人を喜ばせるのは良いこと? 悪いこと?

ジョン・パイパー(著者) 、楠 望(翻訳) - 2025年 11月 18日  - 

[トニー(ポッドキャスト進行役)]人を喜ばせることは、良い場合と悪い場合があります。この二つには違いがありますが、私たちはその違いを理解しているでしょうか? 整理する必要があるかもしれませんね。今日はこのテーマについて話したいと思います。リスナーの方から、また新たに素晴らしい質問をいただいています。感謝です。今日は、ナタニエルさんからの質問です。

[ナタニエル]『ジョン先生、こんにちは。先生に助けてほしいことがあります。私はいつでも、すべての人を喜ばせようとしてしまいます。どうすればそれをやめて、神様を喜ばせることだけを考えられるようになりますか? 私はガラテヤ人への手紙1章10節を生活に適用したいのです。このみことばの意味を、かいつまんで教えていただけませんか? いつも周囲の人が喜ぶか、喜ばないかを基準に物事を進めてしまうので、私に与えられている神様の計画が一体何なのか、見つけ出せずにいます。よろしくお願いします』

『人の意見が偶像となり、まるで鼻に釣り針を引っ掛けられたかのように引きずり回されます。』

人を喜ばせることについて悩んでいる人はとても多いですね。ほとんどの人がそうだと言っても良いでしょう。批判されることを好む人などいませんし、人から拒まれることを好む人もいませんから。私たちは人から認められ、尊敬され、受け入れられたいと思っています。だからこそ、誰もがこの誘惑に弱いのです。人に喜ばれたいという誘惑に打ち勝つことができなければ、その願望は非常に不健康なものとなり、私たちを支配し、神様のみこころを喜んで行う自由を与える代わりに、私たちを縛り付けて閉じ込めてしまいます。

人を喜ばせる:悪い場合

私たちが最初にすべきことは、人を喜ばせることの良い側面と有害な側面とを明確にすることだと思います。今回質問をしてくれたナタニエルさんは、ガラテヤ人への手紙1章10節について考えていました。ここでパウロはこのように言っています。「今、私は人々に取り入ろうとしているのでしょうか。神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、人々を喜ばせようと努めているのでしょうか。もし今なお人々を喜ばせようとしているのなら、私はキリストのしもべではありません。」

パウロは他の箇所でも、同じようなことを言っています。例えば、テサロニケ人への手紙第一2章4節でこう述べています。「むしろ私たちは、神に認められて福音を委ねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせるのではなく、私たちの心をお調べになる神に喜んでいただこうとして、語っているのです」 また、エペソ人への手紙6章5-6節で、パウロは奴隷に向かって、「キリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい。ご機嫌取りのような、うわべだけの仕え方ではなく、キリストのしもべとして心から神のみこころを行い」なさい、と語っています。さらに、マルコの福音書12章14節では、人々がイエスについてこのように言っています。「先生。私たちは、あなたが真実な方で、だれにも遠慮しない方だと知っております。人の顔色を見ず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。」

つまり、パウロやイエスは、他の人々の意見に左右されないことをかなり重要視しておられたのがわかります。人を喜ばせるために生きるなら真理のために生きることはできない、すなわち神のみこころのために生きることは絶対にできないということが、パウロとイエスの言葉や態度に表れています。人の意見が偶像となり、まるで鼻に釣り針を引っ掛けられたかのように引きずり回されます。あなたの言動は信憑性のないものとなり、従順さに欠け、人の意見ばかり気にして、神をほめたたえるという本来神から与えられている地上での目的を成し遂げることもできなくなります。

『時には、相手を不愉快にしてでも、福音を弁明しなければならないこともあるでしょう。』

人を喜ばせる:良い場合

人を喜ばせることについてここまで否定してきましたが、このテーマの全体像にはまだ辿り着いていません。ローマ人への手紙15章2節で、パウロはこう言っています。「私たちは一人ひとり、霊的な成長のため、益となることを図って隣人を喜ばせるべきです。」 また、コリント人への手紙第一10章32-33節では、「ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、つまずきを与えない者になりなさい。私も、人々が救われるために、自分の利益ではなく多くの人々の利益を求め、すべてのことですべての人を喜ばせようと努めているのです」と言っています。

さて、人を喜ばせることに関するこの二つの教えが、決して矛盾しているのではないことを説明しましょう。ローマ人への手紙15章とコリント人への手紙第一10章での「人を喜ばせようと努める」とは、ご機嫌取りのような態度でも、批判を避けるための対処でもありません。この二つの聖句が勧めているのは、虚栄心や自己保身などではなく、完全に人に善を施すための行為です。前者では、「霊的な成長のため」人を喜ばせるとパウロが言っていますし、後者では「人々が救われるために」相手を喜ばせようと努める、と述べています。

人からの承認がなくては不安になってしまうような、不健康な人物の影はここにはありません。これは、人の益のために生きることのできる、非常に健康的な、愛に満ちた強い人物です。このような人は、人を喜ばせることによって福音を勧めることができます。しかし時には、相手を不愉快にしてでも、福音を弁明しなければならないこともあるでしょう。いずれの場合も、その人のアイデンティティーは変わることがありません。カメレオンのように、自己顕示や自己保身のためにコロコロと色を変える必要はないのです。相手を不愉快にさせても喜ばせても、周囲の人々のために生きているからです。

人を恐れてしまうときの3つの解決法

では、人の意見に自分が縛られていると感じたとき、どのように対処すべきでしょうか?

『世界中の人々を集めたとしても、神のほうが限りなく素晴らしく、栄光に輝き、私たちを満たし、報いてくださるお方ではありませんか。』

1. 神の大きな存在を感じとること

第一に、私たちの人生において、また私たちの思いや心の中において、神の存在が大きくなる必要があります。神はより大きく、人々はより小さくならなければいけません。エド・ウェルチの著書に『When People Are Big and God Is Small(邦題:神より人を恐れるとき)』というものがあります。素晴らしいタイトルだと思いませんか。これこそ、基本的な問題なのです。人々の意見やその存在自体が、私たちの思いや心の中で大きく立ちはだかり、その一方で神は、私たちの感情や行動にほとんどその影響が感じられないような遠い存在となってしまいます。この状況を変えなければなりません。

ですから、祈りとみことばの学びをもって、神のすべての属性、すべての手段における主の威厳と栄光とに目を向けなければなりません。神を知るか人を知るか、神を喜ばせるか人を喜ばせるか、神を宝とするか人を宝とするか——このような選択は、まったく比較になる問題ではないということを、自分自身に言い聞かせなければなりません。世界中の人々を集めたとしても、神のほうが限りなく素晴らしく、栄光に輝き、私たちを満たし、報いてくださるお方ではありませんか。これが、私たちが最初にすべきことです。神の素晴らしさを私たちの心と思いに刻み込むよう、祈り、学びましょう。

2. キリストにあるアイデンティティーを堅く持つ

第二に起こるべき変化は、これは一つ目の結果として起こることですが、神の存在が大きくなるとき、神との関係の中にあるアイデンティティーがより確かで、堅く、栄光に満ちたものになることです。この宇宙の創造主があなたの父であり、あなたは父の全所有物の相続人なのです。それなのにどうして、例えば100万人の人々、100万人の単なる人間の意見などが、あなたの運命を決めつけたり、あなたが何者であるかを決めつけたりできるでしょうか?

コリント人への手紙第一3章21節の「だれも人間を誇ってはいけません」というパウロの論点に耳を傾けてみましょう。そして、このときの状況を思い浮かべてください。人々は思い思いに、「私はキリストにつく」、「私はアポロにつく」、「私はペテロに」、「私はパウロに」と言っていました。つまり「一番有名で評判の良い人と一緒にいれば、自分の評判とアイデンティティーは保証される」と皆が思っていたのです。このような人は、人からの承認を欲しています。「ですから、だれも人間を誇ってはいけません」とパウロは言いました。「[ここからがパウロの論点です]すべては、あなたがたのものです。パウロであれ、アポロであれ、ケファであれ、また世界であれ、いのちであれ、死であれ、また現在のものであれ、未来のものであれ、すべてはあなたがたのもの、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものです」(Iコリント3:21-23)。

見事な論理展開ではありませんか。クリスチャンは、神の子どもとして、すべてを所有している(「すべては、あなたがたのもの」)という事実、そしてそれらを相続するのはもはや時間の問題であるという事実を見るなら、自分が有名人を知っているとか、誰に気に入られているなどといったことを自慢するのは、あまりにも馬鹿げていることがわかるでしょう。まったく滑稽なことです。自分が神の子どもであることを、実際は信じていない証拠です。

3. 私たちの受ける報いに目を向ける

『この宇宙の創造主があなたの父であり、あなたは父の全所有物の相続人なのです。』

第三に、これは初めの二つの意味するところでもありますが、天において私たちの報いは大きいことを深く信じる必要があります。それは、イエスへの信仰ゆえに人を不愉快にしたことによる、非常に大きな報いなのです。マタイの福音書5章11-12節のイエスの言葉を聞いてみましょう。「わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。」 もしあなたが人を喜ばせることばかり気にするなら、このようにはできないでしょう。「大いに喜びなさい」とあります。なぜでしょうか? 「天においてあなたがたの報いは大きいのですから」 つまりイエスが言っておられるのは、他の人があなたを拒んだり否定したりすることに落胆し、支配されるより、「あなたが私に従って歩んでいるなら、人からの拒絶が結果的に大きな報いとなる」ということなのです。

このことを、信じなければなりません。天において私たちの報いは大きいことを、信じる必要があるのです。今の人生にまったく関連性のない絵空事があちこちで語られるのを聞いて、私はいい加減飽き飽きしています。まったく、それに比べてイエスの論じておられることは、いかに私たちに関連性のあることでしょうか? 軽蔑され、迫害され、罵倒され、拒絶されるような状況においても喜べるだけの懐の深さがあるなら、やけになってでも敵を愛する懐の深さもあるはずです。信じましょう。私たちは、天において大きな報いを受けるのです。その報いは、実態のない絵空事よりもずっと良いものでしょう。

神を喜ばせる自由な生き方を

これが、人を喜ばせることに束縛されている人を解放するためのスリーステップです。どうか神様が、すべてを相続する神の子どもとしてのあなたのアイデンティティーを堅く信じさせてくださいますように。どうかあなたのそのアイデンティティーが、変わることなく、堅く、深く、揺るがないものとされますように。そして、イエス様に従順に歩んだからこそ、特に、人を不愉快にさせることを避けたからではなく、批判を買ったからこそ、天におけるあなたの報いがいかに大きいかを改めて知ることができますように。

聖書 新改訳2017©新日本聖書刊行会

This article has been translated and used with permission from Desiring God. The original can be read here, Good and Bad People-Pleasing.
この記事は「Desiring God」から許可を得て、英語の原文を翻訳したものです。原文はこちらからご覧いただけます:Good and Bad People-Pleasing