選びと予知

フレッド・ザスペル(著者)、ブラッシュ木綿子(翻訳)-  2022年 12月 20日 - 

定義

神の予知という場合、必然的に予定も意味します。選びの教理は、神が救う者をあらかじめ定められたことを主張します。

概要

ここでの論点は、選びに関しての予知の意味、特に、ローマ人への手紙8章29節では何が意味されているかです。具体的には、「神は、あらかじめ知っている人たちを……あらかじめ定められた」とありますが、神は誰を救うかを、その人が後に信仰を持つことを予見して選ばれたのかどうか、という点です。この点が論じられてきた背景を短く紹介した後、この記事では結論を出すために考慮すべき項目を大まかに述べていきます。つまり、聖書での選びの特徴、神の知識の理解、聖書の語る「神の予知」の意味、ローマ8:29の文脈、そして最後に、ローマ8:29の考察です。

導入

『神は人間の側に救われる理由があるからではなく、ご自身の喜びのために( みこころにかなったこととして)救う者を選ばれました(マタイ11:25-27)。』

選びの教理は、神は、神ご自身だけに知られている目的のために、救う者をあらかじめ定められたことを主張します。神は人間の側に救われる理由があるからではなく、ご自身の喜びのために( みこころにかなったこととして)救う者を選ばれました(マタイ11:25-27)。アルミニウス派の選びの教理は、しばしばこれとは反対に、神は予見された信仰に基づいて救う者を選ばれたと主張します。つまり、神は未来において誰が信仰を持つかを見られて、その信仰に基づいて選ばれるという考えです。アルミニウス派の教理においては、神の選びは、我々人間が先に神を選んだからにほかならないことになります。

ローマ人への手紙8章29節はこの議論の核となる節で、使徒パウロは「神は、あらかじめ知っている人たちを……あらかじめ定められた」と言っています。アルミニウス主義者は、パウロはここで、選びが予見された信仰に基づくことを明確に主張していると論じます。しかし私は、このアルミニウス派の理解はパウロが実際に言っていることを超えた主張であると論じ、この短い記事の中で、この点に関して結論を出すために考慮すべき項目を示します。まず、幅広く考察し、続いてローマ8:29に焦点を絞っていきたいと思います。

聖書的な選びの特徴

最も一般的なレベルで考えても、神が私たちを「選ばれた」ということは、神の側の「応答」というよりも「主導」を伝えています。「予見された信仰に基づいて選ばれた」のだとすれば、信仰の有無が問題となり、神の「選び」は関係ない、もしくは必要ないことになります。しかし、新約聖書のいたるところで、選びは完全に神の側からのものであり、神ご自身の主導と恵みに基づくと書いてあります。選びは恵みによるものであり(ローマ11:5)、その恵みの栄光が、ほめたたえられるためです(エペ1:3-6)。私たちは、ご自分の目的を果たされる神のご計画にしたがって救われます(使徒13:48; ローマ8:28; エペソ1:4-5, 11; Iテサロニケ1:4-5; IIテサロニケ2:13-14; IIテモテ1:9他)。父なる神は私たちを御子に「お与えになった」のであり、これによって私たちは、御子の招きに対して信仰により応答できるようになりました。

あなたがたは信じません。あなたがたがわたしの羊の群れに属していないからです。わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。

(ヨハネ10:26-28)

この原則がヨハネの福音書15章16節に書かれています。ここでイエスは弟子たちに、「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました」と言われました。もちろん、イエスの弟子たちは、ある意味では、イエスの呼びかけに応じたのであり、その意味でイエスを「選び」ました。しかし、イエスがはっきりと教えていることは、弟子たちの選びがイエスの選択を決定したのではなく、実際にはイエスの選びがあったからこそ、弟子たちはイエスを選べたということです。神のご主権による選びが先行するのです。

神の知識の土台

「予見された信仰」という考えは、非常に深刻な神学の問題につながります。神の知識が、神の外にあるものに左右されることになるからです。この考えでは、私たちが何をするのか、神が私たちから学ばれるようです。しかし、聖書のいたるところで、神の知識は外から学んで得られるものではないことが教えられています。

『神のご主権による選びが先行するのです。』

主はだれと相談して悟りを得られたのか。だれが公正の道筋を主に教えて、知識を授け、英知の道を知らせたのか。(イザヤ40:14)

つまり、神の知識は完全に神ご自身のうちにあり、神ご自身の決定に基づくものであって、ゆえに神は永遠に全知であられるのです。神が未来をご覧になって、何かを学んだり、人がどのような行動を取るかを発見されたりすることは、一度もないのです(詩篇139:16)。

聖書の語る「神の予知」の意味

さらに、聖書の著者が「予知」という言葉で何を意味したかによって、私たちも「予知」の意味を特定する必要があります。人間が「予知」するという場合には、単に「前もって察知する」という意味しかありませんが(使徒26:5; IIペテロ3:17)、聖書が神について「予知」を用いると、神学的な意味合いが含まれることになります。聖書はもちろん、神がすべてのことを前もって知っていると断言しますが(イザヤ46:9-10; 使徒15:18)、この神の「予知」には「予定」の概念も含まれます(使徒2:23; ローマ8:29; 11:2; Iペテロ1:20; Iペテロ1:2)。同様に、聖書で「知る」という動詞が神について使われるときには、「選ぶ」や「(その者に)好意を示す」(創世記18:19; 申命記9:24; エレミヤ1:5)または「好意をもって見る」(詩篇1:6; マタイ7:23; Iコリント8:3; ガラテヤ4:9; IIテモテ2:19)という意味があります。これが「知る」ではなく「予知する」となっても同様で、時間的に「あらかじめ」の意図が付加されて、「聖定」を意味することになるわけです。

関連する聖書箇所を調べてみましょう。ローマ人への手紙11章2節で、パウロは「神は、前から知っていたご自分の民を退けられたのではありません」と言っています。これは明らかにアモス書3章2節のみことば、「地のすべての種族の中から、あなたがただけを選び出した(直訳: 知った)」に呼応しています。このみことばから、神が他の国のことは知らなかったとするのは誤りでしょう。ここで明らかなのは、神がイスラエルを特別な意味で知っておられたということです。イスラエルとの特別な関係や、イスラエルに対する神の好意がはっきりと伺えます。神は他の国の運命も、すべてあらかじめご存知だったのですが、ローマ11:2とアモス3:2では、神がイスラエルをより特別な意味で「前から知っていた」と主張しているのです。すなわち、神は彼らを選び、好意を持って知っておられたわけです(ローマ11:5, 7, 16, 28の「選び」との関連を参照のこと)。「予知」にこのような特別の選びの意味が含まれていることは、「予知」と「予定」の概念が関連して用いられているローマ8:29を見ると明らかです。ここでは「あらかじめ知っている人たちを……あらかじめ定められた」と、この2つの概念が区別されています。「予知」には「あらかじめ好意をもって選んでいた」という意味が含まれ、「予定」は神の決定そのものを表しています。

『つまり、神の知識は完全に神ご自身のうちにあり、神ご自身の決定に基づくものであって、ゆえに神は永遠に全知であられるのです。』

「予知」にこのように「予定」の含意があることは、新約聖書でこの単語が使われているとき、非常に重要な意味を持つことを教えてくれます。使徒の働き2章23節では、神の予知が明らかに「原因」として語られています。イエスは「神が定めた計画(予定)と神の予知によって(死に)引き渡された」とある通りです。ペテロの手紙第一1章19-20節には、子羊イエスは「世界の基が据えられる前から知られていた」とあります。この「知られていた」ことと結果の因果関係が明らかなので、いくつかの翻訳では「知られていた」が「あらかじめ定められた」(KJV)や「選ばれた」(CSB、NIV)と訳されているのです。そして、Iペテロ1:2では、「予知」が(ローマ8:29と同様に)またもや「選び」と関連付けられています。この「予定」と深く関連している「予知」の用法は、七十人訳の外典に収められている、ユディト記9章6節にもあります。

以上のことから言えることは、ローマ8:29を「予見された信仰に基づいて選ばれた」と解釈することは、新約聖書の他の箇所にある「あらかじめ知る(予知)」という言葉の意味と一致しないということです。神の「予知」は、「予定」や「選び」の概念と密接に関連しているのです。

ローマ8:29とローマ9章

また、ローマ8:29のパウロの発言に続く文脈で、このみことばの予定論的理解が明確に示されている点にも注意すべきです。ローマ9:6-24で、パウロは神の救いの計画が着々と進んで行ったのは、神の主権的な選びによるものだと長々と論じています。神の約束がイシュマエルではなく、イサクに対してなされたのは、ただ神ご自身の選びによるものでした(6-9節)。同様に、神がエサウではなくヤコブを選ばれたのは、どちらの行いとも全く関係がありませんでした(10-13節)。むしろ、神の決定が何らかの「行い」を予見してなされたことが明確に否定されています。神の決定は「その子どもたちがまだ生まれもせず、善も悪も行わないうちに」なされたのであり、それは「選びによる神のご計画が、行いによるのではなく、召してくださる方によって進められるため」(11節)でした。そして、これを土台にして、パウロは適用を一歩進め、「ですから、これは人の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです」と言っています(16節)。このように、選びについてのパウロの理解は、人間の側の「選ばれる要素」を一切排除しています。

直近の文脈におけるローマ8:29

もう少し文脈の範囲を狭めて、ローマ8:29の直近の文脈だけを見てみても、聖書の選びには予定論的な理解が必要であることがわかります。

神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。神は、あらかじめ定めた人たちをさらに召し、召した人たちをさらに義と認め、義と認めた人たちにはさらに栄光をお与えになりました。

(ローマ8:28-30)

『「予知」にこのように「予定」の含意があることは、新約聖書でこの単語が使われているとき、非常に重要な意味を持つことを教えてくれます。』

ここでのパウロの意図は明らかに、私たちの弱さと、この堕落し、呪われた世界にあってしばしば起こってくる問題を前にして、信仰者を励ますことにあります。神がすべてのことを働かせて益としてくださるという確信は、神が私たちを、神のご計画にしたがって(28節)召されたことに基づいています。(私たちの計画ではありません。)この計画は永遠から永遠へと続くものなので、神の民は永遠に恵みのうちに守られることになります(29-30節)。パウロがこのように私たちを安心させることができる根拠は私たちの側には一切なく、完全に神の側、つまり神ご自身の選びと計画に由来しています。神は永遠の昔から私たちのために救いのみわざを始められたのであり、私たちの最終的な栄光のために、神はそのみわざを確実に遂行される、ここに安心の保証がある、とパウロは言っているのです。神が私たちのうちに何かを見て、それに応えてくださったのではなく、恵みのうちに私たちを愛すると決められ、私たちを永遠に自分のものにしようと決意されたからこそ、私たちの救いはゆるぎないのです。

あらかじめ知っている人たち

最後に、ここで神の予知の対象が、神の民であり、彼らの態度や行動ではないことに注意しなければなりません。「神は、あらかじめ知っている人たちを……あらかじめ定められた」のであって、「あらかじめ知っていたことを……あらかじめ定められた」のではありません。選びにおける神の好意と主導、つまり選びが神の愛のみわざであることが、ここからもわかるのです。

結論と考察

選びは、神が救う者を主権的に選ばれることであり、その基準は、神のうちにある知識にのみ基づいています。私たちのうちに何があるからとか、私たちが何をするから、ということとは全く関係ないのです。神の予知は、予知に基づいたご計画につながるため、予定の教理と密接に関連しています。神の選民に対する予知について書いてある箇所(ローマ8:29; 11:2; Iペテロ1:2)では、選びがさらに神の恵み、つまり、神の選びの愛と救いの目的にも結びついています。ローマ8:29の「神は、あらかじめ知っている人たちを……あらかじめ定められた」というくだりは、ですから、私たち信仰者に大きな安心をもたらします。私たちの救いは、初めから終わりまで、神のみわざであると思い起こさせてくれるからです。

神にのみ、栄光がありますように!

参考文献

聖書 新改訳2017©新日本聖書刊行会

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この記事は「The Gospel Coalition」から許可を得て、英語の原文を翻訳したものです。原文はこちらからご覧いただけます:Election and Foreknowledge。このエッセイは「Concise Theology」シリーズの一部です。 このエッセイで述べられているすべての見解は、著者の見解です。このエッセイは、帰属リンク、変更点の表示、および同じクリエイティブ・コモンズ・ライセンスが適用される限り、他の媒体/フォーマットでの共有や内容の翻案/翻訳を許可するクリエイティブ・コモンズ・ライセンスによる著作権のもと自由に利用可能です。私たちのコンテンツを翻訳することに興味がある方、または私たちの翻訳者コミュニティに参加することに興味がある方は、The Gospel Coalition, INCまでご連絡ください。
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