以下は、『Ask Pastor John(ジョン先生に聞く)』というポッドキャストの収録内容を文章に起こしたものです。
[トニー(ポッドキャスト進行役)]罪に対して十字架という刑罰は、やり過ぎだったのでしょうか? この質問はリスナーのリサさんからいただいています。
[リサ]ジョン先生へ。難しい質問を抱える世界中の人々のために、いつも熱心に時間をかけて答えてくださってありがとうございます! 私も質問があります。そもそも、どうして私たちに救い主が必要なのですか? 私は自分が良い人間だと思いますし、周りを見渡しても、ほとんどの人は良い人だと思います。自分が完璧でないことはわかっています。それに神様の律法を完全に守ることもできません。しかし、自分の考えや行動が死によって罰せられなければならないほど酷いものだとも思えないのです。両親に口答えをしたり、嘘をついたからといって、本当に死ぬ必要があるのでしょうか? 自分自身や身近な人がそれほど悪者で完全に堕落していると考えるのは、非常に受け入れがたいと感じています。
[リサ]世の中には確かに、大きな悪があります。戦争、強姦、殺人、差別、抑圧などです。しかし、それらが悪であることや、良い方向に変えていかなければならないことに気付くのに、大半の人は神様など必要ないと思うのです。罪のない人が悲惨な死を遂げたからといって、神様の目から見て私の過ちが正されるとはどうしても思えません。私には歪んでいるようにしか見えないこの正義を理解できるように、また私になぜイエス様が必要なのかがわかるように、手助けしていただけませんか?
リサさんの質問は、地獄やキリストの十字架について、陰ながら居心地悪く感じている(ソフトな表現にしておきましょう)何百万人もの人の気持ちを代弁しているようですね。私としては、この問題をこのように提示したいと思います。神を小さく扱い、人を大きく扱うなら、地獄は忌まわしく——実に不条理なもの——、十字架は愚かなものになる、と。
リサさんの質問で一番はっきりしていることは、彼女の持つ悪の概念では、地獄やキリストの十字架はどこまで行っても理解できないだろうということです。なぜなら、彼女が悪と定義するのは、人に危害を及ぼすものだけであって、神を汚すものではないからです。例えば彼女は、「自分自身や身近な人がそれほど悪者で完全に堕落していると考えるのは、非常に受け入れがたいと感じ」ると、述べています。
さらに、悪についてはこう定義付けています。「世の中には確かに、大きな悪があります。戦争、強姦、殺人、差別、抑圧などです。しかし、それらが悪であることや、良い方向に変えていかなければならないことに気付くのに、大半の人は神様など必要ないと思うのです」 リサさんによると、世の中の大きな悪とは何でしょうか? 答えは、戦争、強姦、殺人、差別、抑圧などです。
さて、これらはすべて、人が人に危害を与えています。このような行為を悪と呼ぶのに、神を考えに入れる必要はありません。リサさんの考える悪のカテゴリーには、永遠に尊ばれるべき神を卑しめ、汚し、蔑み、侮辱することは含まれないようです。このような罪は、彼女の考えにはありません。
犯罪にふさわしい刑罰
ここで、実験として想像してみましょう。この世界に神はおられないとします。そして、リサさんは大成を成したアドルフ・ヒトラーだとします。決して彼女がそのような傾向にある人物だと言っているのではありません。これは単なる実験です。彼女にとっては、世界中にいるすべてのユダヤ人を殺すことが可能なだけでなく、非アーリア人であれば誰でも殺すことができます。彼女は、アフリカ大陸の人々も殺します。中国人も殺します。インド人も殺します。南アメリカ大陸の人々も殺します。そのようにして、彼女は70億人もの殺戮をやり遂げたとします。
ここで質問です。彼女は地獄での永遠の刑罰に値するでしょうか? いいえ、値しないでしょう、というのが私の答えです。理由は二つあります。一つは、もし神がおられないなら、そしてもし、私たちが単なる複雑な化学的・物質的動物に過ぎないなら、そこに善悪などというものは存在しません。報いや功績もなく、非難に値することもありません。それらはすべて、化学反応に過ぎないのです。
しかし第二に、これが私の議論の重要なポイントですが、彼女が70億人を殺そうと、70億は有限の数字ですから、無限の刑罰を受けるには値しません。有限の犯罪を有限の数だけ犯したところで、無限の刑罰に値することはありません。別の言い方をすれば、神を蚊帳の外に押しやると、地獄や十字架のような無限の刑罰に値するほどの無限の犯罪は犯し得ないのです。それはただ不義をはたらいたことになります。
これこそが、神が私たちに聖書の中で語りかけておられる理由です。神が問題を指摘してくださらない限り、私たちは自分自身の罪深さを決して理解することはできません。神は罪を非常に明確に定義しておられます。リサさんも、私も、自分でこの真理にたどり着くことは絶対にできません。聖書から学ばなければならないのです。神はこう言っておられます——悪の本質、すなわち悪を悪とするものは、人に対する危害ではなく、神に対する侮辱です。人に危害を与えることももちろん恐ろしいことでしょう。しかしその行為は、神を尊ばず、神を崇めず、神を神として感謝を献げないという、残酷な冒涜の実体化にすぎないのです。
神に何の借りがあるのか?
ですから、こう問いかけてみましょう。神が無限の価値、無限の美、無限の偉大さに富んでおられるなら、神のすべてのご性質が一体になった、美しく栄光に輝いた情景を目の当たりにした人間には、何が求められるのでしょうか? これが重要な問いです。
イエスはこう答えておられます。「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(マタイ22:37)。パウロはこう答えています。「あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい」(Iコリント10:31)。またパウロは他の箇所で、生きるにしても死ぬにしても、自分自身の身によって、キリストがあがめられるべきだと述べています(ピリピ1:20)。
聖書は何度も繰り返して、明確に教えています。神は、喜んで礼拝を献げる被造物によって無限に価値のあるご自身の栄光が表されるために、この世界を創造されました。したがって、美徳の本質は、この世にあるどんなものより、神を愛し、求め、選び、宝とし、楽しむこと、それゆえに神を尊ぶことです。
悪の本質は、神よりも他のものを愛し、選び、求め、宝とし、楽しむことです。これは神に対する反逆行為です。そして神こそが、無限の、限りない価値と美と偉大さと尊厳を持っておられる方である以上、そのお方を他の何ものよりも愛さず、宝とせず、楽しまないことは無限の冒涜であり、無限の罰に値する行為なのです。神を小さく扱い、人を大きく扱う考えの中では、これはまったく意味をなさないでしょう。意味をなすためには、神を神として、偉大なお方として認め、人と自分自身を見つめて、自分たちがいかに神を矮小化する自己中心的な存在であるかを認めることが必要です。
替えられてしまった栄光
パウロはこう言います。「ユダヤ人もギリシア人も、すべての人が罪の下にあるからです。次のように書いてあるとおりです。『義人はいない。一人もいない』」(ローマ3:9-10)そしてパウロは、これが罪による失敗だと説明します。ローマ人への手紙3章23節には、「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず」とあります。ここでパウロは、ただちに罪という概念から、いかに私たちが神の栄光を最高の宝として受け止めなかったかという議論に移っているのがわかります。私がここで「神の栄光を最高の宝として受け止めなかったという失敗」と表現したのは、ローマ人への手紙1章22-23節の記述によるものです。ここでパウロは、人類についてこう語っています。「彼らは、自分たちは知者であると主張しながら愚かになり、朽ちない神の栄光を…似たかたちと替えてしまいました。」 ここに、悪の本質があります。
人類による冒涜は、人が人を殺すことではありません。それは人類の冒涜とは言えません。真の冒涜行為は、人が、朽ちない神の栄光をそれより劣る他のものと替えてしまったことです。それが私たちです。冒涜的で、反逆的で、神を矮小化し、自己陶酔し、神に敵対しているのが、私たちなのです。私たちが人に対して、いわゆる倫理的に善いことをしようと努めるときも、この姿は変わりません。神を気にも留めず、微塵も愛そうとせず、賛美もせず、神の栄光に一切の喜びを見出していないのですから。
大逆の罪
そのような悪に対する神の怒りが、エレミヤ書2章12-13節に垣間見られます。これは神のことばです。
天よ、このことに呆れ果てよ。
おぞ気立て。
涸れ果てよ。
——主のことば——
わたしの民は二つの悪を行った。
いのちの水の泉であるわたしを捨て、
多くの水溜めを自分たちのために掘ったのだ。
水を溜めることのできない、
壊れた水溜めを。
おぞ気立つような、驚愕すべき世の現実は、人がいのちと喜びのすべてを満たす泉である神に背を向け、神ではなく、神が造られたものにその泉を見出そうとしていることです。これは大逆の罪であり、永遠の罰に値します。リサさん、これが、私たちに救い主が必要な理由なのです。
憐れみ深い神が、無限に価値のある御子をこの世に送り、単なる人には到底できないことを成し遂げてくださったことに、私はただ感謝に震えるばかりです。神であり人である方にしか、無限の罰を背負うことはできません。それは、御子をその栄光ある御子として受け入れるすべての人のための御業です。