は恵みによって立ち止まらせて、神を中心に生きることを教えてくださいました。確かに、私たちは犠牲的に主のために生きるように召されています。しかしそれは、神が定められたように、神の愛と恵みにたっぷりと心が満たされた人の、仕事と安息と礼拝のバランスの取れた人生で成り立つ、持続可能な犠牲でなければいけないのです。
私たちの人生の目的は神に栄光をもたらすことだが、どのようにかは神が決められる
牧会に携わっているときでも、苦境にあるときでも、私たちの人生の目的は神に栄光をもたらすことです。神が私の人生の著者であって、私ではありません。ですから、神が私の人生の場所や栄光をもたらす方法を決められるのです。正直に言うと、私の希望は牧師、または教師の妻として神に栄光をもたらすことでした。鬱を患う主人の介護者としてではありませんでした。でも、選ばれるのは神です。私ではありません。私は代価によって買い取られたのですから、私の人生は神のものです。ですから、神が私の歩みを定められます。私はどこで何をしていても、神の栄光のために生きるように召されています。私は、妻としても、母親としても、祖母としても、隣人としても、マスターズ大学で女性の弟子訓練をする教師としても、家で鬱を患う主人を看病する者としても、神に栄光を帰すことができ、選ばれるのは神なのです。
苦しみは、神の恵みの道具である
この苦しみ(鬱)は、神が私をイエスに似た者へと変えられる(ローマ8:29)道具です。神は私を御子の姿に似た者へと変えようとしておられます。神は私に幸せを約束されたでしょうか。健康で順風満帆、予定通りに進み、かつ、私の存在を喜んでくれる人に囲まれた人生を? いいえ、神が与えてくださっているのはそれ以上のものです。私の人生における神の第一の目的は、私の幸せではなく、私の聖さです。神は永続するものを私に与えることを望んでおられます。つまり、私の内にキリストの似姿を回復することです。この過程は私がイエスと顔を合わせるときまで続き、そのときには、私は永遠にイエスの御姿に似た者とされるのです。
神は私たちの未来を支配しておられる
神に主権があるのですから、私たちは未来のことを心配しなくてよいのです。ボブと私は、最後まで力強くミニストリーをやり通したい、教壇で死ねたら幸せと思っていました。でも神が望まれるのは、私たちが最後までしっかりと神にあること、神にあって人生を終えることです。良いときも悪いときも、神を信じ続け、愛し続け、神に寄り頼み続けることです。なぜなら私たちは、悲しみはやがて終わること、そして忍耐し続ける者には御国が待っていることを知っているからです。神が私たちにどれだけ暗い谷を通るように召されたとしても、私たちはいつも希望を持ち続けることができます。「ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。私たちの一時の軽い苦難は、それとは比べものにならないほど重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです」(IIコリント4:16-17)。
私たちがこのみことばを覚え、神がこの地上で私たちに与えられた、神に栄光を帰す人生において、心に励ましを受けることができますように。
振り返りの質問
自分が「すること」によって神から獲得しようと願っているものはありますか。あなたはそれを、神ご自身を求める以上に欲していないか、吟味してみてください。自分に正直になりましょう。あなたはどのような者として(場所、環境、役割で)キリストに仕えることを望みますか。神は現在、あなたをどのような場所に置かれましたか。今与えられている場所を神からのものとして受け入れますか。あなたがその場所にあって神に栄光を帰すことができるように、神があなたに力をくださるように祈りましょう。