神の国

クリストファー・モーガン(著者)、ブラッシュ木綿子(翻訳)-  2023年 08月 15日 - 

定義

神の国とは、神の造られた世界で生きる御民に対する神の支配のことであり、この支配は神のメシアが新しい契約を結ばれたことにより確立され、今現在この世界にあり、キリストの再臨において完成されるものです。

要旨

神の国は、聖書の贖罪の物語の中心にあります。この物語はアダムとエバの堕落、民族としてのイスラエルの召命、約束されたメシアの到来という筋書で進みます。メシアとして来られたイエスは、ご自分の死と復活を通してもたらされた新しい契約によって神の国を確立されました。いつの日かイエスは再び来られ、神の国の祝福を完成されます。この時イエスは「神の国の新しいエデン」を新天新地に整えられるのです。その日が来るまで、私たちは神の国の「もうすでに」と「でもまだ」の間に生き、王に仕え、王の再臨を心待ちにします。


「神の国とは、王の世界における王の民に対する王の力である」(パトリック・シュライナー『神の国と十字架の栄光』18頁参照のこと)。神の国は旧約聖書に起源を持ち、奇跡を行い、悪霊を追い出したキリストの公生涯で始まりました(マタイ13:1-50; 12:28)。キリストの生と死と復活が神の国の約束する新しい契約を成立させました。イエスが至高の権力の座である神の右に昇られたとき、神の国は広がり(エペソ1:20-21)、何千という人が使徒の宣教によってこの王国に入りました(使徒2:41, 47)。神の国の完成はキリストの再臨まで待たなければなりません。そのときイエスは栄光の座に着かれ(マタイ25:31)、世をさばき、信じる者を完成した王国に招き入れる一方で、信じない者を地獄に追いやられます(マタイ25:34, 41)。

神の国 ー 過去

『メシアであられるイエスが、神の国をその初臨において始動され、高挙において拡大され、再臨において完成されるのです。』

神の国はすべてのものに及ぶ神の支配を意味しますが(詩篇103:17-22; ダニエル4:34-35; 7:13-14)、御民に対する特別な支配でもあります。「神の国」という表現は旧約聖書にありませんが、神が御民イスラエルを特別に扱われることで、その概念は示されています(出エジプト19:6)。神は人類をご自分の栄光のために造り、アダムとエバに贖い主を約束され、さらに全世界を祝福する国民がアブラハムから出ること、ダビデの子孫からメシアが出ることも含め、ダビデとその子孫の王国がとこしえまで堅く立つことなどを約束されました。

神はご自分の栄光と御民の益のためにすべてを創造されました。ご自分のかたちとして人を造り、人が神を愛し、神に仕え、神の造られた世界を治めるようにされました(創世記1:26-31)。アダムとエバはこうした神の目的に反逆して堕落し、罪と死の支配をもたらしました(創世記3)。神はあわれみにより贖い主を約束され(創世記3:15)、後にアブラハムと公式な関係(契約関係)に入られました。この契約によりアブラハムに土地と国民が約束され、さらにはこの民を通して神が世界の全部族を祝福されることが示されました(創世記12:1-3)。シナイにおいて神は十戒を授けられ、アブラハムの子孫であるイスラエルの民を、神の民として確立されました。

神はダビデとの契約で王国と永遠の王座を約束され、アブラハムへの約束を拡大されました(IIサムエル7:12-16)。イザヤは神であり人であられる方が来られ、ダビデの王座でとこしえに治められることを予告しました(イザヤ9:6-7)。最後に神は新しい契約を約束されます。この契約はみことばへの従順、神の知識の広まり、新しいいのちが特徴です(エレミヤ31:31-34)。旧約聖書はマラキ書で終わります。そこでは神の民が相も変わらず神に背き続けていますが、メシアの前に道を備える神の使いの派遣が約束されるのです。

このように旧約聖書でも、神の国は神の普遍の支配としてもイスラエルに対する特別な支配としても言及されますが、神の国が新しい力をもって到来するのは新約聖書においてです。メシアであられるイエスが、神の国をその初臨において始動され、高挙において拡大され、再臨において完成されるのです。

神の国 — 現在

新約聖書において、約束のメシアが「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリスト」(マタイ1:1)として来られます。イエスは受肉、罪のない生涯、十字架、よみがえりを通してメシアの約束を成就し、メシアの使命を成し遂げ、失われた世界に贖いをもたらしました。

『神の国の効力はすでに発揮されていますが、その完全な結実はキリストの再臨を待ってもたらされるのです。』

イエスはことばと行いによって霊的な神の国をもたらす王です。イエスは神の国の到来を告げ(マタイ4:17; マルコ1:15; ルカ4:43)、神の国をたとえで語られ(マタイ13:1-50)、神の国の倫理基準と特質を宣言しました(マタイ5-7)。イエスの行い、特に聖霊による悪霊の追放は、神の国の到来を示すものでした。「わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです」(マタイ12:28; ルカ11:20も参照のこと)。イエスの働きは常に「エルサレム」、そしてイエスの死とよみがえりに向かっており、イエスはご自分を犠牲にすることによって救いをもたらされました。

昇天により、イエスは地上という限定された場から天の超越された支配の座に移られました。イエスは神の右の座、「天上で……すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に」着座されました(エペソ1:20-21)。ペンテコステでイエスが教会に聖霊を注がれると、何千もの人がキリストに立ち返り、神の国は力強く拡大していきました(使徒2:41, 47; 4:4)。ペテロは「神は、イスラエルを悔い改めさせ、罪の赦しを与えるために、このイエスを導き手、また救い主として、ご自分の右に上げられました」と説明しました(使徒5:31)。神は罪人を「暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました」(コロサイ1:13)。

御民に対する神の支配としての「神の国」の最終的かつ究極的な到来は、終わりのときに突如として歴史の中で力強く始まり、来たるべき世の完全な秩序をもたらします。しかしながら、この「神の国」はイエスの人格とみわざにおいて、すでに歴史の中で始まってもいるのです。ですから、「未来の現在形」はすでにはっきりと見て取れるのです(ジョージ・エルドン・ラッド著『The Presence of the Future』(未来の現在形)、144-9頁を参照のこと)。つまり神の支配は現在でもあり未来でもあり、「もうすでに」でもあり「でもまだ」でもあり、今神が積極的に歴史に介入されて成されていることでもあり来たるべき世で最終的に確立されるものでもあるのです。神の支配は絶対的な主権であり、活力に満ちた力であり、神のみわざなのです。王国の担い手であるイエスは、王国に入る者に悔い改めを命じられます。王国で生きるには、この世の生き方を捨て、新しい世の神の支配とそれにふさわしい生き方が大切にされなければいけないからです。このように、悔い改めは神の国に入る道であるだけでなく、王国の生き方そのものでもあるのです。

新約聖書はまた、イエスが王として治めるために再び来られ、正義と平和、喜びと勝利をもたらすと宣言しています。私たちはですから、「もうすでに」と「でもまだ」の緊張関係の中に生きているのです。神の国はイスラエルによって確立され、キリストの初臨によって始動され、キリストの死と復活により達成されました。神の国の効力はすでに発揮されていますが、その完全な結実はキリストの再臨を待ってもたらされるのです。

神の国 — 未来

『私たちはですから、「もうすでに」と「でもまだ」の緊張関係の中に生きているのです。』

イエスの地上での働きが神の国をもたらし、神の国はペンテコステで飛躍的に拡大しましたが、神の国の完成は「人の子[が]、その栄光を帯びてすべての御使いたちを伴って来[て]、その栄光の座に着[く]」ときまで待たれます(マタイ25:31)。そのとき御使いが「この世の王国は、私たちの主と、そのキリストのものとなった。主は世々限りなく支配される」(黙示録11:15)と告げ知らせるのです。そしてイエスはこの世をさばき、信仰者が「御国を受け継ぐ」ように招く一方、失われた者たちを永遠に処罰されます(マタイ25:31-46)。そして「終わり」に、イエスは「王国を父である神に渡されます」(Iコリント15:24)。

こうして新天新地が神の国の最後の舞台となります。神の国が平和を楽しむのは終わりのときが来てからです。イエスはすでに勝利されましたが、再臨のときまで戦いは激しく続くのです(Iペテロ5:8)。神の民はキリストによって勝利します。キリストは彼らを愛し、彼らのためにご自分を与えてくださいました(ガラテヤ2:20)。「ユダ族から出た獅子」、勝利した獅子は、屠られた子羊です(黙示録5:5-6)。神の国が最終的に完成するとき、この世の苦しみは過ぎ去ります。神の恵みにより、信仰者はキリストとともに治めます。人のいのちは輝き、文化も神の都で花開きます(へブル2:5-10; 黙示録21:24-26)。イエスは再び来られ、御民を救い出し、神の国を完成させるのです(黙示録11:15)。

天では神の民が神の国の臣下として偉大な王に永遠に仕えます。「彼らは神の御座の前にあって、昼も夜もその神殿で神に仕えている」(黙示録7:15)。 すでに負けの確定している敵である悪魔は、ついに火と硫黄の池に投げ込まれます(黙示録20:10)。キリストを通して信仰者は死に打ち勝ちます。信仰者は死んでキリストのもとへ行くのです(ピリピ1:23)。そしてよみがえりのとき、死が滅ぼされます(Iコリント15:26; 黙示録21:4)。

結論

神の国は、聖書の贖罪の物語の中心にあります。この物語は堕落、イスラエル民族の召命、約束されたメシアの到来という筋書で進みます。メシアがいつの日か、すべてのものが完成されるときに戻られ、そのときに「神の国の新しいエデン」が新天新地に整えられることが預言されています。その日が来るまで、私たちは神の国の「もうすでに」と「でもまだ」の間に生き、王に仕え、王の再臨を心待ちにするのです。

参考文献


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この記事は「The Gospel Coalition」から許可を得て、英語の原文を翻訳したものです。原文はこちらからご覧いただけます:The Kingdom of God。このエッセイは「Concise Theology」シリーズの一部です。 このエッセイで述べられているすべての見解は、著者の見解です。このエッセイは、帰属リンク、変更点の表示、および同じクリエイティブ・コモンズ・ライセンスが適用される限り、他の媒体/フォーマットでの共有や内容の翻案/翻訳を許可するクリエイティブ・コモンズ・ライセンスによる著作権のもと自由に利用可能です。私たちのコンテンツを翻訳することに興味がある方、または私たちの翻訳者コミュニティに参加することに興味がある方は、The Gospel Coalition, INCまでご連絡ください。
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