定義
神の栄光とは、あらゆる面で完全であられる神の壮麗さ、尊さ、素晴らしさ、偉大さです。神の栄光は創造と贖いのみわざにおいて啓示されます。神が御前にいる人々にご自分の栄光を知らしめられるからです。
要旨
神の栄光は、聖書の物語全体に織り込まれており、全宇宙の物語の起源、その内容、そして結びとなっています。神の栄光とは、あらゆる面で完全であられる神の壮麗さ、尊さ、素晴らしさ、偉大さです。神はご自分の栄光を被造物を通して、ご自分のかたちである人間を通して、摂理を通して、また、贖いのみわざを通してお伝えになります。神の民は、神に栄光を帰することによって応答します。神は栄光をお受けになり、キリストと結ばれる御民と、ご自分の栄光をお分かちになります。あらゆる面で完全であられる神が示され、知られ、喜ばれ、尊ばれることのすべてが、また神の栄光となります。
神の栄光は聖書の壮大なテーマであり、すべての主要な箇所で取り上げられ、あらゆる主要な教理に関連し、聖書全体の物語に織り込まれています。聖書の物語はある意味、神の栄光のドラマであると言えるほど、神の栄光は聖書の中心的なテーマなのです。
神の栄光の中心性
聖書の物語の鍵となる場面では必ず神の栄光が強調され、神の栄光は様々な形で現わされます。神の栄光はまず創造のみわざで啓示されます(創世記1; 詩篇19:1-2; ローマ1:18-25)。神のかたちとして造られ、栄光と誉れの冠をいただいた人間の創造にも関連します(創世記2; 詩篇8:3-5; Iコリント11:7)。出エジプト(出エジプト3; 13:31; 16:10; 24:9-18; 34:29)、火や輝く光(出エジプト3; 13:31; 16:10; 24:9-18; 34:29; レビ9:23; イザヤ60:1-3; 60:19; エゼキエル1:28; 10:4; 43:2; ルカ2:9; IIコリント3:7; 4:4-6; へブル1:3; 黙示録18:1; 21:11; 23)、雲(出エジプト16:7, 10; 24:16; 40:34; レビ9:6; 23; 民数記14:21; 16:19, 42; 20:6; 申命記5:22-24; I列王8:10; II歴代5:14; ルカ9:26-36; 使徒1:8-11)、安息日(出エジプト19, 24)とも結びつけられています。神の栄光はモーセに啓示されました(出エジプト33:18-23)。天幕を満たしました(出エジプト40:34; 他にレビ9:6, 23; 民数記14:21; 16:19, 42; 20:6を参照のこと)。地を満たしました(民数記14:20-23; 詩篇19:1-2; イザヤ6:3)。神殿を満たしました(I列王8:11)。また、神の栄光は天の上にあります(詩篇8:1; 113:4)。イザヤの見た幻(イザヤ6:1-5)、エゼキエルの見た幻でも啓示されました(エゼキエル1:28; 3:12, 23; 8:4; 9:3; 10:4, 18; 11:22)。そして神の栄光は、神の民であるイスラエルにも与えられています(イザヤ40:5; 43:6-7; 60:1)。
キリストにも神の栄光があります。キリストの受肉(ヨハネ1:1-8; マルコ9:2; へブル1:3)、降誕の記述(ルカ2:9, 14, 32)、奇跡(ヨハネ2:11; 11:38-44)、変貌(マタイ17:1-13; マルコ9:2-13; ルカ9:28-36; IIペテロ1:16-21)、受難と磔刑(ヨハネ7:39; 12:16, 23-28; 13:31-32; 17:1-5; 21:19; ルカ24:26; ローマ3:25-26; Iペテロ1:10-11)、よみがえりと高く上げられたキリスト(使徒3:13-15; ローマ6:4; ピリピ2:5-11; へブル2:5-9; Iペテロ1:21; 黙示録5:12-13; 他に使徒2:32-33; 3:13; Iテモテ3:16を参照のこと)、昇天(使徒1; Iテモテ3:16)、着座と統治(使徒7:55-56にあるステパノの見た幻; マルコ10:37)、そしてキリストの再臨と勝利、さばきと、神の栄光が結びつけられています(マタイ16:27; 19:28; 24:30; 25:31; マルコ8:38; 10:37; 13:26; ルカ9:26; 21:27; ローマ8:21; テトス2:13; IIテサロニケ1:6-9)。
更に、聖霊にも神の栄光があります(Iペテロ4:14; 他にヨハネ16:14; エペソ1:13-14を参照のこと)。教会にもあり(エペソ1:22-23; 3:20-21; 5:22-29)、神の栄光は新創造において現わされます(イザヤ66; ローマ8:18-27; 黙示録21-22)。(クリストファー・W・モーガン著、『神の栄光の神学に向けて』の「神の栄光」の項(153-56頁)を参照のこと。)
栄光の意味
栄光の現れ方がこのように多岐にわたるため、栄光を定義することはほとんど不可能です。ある意味では、神の栄光とは、あらゆる面で完全であられる神の壮麗さ、尊さ、素晴らしさ、偉大さです。それよりも多いのは、雲と火の柱(出エジプト13:21-22)や幕屋を満たした栄光(同40:34-38)のように、神の特別な臨在を伝える栄光です。
へブル語で「栄光」を意味する主要な単語は「カボド」です。「重さ」や「重いこと」を意味する語根から派生した語です。語形によって、名誉ある、威厳ある、高く上げられた、敬われた、などの意味になります。ジョン・コリンズは、「カボドという語は、神の顕現を表す専門的な語になった」と説明しています。旧約聖書における神の名の概念と多くの点で類似しています(New International Dictionary of Old Testament Theology and Exegesis の “kabod” の項を参照のこと)。
ギリシャ語で栄光を意味する主要な単語は「ドクサ」です。スベレ・アーレンによると、非宗教的な文脈で「ドクサ」は、意見や推測、評判や賞賛、名声を意味します。彼は、この概念が七十人訳で変容したと主張しています。またアーレンは、カボドがドクサと訳され、カボドと同じ意味を取るようになった、つまり、御人格、御臨在、御業、特に神の力、さばき、救いの顕現を指すようになったと主張しています(New International Dictionary of New Testament Theologyの “doxa” の項を参照のこと)。
また神の栄光が聖書の中で、あるときは形容詞、あるときは名詞、またあるときは動詞として使われていることにも注意しましょう。神は栄光に満ち(形容詞)、ご自身の栄光(名詞)を現わし、栄光をお受けになる(動詞)のです。
さらに、神の栄光には内的なものと外的なものがあります。神の内的な栄光は、神が神であられるからこそ本質的に持っておられる栄光のことです。内的な栄光は神の御業に何ら関係ありません。神はその完全性、壮麗さ、美しさにおいて、栄光に満ちておられるのです。これに対し、創造、摂理、贖い、完成の御業において神の内的な栄光の一部が示されるのが、神の外的な栄光です。
より詳しく言えば、栄光に満ちた三位一体の神が、ご自分の栄光を被造物を通して、ご自分のかたちである人間を通して、摂理を通して、また、贖いのみわざを通してお伝えになるということです。そして神の民は、神に栄光を帰することによって応答します。神は栄光をお受けになり、キリストと結ばれる御民と、ご自分の栄光をお分かちになります。すべては神の栄光のためです。
栄光の指し示すもの
このように聖書は、栄光を複数の意味で使っていることが明らかです。
第一に、栄光は神ご自身を指して用いられます。例えば、ペテロは父なる神を「厳かな栄光」と呼んでいます(IIペテロ1:17)。この珍しい言い回しはへブル語的なアプローチで、神の名を述べずに神に言及したものと思われます。
第二に、栄光は時に、神のご性質、属性、あるいは神の属性をまとめたものを指すことがあります。これは栄光が形容詞として使われることがあると言うのと似ています。神は、その完全性、十全性、威厳、美、輝きにおいて、本質的に栄光に満ちたお方です。このような用例は聖書全体を通してあります。詩篇は神を 「栄光の王」(24:7-10)や、「栄光の神」(29:3)と呼んでいます。ステパノも「栄光の神」(使徒7:2)と言っていますし、使徒パウロは「栄光の父」(エペソ1:17)に向かって祈っています。ヤコブは「私たちの主、栄光のイエス・キリスト」と書いていますが、これはギリシャ語をどのように訳すかによって、「栄光の主」とも「栄光に満ちた主」とも取れる書き方です。いずれにせよ、論点は同じです。御父と同じように、イエスも栄光によって特徴づけられると言うことです。御霊も栄光に満ちておられます(Iペテロ4:14; ヨハネ16:14; エペソ1:13-14を参照のこと)。特に、臨在、内住、神殿という概念とともに語られるとき、栄光に満ちておられます(ヨハネ14-16章; ローマ8:9-11; Iコリント3:16; 6:19-20; 14:24-25; IIコリント6:16; エペソ2:11-22; 5:18; Iテサロニケ4:18)。
第三に、聖書は栄光を神の臨在として語っています。このような栄光の理解は、出エジプトをめぐる出来事において顕著です。栄光の雲(出エジプト13-14章; 16:7; 20章; 24章; 黙示録15:8も参照のこと)、モーセへの顕現(出エジプト3-4章; 32-34章)、幕屋における神の臨在(出エジプト29:43; 40:34-38)はすべて、神の契約の臨在を強調するものです。このような神の栄光の用いられ方は、契約の箱(Iサムエル4-5章)、神殿(I列王8:10-11; II歴代5-7章)、エゼキエル書の終末の神殿(43:1-5)、キリストの人性(ヨハネ1:1-18; コロサイ1-2章; へブル1章)、聖霊(ヨハネ14-16章)、天そのもの(黙示録21-22章)に関する箇所でも出てきます。
第四に、聖書はよく、神の属性、完全性、あるいは人格を現わすものとして栄光を描いています。ヨハネの福音書では、イエスがご自分の栄光を示すために「しるし」を行われたとして、この用法で栄光を語っています(2:11)。聖書はこの用法で様々な単語を用いていますが、背後にある考えは明確です。神は御自身を現わすことによって、御自身に栄光を帰されるということです。ご自分のわざを示すことによって、神はご自分に栄光を帰されます。神のあわれみ、恵み、正義、御怒りはすべて、救いとさばきを通して明らかにされます(ローマ9:20-23; エペソ2:4-10を参照のこと)。
第五に、神の属性、完全性、人格を現わす究極の目的としての栄光があります。出エジプト記やエゼキエル書には、御名のために神が起こされる行動を記した箇所がたくさんあります。それによって人々が、神が主であることを知るためです。イエスも、ラザロの死とそれに続くよみがえりには、神の栄光のためという究極の目的があることを語りました(ヨハネ11:4; 14:13も参照のこと)。ペテロの死も同様です(ヨハネ21:19)。パウロは神が信仰者を選び、子とし、贖い、証印を押されるのは、「恵みの栄光がほめたたえられるため」(エペソ1:6, 12, 14)であると指摘しています。つまり、神は民を救うことによって、ご自分の恵みを示し、恵みを示すことによって、ご自分に栄光を帰されるということです。さらに三位一体の各位格が、それぞれの御業によって相互に栄光を現わし合うことから、三位一体の贖いの計画全体もこの目的を示しています。栄光の父が御子を遣わし、栄光の御子は自ら進んで身を低くされ、受肉、従順な生き方、犠牲の死を通して御父に栄光を帰されます(ピリピ2:5-11; ヨハネ6章、10章、17章を参照のこと)。これを受けて御父は御子を死からよみがえらせ、高く上げられて、御子に栄光をお与えになります(使徒3:13-15; ローマ6:4; ピリピ2:9-11)。
また御父は栄光の御霊を遣わし、御霊は御子の栄光を現されます(ヨハネ16:14)。そして、こうしたすべてのことによって、御父に栄光が帰されるのです(ピリピ2:11)。
第六に、栄光は時として天、天上のもの、あるいは神の臨在を完全に体験することになる、終末論的な完成を指します。ヘブル人への手紙2章10節には「多くの子たちを栄光に導く」と書いてあり、ピリピ人への手紙4章19節には「私の神は、キリスト・イエスの栄光のうちにあるご自分の豊かさにしたがって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます」という契約の約束が書かれています(エペソ3:16を参照のこと)。神の民は最終的に栄光、誉れ、朽ちないもの、永遠のいのちを受けますが、これらはすべて同じ意味で使われていると見ることができます(ローマ2:7)。このような栄光は、神の民のために永遠において準備されました(ローマ9:23)。イエスもまた「栄光のうちに上げられ」ると言われますが(Iテモテ3:16)、これは「天に」、「栄光のうちに」、あるいはその両方として理解することができます。信仰者の体も、「栄光あるものに」よみがえらされ(Iコリント15:43)、忠実な長老は「しぼむことのない栄光の冠をいただくことになります」(Iペテロ5:4)。
第七に、神に栄光を帰すことが、神を礼拝する、高く上げる、喜ぶといった、神への適切な応答を指すこともあります。詩篇29篇2節には、「御名の栄光を主に帰せよ。 」とあります。イエスの降誕では、神の栄光が周りを照らした後(ルカ2:9)、天の軍勢が現れて「いと高き所で、栄光が神にあるように」と神を賛美し(ルカ2:14)、羊飼いたちも「神をあがめ、賛美」しました(ルカ2:20)。さらに、聖書にはローマ人への手紙16章27節のように、私たちが神に栄光を帰す必要性を強調する頌栄がたくさんあります。「知恵に富む唯一の神に、イエス・キリストによって、栄光がとこしえまでありますように」(ローマ11:36; ガラテヤ1:5; エペソ3:20-21; ピリピ4:20; IIテモテ4:18; ユダ24-25; 黙示録1:5-6)。ある頌栄はキリストに向けられています(IIペテロ3:18; へブル13:21を参照のこと)。同様に、他の箇所では、キリストを誇るように(IIコリント10:17)、キリストの十字架を誇るように(ガラテヤ6:14)、キリストと結び合わされたゆえの苦しみを誇るように(IIコリント11-12章)、神の民を教えています。神に栄光を帰すことは、神の民に期待されていることで、ふさわしい応答なのです(マタイ5:13-16; 15:31; マルコ2:12; ルカ4:15; ヨハネ15:8)。クリスチャンは、自分のからだをもって(Iコリント6:20)、食べ物や飲み物の選択とそれに伴う人間関係でもって(Iコリント10:31)、そして、霊的な賜物でふさわしく奉仕することによって(Iペテロ4:11)、神の栄光を現すように命じられてさえいるのです。ローマ人への手紙14-15章は、教会が心を一つにし、声を合わせて神を賛美することの重要性を強調し、教会が神の栄光のために一致を示すことで(15:6-7)、異邦人も神を賛美するようになるという真理を教えています(15:8-9; 黙示録4-5章を参照のこと)。
まとめると、栄光に満ちた三位一体の神は、喜んで、恵み深く、ご自身の栄光をお示しになります。それは主に被造物、神のかたちとして造られた人間、摂理、贖いのみわざを通して行われます。神の民は、神に栄光を帰することによって応答します。神は栄光をお受けになり、キリストと結ばれる御民と、ご自分の栄光をお分かちになります。あらゆる面で完全であられる神が示され、知られ、喜ばれ、尊ばれることのすべてが、また神の栄光となるのです。
参考文献
- Christopher W. Morgan and Robert A. Peterson, eds., The Glory of God. Theology in Community
- G. K. Beale, The Temple and the Church’s Mission: A Biblical Theology of the Dwelling Place of God
- James Hamilton, Jr., God’s Glory in Salvation through Judgment: A Biblical Theology
- John Piper, God’s Passion for His Glory: Living the Vision of Jonathan Edwards, With the Complete Text of The End for Which God Created the World.
- John Piper, “What is God’s Glory.”
- Sam Storms, “The Glory of God.”
This article has been translated and used with permission from The Gospel Coalition. The original can be read here, The Glory of God. This essay is part of the Concise Theology series. All views expressed in this essay are those of the author. This essay is freely available under Creative Commons License with Attribution-ShareAlike, allowing users to share it in other mediums/formats and adapt/translate the content as long as an attribution link, indication of changes, and the same Creative Commons License applies to that material. If you are interested in translating our content or are interested in joining our community of translators, please contact The Gospel Coalition, INC.
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