定義
イエスの聖書観は、同時代の人々と似ている点と異なる点がありました。似ていた点は、聖書が完全に神からのものであると考えていた点、聖書の信頼性、そして私たちの生活における聖書の権威を認めていた点です。著しく異なっていた点は、聖書が民族中心主義をさばいていると考えていた点、聖書のキリスト論的性質、レビ記に書かれているきよめの律法の意味においてです。
要旨
イエスは旧約聖書を世界に対する神のことばであると考えていました。それは、同時代のユダヤの同胞が同意しない用法においても、イエスが幅広く旧約聖書から引用していることから明らかです。神の民に与えられた聖書に基づくキリストの教えは、特定の箇所だけを権威あるものとする考え方(「正典の中の正典」と表現されることがある)とはかけ離れています。確かにイエスは、他のラビたちと同じように、聖書の中のある書巻は他の書巻より中心的であると考え、より重要な部分とそうでない部分を区別していました(マタイ23:23など)が、聖書全体が神の霊感によるもので、神の律法はすべて守られなければいけません。同時に、新しい契約の到来によってすべてがどのように変わるかを見るまでは、神の律法は守ることのできないものでもあるのです。
教会の歴史を通して、様々なクリスチャンが旧約聖書を軽視してきました。けれどもクリスチャンであれば、イエスを主と告白しています。イエスの旧約聖書についての見解を学ぶことが不可欠です。それによって信仰者も、聖書の最初の四分の三にあたる書物に、どのように向き合っていくべきかを知ることができるからです。
『イエスの聖書観は、同時代の人々と似ている点と異なる点がありました。』
イエスと同時代の人の類似点
多くの点で、イエスの聖書に対する見方は、同胞のユダヤ人とまったく同じでした。イエスは当時のユダヤ教が権威ある文書として採用していたものとまったく同じ書物を聖書と見なしていました。また、ヘブル語聖書の3つの主要な部分(律法、預言書、諸書)すべてと、後にクリスチャンが定義した、3つの主要な種類の律法(道徳律法、司法律法、儀式律法)すべてから引用しています。イエスはさらに多くの箇所を引用しながら、一貫して聖書をイエス自身にも聴衆にも権威をもつものとして扱っています(ヨハネ10:35)。聖書の究極的な著者は神であり、聖書に書かれていることばは神のことばであると見なしているのです。
イエスと旧約聖書の歴史性
イエスは旧約聖書の物語を史実と考えていたようです。自分の教えの論拠として、あるいは自分の行動の正統性を示すために、イエスは頻繁に旧約聖書に登場する主な人物の生涯の出来事を引用しています。イエスは、これらの出来事が本当に起こったことであり、後の時代の神の民に、善い行いと悪い行いを示す権威あるモデルとして記録されたという確信を、聞き手も共有していると考えていました。例えば、昔の人が神の預言者を迫害したことを語っています(マタイ5:12など)。また、古代の悪い都市の代表格としてツロ、シドン、ソドムを挙げています(同11:21-24など)。ヨナが大魚の腹の中で生き続け、彼の説教でニネベの人々が悔い改めたこと、シェバの女王が実在の人物でソロモンを訪問したことを受け入れています(同12:40-42など)。ノアの時代、そしてロトの時代に起きた悲惨な破滅に言及しています(同24:37-39など)。エリヤとエリシャの働きをふり返り(ルカ4:25-27)、モーセが荒野で青銅の蛇を掲げた出来事に訴えています(ヨハネ3:14)。これと同時期に荒野で神がイスラエルの民にマナを備えられたことも信じています(同6:32, 49, 58)。最後に、イエスは「義人アベルの血から、神殿と祭壇の間でおまえたちが殺した、バラキヤの子ザカリヤの血まで、地上で流される正しい人の血」と言って同世代の人々にさばきを宣告しますが、これはイエスが旧約聖書の話を広範囲に渡って史実として受け入れていることを示しています(マタイ23:35; ルカ11:50-51も参照のこと)。
イエスと旧約聖書の預言
他にも、まだ成就していない預言を未来に起こるべきことの権威ある真実な説明と見なしている点において、イエスは同時代の人々と同じ見解でした。ですから、ダニエル書9章27節、11章31節、12章11節に書かれている恐怖を再現することになる、エルサレムの神殿の冒涜(『荒らす忌まわしいもの』が聖なる所に立っているのを見たら(マタイ24:15; ルカ21:20も参照のこと))はこれから必ず起こると考えていました。ホセア10章8節の記述も同じです。すなわち、山々が自分の上に崩れ落ちて死ぬことにより、この世の苦しみを終わらせたいと人々が考えるような事態が起こるということです(ルカ23:30)。またイエスは、再臨のときには宇宙規模の大変動があることを、イザヤ書13章10節や34章4節の描写を用いて警告しています(マルコ13:14など)。そしてイザヤ書25章6-8節に基づいて、すべての神の民のために終末の宴会が開かれることも予期しています(マタイ8:11-12など)。
『聖書の究極的な著者は神であり、聖書に書かれていることばは神のことばであると見なしているのです。』
イエスと同時代の人の相違点
しかし、イエスの旧約聖書についての見解が、同時代のユダヤ人の見解と完全に重なっているわけではありません。双方に多くの共通点があるにもかかわらず、イエスは主要な権力者や指導的な立場にあったグループに反する形で、頻繁に聖書を引用しています。時にイエスは、彼らが聖書を歪める、あるいは誤って解釈する伝統を通して、聖書本来の意味や目的を見逃していると指摘しました。また相手に対して、聖句の明確な教えを無視している、あるいは教えに背いているとさえ言って、真っ向から対立したときもありました。例えば、レビ(マタイ)の召命についての長い記述の最後で、イエスは「『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい」(マタイ9:13)と命じています。イエスは、自分と敵対する宗教指導者たちが、自分と同じように聖書を敬い、その真実性と権威を認めていることを前提としつつ、さらに過激な適用をしているのです。ヘブル語聖書にこのような記述(ホセア6:6; Iサムエル15:22; イザヤ1:11参照のこと)があっても、それはいけにえの制度が破棄されることを示唆するものではありませんでした。「YではなくX」の意味するところは、「YよりもXの方がはるかに重要である」という意味だったのです。けれどもイエスは罪人を赦し、彼らを弟子として受け入れています(マルコ2:15b)。神殿で動物のいけにえをささげる必要性には触れてもいません。イエスの行動がこの点において、聖書に定められた慣習の標準的な解釈と異なっていることは間違いないのです。
イエスと旧約聖書における民族中心主義(選民思想)のさばき
イエスはしばしば、聖書が自分自身、あるいは自分の関わっている出来事において成就すると理解しています。今まさに起こったことを直接予告する記述がある場合もあります。もっと一般的なのは予型の場合です。神が何度も人間にご自分の性質を啓示される際、特に、救いやさばきにおいて啓示される際に繰り返される歴史の型の認識です。イエスはマタイの福音書10章35-36節(および並行箇所)でミカ書を引用していますが、これはミカの時代と同じように、イエスの弟子も自分の家族から反対され、敵視される恐れがあることを伝えるために、旧約聖書を予型的に引用しているのです。とは言え、イエスの予型的な引用は史実にしっかりと根ざしているので、弟子たちはこのような聖書の適用を異色であるとは思わなかったでしょう。イエスが同世代の人々にたとえをもって語る理由としてイザヤ書6章9-10節を用いたのも(マルコ4:11-12など)、当時の宗教指導者の偽善的な礼拝にイザヤ書29章13節を適用したのも(マルコ7:6b-7)同様です。マルコの福音書11章17節後半で、エレミヤの「強盗の巣」(エレミヤ7:11)という言葉を当時の腐敗した宗教指導者に当てはめたのも同じです。この場合、イエスはイザヤ書56章7節の「わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる」を引用した直後です。神殿が諸国民に開かれることは「異邦人の庭」という名にもともと込められていました。メシアの時代には大勢の人々が世界中からイスラエルの神を礼拝しにエルサレムに巡礼することから、この発言はさらに重みを増してきます。
イエスと旧約聖書のキリスト論的特質
『イエスはしばしば、聖書が自分自身、あるいは自分の関わっている出来事において成就すると理解しています。』
イエスはよく、聖書をキリスト論的に解釈します。つまり聖書は、自分を新しく到来したメシアの王として、直接あるいは予型的に指し示しているという理解です。イエスの聖書の用い方がキリスト論に直接結びつかない場合であっても、聖書に対するイエスの主権的な権威は、少なくともイエスが誰なのかという問題、あるいはイエスは自分のことを誰だと考えているのかという問題を提起します。イエスのこの解釈は、イエスの死と復活の後に頂点に達します。ルカの福音書24章44節でイエスは「わたしについて、モーセの律法と預言者たちの書と詩篇に書いてあることは、すべて成就しなければなりません」と宣言しました。ここでの「詩篇」は、より一般的な「諸書」を指しているでしょう。このようにしてイエスは、ヘブル語の正典の3つの主要な部分すべてに言及しているのです。新約聖書でこのように3つすべてが述べられているのはこの一箇所だけです。キリストが、聖書に書かれていることはすべて自分を指し示していると言っているわけではないことに注目してください。このように主張するクリスチャンは教会史を通して定期的にいたのですが、これは違います。創世記からマラキ書に至るすべての節や箇所がキリストのことを教えているわけではありません。そうではなく、聖書の3つの主要な部分のすべてで、キリストについて指し示す意図があって書かれたところはすべて、イエス自身において成就すると主張しているのです。実際、ルカの福音書24章27節ですでに、律法と預言書とにヘブル語聖書をよりシンプルに二分割する言い方で、同じことが主張されています。「それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた」とある通りです。これがイエスが、クレオパと、名前の明かされていないもう一人の弟子と、エマオへの途上でもった長い会話の要約だったのであれば、旧約聖書全体からかなり多くの聖書箇所が取り上げられて説明がなされたことでしょう。
イエスと旧約聖書のきよめの律法
同時に、イエスがレビ記の律法の成就と適用を完全にひっくり返しているかのような場面もあります。恐らくもっとも劇的なのは、イエスがすべての食物をきよいとする前例を築いたことでしょう。これは明らかに、レビ記に記されている食物に関する規定からの逸脱行為です。マルコの福音書7章14-15節とその並行箇所において、イエスは聴衆に「外から入って、人を汚すことのできるものは何もありません。人の中から出て来るものが、人を汚すのです」と語りました。17節で「たとえ」と言われているように、ここでイエスが多少比喩的に語っているとしても、この発言の意味するところは比較的明確です。なぜ弟子は更なる説明を必要としたのでしょうか。恐らく彼らは、イエスが食物に関する規定(コーシャの規定)を無効にするような、そんな大それた過激なことをするとは、考えられなかったからでしょう。ペテロ自身、すべての食物がきよいと受け入れるのに、主からきよくない肉を食べるように命じられる幻を3度も見なければいけませんでした(使徒10:9-16)。しかもこの出来事は、このイエスの発言から10年あまり経ってからのことです。けれどもマルコは、初代教会の言い伝えによればペテロの視点から福音書を書きましたが、それからさらに20年ほど経ってこの出来事をふり返りながら、イエスは本当にすべての食物をきよいとされたのだと理解することができたのです(マルコ7:19b)。
イエスと旧約聖書の成就
イエスの旧約聖書に対する見解を総合的に理解する上で最も重要な箇所は、恐らくマタイの福音書5章17-20節でしょう。ですからイエスと同時代のユダヤ人の共通点と相違点を統合して考える上で、この聖書箇所を正しく解釈することが極めて重要となってきます。イエスはまず、ヘブル語聖書(17節前半の「律法と預言者」)を廃棄しようとしているのではないかという、自分に対する非難を否定することから始めます。そして天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはないこと(18節)、これらの戒めの最も小さいものを一つでも破り、また破るように人々に教える者は、天の御国で最も小さい者と呼ばれること(19節)をきっぱりと主張しています。
『イエスがレビ記の律法の成就と適用を完全にひっくり返しているかのような場面もあります。』
とは言えイエスは、自分が来ても律法の施行に何の変更もないと考えていたわけではありません。すでに見たように、イエスは個人個人に対して、動物の犠牲を神殿でささげることなく、罪の赦しを宣言していましたし(マルコ2:5など; 6-7節に記されている人々の反応に注意)、すべての食物をきよい(コーシャ)とする前例を築きました。そして、もはやエルサレムの神殿のみが特別に聖い場所ではなくなる時代が迫っていることを宣言しました(ヨハネ4:21-24)。イエスは安息日に善を行うことは常に律法にかなっているとして(マルコ3:4など)、当時の宗教指導者の律法主義的な解釈を非難する以上に、安息日の律法に関して問題を突きつけました。ここまで読んでくれば、トーラーを廃棄するために来たのではないと宣言した後、キリストがその反対、つまり、律法をまったく変えずに保持するために来たのだとは言わなかったことに驚くべきではないでしょう。そうではなく、キリストは律法を成就するために来たのです。この「成就する」という動詞は、マタイの福音書ですでに6回使われている単語で(ギリシャ語でplēroō; 1:22; 2:15, 17, 23; 3:15; 4:14)、文字通りに、あるいは予型的に、旧約聖書が後に起こると指し示していたことが起こったときに使われています。これは18節の「天地が消え去るまで」という時を表す文節と一緒に理解できます。人間の罪を完全に贖うために必要なことはすべて、キリストの十字架のみわざによって成し遂げられました。
つまり信仰者にとって、レビ記のいけにえの律法は神の霊感による聖書の一部であり続けますが、もしエルサレムに神殿が今後再建されたとしても、文字通りに守られるものなのではなく、イエスの一回きりの完全な犠牲を思い起こすためのものだということです。様々な儀式や祭礼によってイスラエルの民を諸国の民から切り離す時代も同様に過ぎ去りました。イエスはトーラーの規定によらずに、あえて様々なタイプの「罪人」を自分との交わりに迎え入れました。その中には異邦人も含まれました(最も劇的な例としてマタイ8:5-13を参照してください)。しかし、道徳律法を守ることは、今でも不道徳な行いをする人々から信仰者を分かつはずです。
神の聖なる、完全な、不変の律法に対して、これほどまでに自由に振る舞うことのできる人は誰でしょうか。神のメシアだけです。他の誰であってもイエスのような主張は神を冒涜する暴挙です。ここに、イエスの旧約聖書に対する見解と、同時代の他の人々の見解との最大の違いがあるのです。イエスはマタイの福音書5章17-20節のすぐ後でいわゆる「反対命題」(イエスの聞き手がトーラーに関して真理だと理解していたこととイエスの教えとの違い)を宣言することでこの違いを裏付けています。この違いを解釈の違いに限定する人もいます。特に最後の反対命題は律法を引用しているのではなく、当時の人たちの誤解を述べているに過ぎない( 「『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは聞いています」、43節)ため、そのような主張があります。さらに、イエスによる怒り、欲望、離婚の禁止(22, 28, 32節)は、イエスが比較対象とした殺人、姦淫、妻に離縁状を渡す命令を逆に強化しています。一方でイエスは、旧約聖書で誓いを守ることと復讐(『目には目を、歯には歯を』)が実際に命じられているにもかかわらず、誓うことや復讐することを禁じています(33-42節)。つまりここで、イエスは書かれた律法の要求そのものを変更しているのです。ですから、6つの「反対命題」を一括りにしてまとめない方がよいでしょう。その代わりに、イエスの新しい契約が成就する時代においては、イエスはすべての律法について、それを定めた神の権威ある意図を宣言することができると言えます。
結論
『キリストは律法を成就するために来たのです。』
まとめると、旧約聖書は世界に対する神のことばであるとイエスが考えていたことが、イエスの幅広い旧約聖書の引用から見て取れます。その引用方法は、必ずしも同時代のユダヤの同胞が同意しないものもありました。神の民に与えられた聖書に基づくキリストの教えは、特定の箇所だけを権威あるものとする考え方(「正典の中の正典」と表現されることがある)とはかけ離れています。確かにイエスは、他のラビたちと同じように、聖書の中のある書巻は他の書巻より中心的であると考え、より重要な部分とそうでない部分を区別していました(マタイ23:23など)が、聖書全体が神の霊感によるもので、神の律法はすべて守られなければいけません。同時に、新しい契約の到来によってすべてがどのように変わるかを見るまでは、神の律法は守ることのできないものでもあるのです。福音書とイエスの教えを超えて例をふたつだけ挙げますが、信仰者に十分の一をささげさせる命令はなく、十分の一では少なすぎると思われるような犠牲的な寛大さが求められています(IIコリント8:13-15)。落穂拾いに関する規定はありませんが、新約聖書は貧しい人への配慮で満ちていて、貧しい人が必要を満たすことができるように、私たちが同様の工夫をすべきことは明らかです。
イエスが聖書を統一されたひとつの書物と見ていることも重要です。イエスは誤りなき部分と誤りある部分、信仰や生活に関する部分と歴史や科学に関する部分というように、聖書を分けることをしませんでした。私たちは旧約聖書のどの箇所についても、聖書が意図していないことを教えるために用いてはなりません。もし自分をイエスに従う者であるとするなら、私たちも聖書に対するイエスの見解を採用すべきです。それは、聖書が完全に神からのものであり、信頼でき、私たちの生活に権威をもっているとする考えです。
参考文献
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