定義
神の超越性と内在性は、関連したキリスト教の教理です。神は威厳に満ちた王としてあがめられるべき方であり、被造物に対する支配と権威をもっておられます(超越性)。けれども同時に、この支配と権威によって、常に被造物の御前におられ、特に、御民と人格的に親しく交わってくださる方でもあられるのです(内在性)。
要旨
神の超越性と内在性は、王として被造世界と人間を支配し、権威をもっておられる神についての関連したキリスト教の教理です。神の超越性は、神が威厳ある王としてあがめられ、被造物に対して支配と権威を行使しておられる点に見られます。神の超越性は、神が被造物から遠く離れておられ、また被造物とは異質の存在であられるので、私たちには聖書に記された神の自己啓示を理解できないとか、神と全く関係を持つことができないということを意味しません。神の内在性は、王としての神の支配と権威を指します。神が被造世界を支配しておられるので、神は被造世界全体に臨在しておられます。そして特に、神の民とは、人格的かつ契約の関係を築いてくださるのです。超越性と内在性の教理は、神を非人格的な方として説明するのではなく、むしろ、イエス・キリストにおいてご自分の民の間に来てくださった神の、王としての威厳とご臨在を語るのです。神はインマヌエルの神(神が私たちとともにおられる)なのです。
超越と内在という言葉は聖書のほとんどの訳で使われていませんが、神と人の間に存在する2種類の関係を説明するために神学書でよく使われる言葉です。一般に神が超越しておられるとは、神が私たちを超え、私たちの上に高くあがめられる方であることを指します。神が内在されるとは、神が時間と空間の中に臨在され、私たちの近くにおられるということです。神の超越性について神学者が言いたいことをぴったりと表す用語は聖書にないのですが、内在性の考えはありがたいことに、「インマヌエル」(神が私たちとともにおられる)という語に要約されます(イザヤ7:14; マタイ1:23)。
ではまず、神がどのように超越しておられるのかを見てみましょう。確かに聖書には「超越」という言葉は出て来ないのですが、「超越」という用語を使うことで、聖書で教えられているいくつかの考えをまとめることができて便利です。聖書は頻繁に神は「あがめられる」方だと言っています(詩篇57:5; 97:9)。神は天におられます(申命記4:39; 伝道5:2参照のこと)。【英訳聖書では「天のさらに上で」(above the heavens)となっている箇所(詩篇8:1; 57:5など)もありますが、新改訳2017では「天で」と訳されています。】神は「高い御位に座し」ておられます(詩篇113:5)。主はまことに、「いと高き方」なのです(詩篇97:9)。このように「超越」という語は、神が私たちの「上におられる」という聖書の教えをまとめるのにとても便利です。
しかしながら、昔も今も神学者の中には、神の超越性を別の意味で用いる人がいます。
このような神学者は、神は私たちのはるか上におられ、地上のものとはまったく異質な方なので、私たちが神について語ること、少なくとも肯定的に語ることは無理だとします。そして神は私たちの言語をも超越しておられるので、私たちが神についてどのように語ろうとしても不十分であるとします。このような考えは現代の神学の懐疑主義につながり、神学者の中には神の啓示としての聖書そのものの妥当性や、神について確信をもって何かを語る人間の能力を疑う人もいます。
(ジョン・フレーム著、『The Doctrine of God』110頁)
しかし聖書は神の超越性が、人が神を知ることの不確実性、ましてや懐疑主義につながるとはしていません。聖書は神の超越性を肯定しますが、同時に明瞭に神のご性質や御業を語ってもいるのです。実際、神が「天から」自らを啓示なさるときは、はっきりと明確に啓示なさいます。それゆえに神を拒絶する者は、自分以外に誰も責めることができないのです。
というのは、不義によって真理を阻んでいる人々のあらゆる不敬虔と不義に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。神について知りうることは、彼らの間で明らかです。神が彼らに明らかにされたのです。神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はありません。彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったのです。彼らは、自分たちは知者であると主張しながら愚かになり……
(ローマ1:18-22)
ですから、神の超越性を人間の心から神を隠す雲のようなものと考えるのは明らかに間違っています。確かに聖書の中には、ローマ人への手紙11章33-36節のように、神の不可把握性や神の奥義(謎)を強調する箇所もあります。
ああ、神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう。神のさばきはなんと知り尽くしがたく、神の道はなんと極めがたいことでしょう。「だれが主の心を知っているのですか。だれが主の助言者になったのですか。だれがまず主に与え、主から報いを受けるのですか。」すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。
(ローマ11:33-36)
しかしこの箇所は、いと高き神の超越性についてではなく、ローマ人への手紙1章1節から11章32節に書かれているような、歴史における「神の道」について語っているのです。この箇所でパウロが神秘だと驚嘆しているのは、神の内在性であって超越性ではありません。上述のように、パウロはローマ人への手紙で天からの神の啓示は明らかであると語りました(ローマ1:18-21)。歴史における神の御業がいかに神秘であったとしても、パウロはその神秘を人間の言語で明確に語ることができたのです。パウロはローマの教会に対して、彼らが何を知らないのか、なぜそれを知らないのかを書いています。彼らの「知らないこと」は、「知らないとわかっていること」なのです。そして奥義は常に神の奥義であって、この神の奥義以外の部分については、明確に知られるのです。
では、神の超越性が、神を知り、神について明確に語ることの障害にはならないとすれば、どのようにこれを定義すればよいでしょうか。神を「いと高き」方、「天」におられる方とする聖書の表現は、一様に王としての神の威厳を指しています。神は、王座が臣下の上に高くあるように高いということなのです。また「天」は、御座を指す言い方です(イザヤ66:1)。もちろん神は、時間も空間も超越しておられるので、ソロモンがエルサレムの神殿を聖別したときに述懐したように、物質的な王座に文字通り座しておられるわけではありません(I列王8:27)。しかし神は、被造世界の中で私たちが特に神の臨在を強く感じることのできる場所をお定めになりました。出エジプト記3章の燃える柴や、神殿の至聖所、そして受肉された神の宮であるイエス・キリスト(マタイ12:6; ヨハネ2:19-22)などです。そして「天」も、そのような場所のひとつです。これは、空の上はるか彼方にある、文字通りに神がお住まいになっているところであり、地上の働きを終えたイエスはそこへ昇られました(使徒1:11)。
しかし、神を「いと高き」方と呼ぶ第一義的な意味は、神がこのような「高い」場所におられるということではありません。そのような場所に住まわれる権利が神にあることを指しているのです。こうした場所は神の御座であり、神は王であられるので、御座に座っておられるということです。ですから私たちが神について「超越」という語を使うのであれば、すべてをお造りになったがゆえの、王としての神の主権、力、権利を指して使うべきなのです。
主なる神の権利と力とは、すなわち神の支配と権威です(ジョン・フレーム著、『The Doctrine of God』を参照のこと)。まず神の支配ですが、神は主であられるので、全能です。神は、何でもできる力を持っておられます。つまり、神はお造りになった世界を完全に支配しておられるということです。詩篇には世界を支配される神の力を賛美して、神の王権を祝うものが多くあります(詩篇2; 47; 93:1; 96:10-13; 97:1; 99:1)。
次に神の権威ですが、これは道徳的な領域における神の支配と理解されますが、この世界で起こるすべてのことを支配される権威と理解することもできるでしょう。とは言え、私たちは通常、物理的な世界を動かされる神の力を支配、道徳的な義務を課される神の権限を権威と捉えることが多いでしょう。支配は力を、権威は権利を表します。神の支配とともに、神の権威もまた、神の主権を指し示しているのです。
「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である。あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。」
(出エジプト20:2-3)
主はモーセにこう告げられた。「イスラエルの全会衆に告げよ。あなたがたは聖なる者でなければならない。あなたがたの神、主であるわたしが聖だからである。 19:3 それぞれ、自分の母と父を恐れなければならない。また、わたしの安息日を守らなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。あなたがたは偶像の神々に心を移してはならない。また、自分たちのために鋳物の神々を造ってはならない。わたしはあなたがたの神、主である。」
(レビ記19:1-4)
レビ記を通じて、「わたしはあなたがたの神、主である」という言い回しが15回繰り返され、イスラエルの律法は、イスラエルを支配される神の主権に基づくという真理が強調されています。
したがって私たちは「超越」を、「支配と権威という王としての権限を駆使して、神が被造世界に主権をもっておられること」と定義することができるでしょう。このように理解すると、神の超越性は、神が人々から隠されていることを意味するのではなく、むしろその逆であることがわかるでしょう。実際、神の超越性が被造世界のすべての出来事とすべての被造物に対する神の支配を意味するならば、神はこの宇宙で最も目に留まる存在であられるはずです。パウロが言うように、神の啓示は「はっきりと認められる」のです(ローマ1:20)。
神は、すべての被造物に近く臨在される形で(内在性)支配され、権威を持っておられるということです。神の内在性は神の超越性の反対を意味するわけではないということです。内在は、超越を逆説的に否定する語ではなく、超越の必然なのです。
神の超越性は、この世界に対する神の主権を指す言葉ですが、だからと言って神が私たちの知識の及ばない領域にしかおられないわけではありません。実際、神は主権をもって、私たちの歴史と経験を支配しておられます。神は自然と歴史の中で起こる出来事をすべて支配しておられ、それには私たちが罪から救われる過程も含まれます。そして、神はご自分の権威を、命令を与えることによって私たちに伝えられます。
実際神の主権は、神と神が造られた被造世界、特に人間との間で結ばれる契約関係にあります。これは単に支配と権威のある関係ではなく、契約の相手とともにある関係です。契約の中心は、親密な関係なのです。この契約の主な約束は、「わたしはあなたとともにいる」という主のみことばです(創世記21:22; 26:28; 28:15; 28:20; 31:3, 5; 39:3-4; 出エジプト3:11-12; イザヤ7:14; マタイ1:23 )。出エジプト前のイスラエルに対する神の約束は、次のようでした。
わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。あなたがたは、わたしがあなたがたの神、主であり、あなたがたをエジプトでの苦役から導き出す者であることを知る。
(出エジプト6:7)
契約の中心であるこの親密な関係は、聖書全巻を貫いています(申命記4:7, 20; 7:6; 14:7; 26:18; IIサムエル7:24; IIコリント6:18; 黙示録21:7を参照のこと)。神が私たちの神であり、私たちが神の民であるので、神は永遠に「私たちとともにおられる」、インマヌエルの神なのです!
この神と人の間にある親密な関係がどれほど重要かは、いくら強調してもし過ぎることはありません。これぞキリストにある神と私たちの関係の核心です。私たちはこの関連で、特に2つの誤りを避けなければなりません。ひとつは、神秘主義や汎神論の考えです。内在性のゆえに創造主と被造物の区別を曖昧にしてしまい、私たちが神になったり、神が私たちと同じような存在になったりすることがあってはなりません。私たちの神との関係は、常に人格的なものであり、神の位格と私たちの人格の間に築かれるものです。もうひとつは、理神論の考え、つまり、神は超越される方なのだから、「神が私たちに近い」と言うのは単に修辞的な文句、「擬人化」に過ぎないという考えです。いいえ!理解するのがどれほど難しかろうが、神は、本当に、実際に、私たちの近くにおられるのです。ここで説明してきたような神の内在性は、聖書の贖いの中核であり、インマヌエル(神が私たちとともにおられる)と呼ばれたイエスの名そのものなのです。
神が契約を通して臨在されるのは、主に贖われた民に対してです。しかしより広義に、被造物全体に対しても神は臨在されます。被造物全体が、神の贖いの計画に含まれているからです。
被造物は切実な思いで、神の子どもたちが現れるのを待ち望んでいます。被造物が虚無に服したのは、自分の意志からではなく、服従させた方によるものなので、彼らには望みがあるのです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかります。私たちは知っています。被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。
(ローマ8:19-22)
実際、被造物全体がキリストを通して贖われるとも言えるのです。
御子は、見えない神のかたちであり、すべての造られたものより先に生まれた方です。なぜなら、天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。万物は御子によって造られ、御子のために造られました。御子は万物に先立って存在し、万物は御子にあって成り立っています。また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられました。なぜなら神は、ご自分の満ち満ちたものをすべて御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をもたらし、御子によって、御子のために万物を和解させること、すなわち、地にあるものも天にあるものも、御子によって和解させることを良しとしてくださったからです。
(コロサイ1:15-20)
ですから私たちは、神の内在性、すなわち契約を通して臨在される神の主権は、宇宙のあらゆる場所に認められると同時に、特定の場所において特に強く示されると理解すべきです。神は「遍在」される方であり、どこにでもおられます(詩篇139:7-12)。それは神がすべてを創造し、みこころによる計画のままにすべてを支配しておられるからというだけではなく(エペソ1:11)、被造世界全体が、神の贖いの契約の目的を果たすために存在しているからです。
聖書は「超越」、「内在」という言葉を使うようにとは命じていませんし、こうした用語が誤って用いられることによって神学的な混乱が生じることもあります。しかしながら、「超越」、「内在」という概念を神の主権、被造物と御民に対する神の契約の関係を表すものとして定義するなら、キリストの恵みの豊かさ、私たちが持つことのできる神との関係の深さなど、みことばが教える素晴らしい真理を表現することが可能になるのです。
参考文献
- Bill Muhlenberg, “On God’s Transcendence and Immanence”
- Chin-Tai Kim, “Transcendence and Immanence”
- Cornelius Van Til, An Introduction to Systematic Theology
- John Frame, The Doctrine of God, especially 1-115.
- Herman Bavinck, Reformed Dogmatics 2
- Roland Chia, “Divine Transcendence and Immanence”
聖書 新改訳2017©新日本聖書刊行会
This article has been translated and used with permission from The Gospel Coalition. The original can be read here, Divine Transcendence and Immanence. This essay is part of the Concise Theology series. All views expressed in this essay are those of the author. This essay is freely available under Creative Commons License with Attribution-ShareAlike, allowing users to share it in other mediums/formats and adapt/translate the content as long as an attribution link, indication of changes, and the same Creative Commons License applies to that material. If you are interested in translating our content or are interested in joining our community of translators, please contact The Gospel Coalition, INC.
This work is licensed under CC BY-SA 4.0 .