「わたしはあなたとともにいる。」この言葉は不安な人への贈り物です。心配している時には、自分を守ってくれ、問題を解決してくれる人、親身に肩を持ってくれる人を必要とするものです。イエスを知っている人にだけ、このような人が実際にいるのです。
ところが、神がそばにいてくださるという事実がそんなに重要だと思われないことが、私たちの問題です。私たちはそんなことよりも、一刻も早く不安から解放されたいと願います。神の約束は楽な人生を保証しません。神が約束されているのは実り多く、豊かな人生であって、楽な人生ではありません。イエスへの信頼が鎮静剤のように効くわけでもないのです。
さらに、主が実際に血肉を持って私たちに現れてくださるわけでもありません。主はともにおられますが、私たちはその事実を主のみことばに信頼して知るのです。みことばに耳を傾けると、私たちはイエスが人類の希望であること、また、主がともにおられることが恐れや不安にとらわれた時の唯一の希望であることを知るようになります。
繰り返しが熱意の表れであるとすれば、「主がともにおられる」とあなたが知るようになることに、主はとても熱心だと言えるでしょう。神はイエスが世に来られる前から、ご自分の民の近くにおられました。でも、罪の赦しが成し遂げられ、聖霊が私たちをキリストにある者としてくださった今は、もっともっと限りなく私たちの近くにおられます。そして主は喜んで、何度も何度も、繰り返しこの事実をあなたに告げてくださいます。
恐れてはならない。わたしがあなたとともにいるからだ。
(創世記2章64節)
強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主ご自身があなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。
(申命記31章6節)
女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとえ女たちが忘れても、このわたしは、あなたを忘れない。見よ、わたしは手のひらにあなたを刻んだ。あなたの城壁は、いつもわたしの前にある。
(イザヤ49章15節〜16節)
見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。
(マタイの福音書28章20節)
主は近いのです。何も思い煩わないで…。
(ピリピ人への手紙4章5節〜6節)
上の聖書箇所は、私たちを安心させるために与えられているみことばのほんの数例です。私たちはこうした聖書箇所をいくつか読むと、「もう知っている」と読み飛ばしてしまうかもしれませんが、イスラエルの民はもっと深いメッセージを受け取っていました。ヘブル語は繰り返しによってメッセージを強調します。繰り返しが言葉に新しい力を与え、メッセージの重要度を上げるのです。私たちも同じようにみことばを受け止めるべきです。「神がともにおられる」と繰り返すことにより、聖書は私たちがその真実に集中し、現実として思い描き、信じるようにと招いているのです。
主はあなたの右手をおおう陰。
(詩篇121章5節〜6節)
昼も 日があなたを打つことはなく
夜も 月があなたを打つことはない。
神はあなたの近くにおられ、強い日差しからあなたを守ってくださいます。神は喜んであなたとともにいてくださるのです。この世を創造される前から、あなたとともにおられることは神の計画でした。神はその計画を必ず全うしてくださいます。