バベルの傲りとキリストの賛美

ジョン・パイパー(著者) 、ブラッシュ木綿子(翻訳) - 2026年 06月 02日  - 

このシリーズのテーマは、「壮大な罪と、キリストの栄光におけるその世界規模の目的」です。今日は、バベルの塔建設という壮大な罪を取り上げます。これはあまりにも遠い昔の出来事で、あなたの今の生活とは無関係だと思われるなら、次に挙げる質問を考えてみてください。世界のあらゆる言語、また、民族はどこから来たのでしょうか。それは罪の結果なのでしょうか。この多様性はキリストの栄光と神の民の喜びの可能性に満ちた、良い考えなのでしょうか。世界に多くの独立した政治国家があって、しょっちゅう互いに対立しているのは良いことなのでしょうか、それとも悪いことなのでしょうか。神は一枚岩でできた強固な超国家をどうお考えになるでしょうか。それを阻止されるでしょうか。世界はそのような超国家が出来上がって終るのでしょうか。そしてあなた個人の問題として、根源にある罪は何でしょうか。神はそれについてどのようにお考えでしょうか。その罪からあなたを救うために、神は何をしてくださったでしょうか。こうしたすべてのこと、またそれ以上のことが、バベルの箇所から読み取れるのです。

不可解な問題に答える

まず、文脈上の不可解な問題をひとつ明らかにすることから始めましょう。創世記11章1節から9節は、言語の起源について述べているように見えます。しかし、創世記を注意深く読むと、創世記11章にバベルの塔が登場する前に、すでに10章で民族と言語のことが書かれていることに気づくでしょう。例えば、創世記10章5節を見てください。「これらから島々の国民が分かれ出た。それぞれの地に、言語ごとに、その氏族にしたがって、国民となった」とあります。そして、その後の創世記11章1節に、「さて、全地は一つの話しことば、一つの共通のことばであった」と書いてあるのです。創世記の著者は自分のしていることを百も承知でした。11章1節を書いた時点で、10章5節、20節、31節(わずか2節前です!)に書いたことを忘れていたわけではありません。

『神は彼らの言語を混乱させ、人類を多くの民族と言語とに分けられたのです。』

この問題を解決するには、著者がこの2つの物語を時系列に並べたわけではないことを認識する必要があります。著者はまず10章で民族と言語の広がりについて述べ、次に創世記11章1-9節でその多様性の起源について述べているのです。何か衝撃的な出来事があって、なぜそれが起こったかについて語りたい場合、それを冒頭に書くこともあれば、少し待って最後に書くこともあるでしょう。

洪水の後、神は創世記9章1節でノアに「生めよ。増えよ。地に満ちよ」と命じておられました。その結果が10章に書かれています。人々が多くの民族と言語に増え広がっていくにつれ、「生めよ。増えよ。地に満ちよ」は実現したのです。単に神の命令が成就したかのように見えます。人々が従順だったかのように見えるのです。そこへ、創世記11章1節から9節の記述が私たちに爆弾を落とします。従順ではなかったのです。人々は地に広がってはいませんでした。塊になって集まっていたのです。そのとき、神が降りて来られ、彼らの不従順を打ち砕き、もはや集まっていられないようにされました。神は彼らの言語を混乱させ、人類を多くの民族と言語とに分けられたのです。

露呈した2つの大きな罪

こうしたすべてのことがキリストの栄光にどのようにつながっているのかと問う前に、ここで少し掘り下げて、バベルの罪とは何なのか、これに対する神のさばきは何なのかを見てみましょう。創世記11章1-4節にこうあります。

さて、全地は一つの話しことば、一つの共通のことばであった。人々が東の方へ移動したとき、彼らはシンアルの地に平地を見つけて、そこに住んだ。彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作って、よく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを、漆喰の代わりに瀝青を用いた。彼らは言った。「さあ、われわれは自分たちのために、町と、頂が天に届く塔を建てて、名をあげよう。われわれが地の全面に散らされるといけないから。」

鍵となる文章は4節です。第一に、人々は町を建てようとしていました。第二に、彼らは町の中に、天にまで届く塔を建てようとしていました。第三に、彼らは自分たちの名を上げようとしていました。第四に、彼らは全地に散らされないようにしていました。

『ここに見られる2つの罪とは、称賛を愛すること(だから自分の名を上げようとする)と、安全を愛すること(だから町を建設し、地を満たすリスクを冒さない)です。』

初めの2つが後の2つに対応しています。町を建てることが全地に散らされることを避ける方法だったのであり、天に向かって塔を建てることがすなわち名をあげることだったからです。つまり、町と塔は内にある罪の外への現れだということです。ここに見られる2つの罪とは、称賛を愛すること(だから自分の名を上げようとする)と、安全を愛すること(だから町を建設し、地を満たすリスクを冒さない)です。

人に対する神のみこころは、自分が褒め称えられることに喜びを見いだすのではなく、神を知り、神を賛美することに喜びを見いだすことです。そして、町に安心を見いだすのではなく、神に喜んで従っていく中で、この神のうちに安心を見いだすことなのです。ノアとその子孫に雷鳴のような警告として洪水があったにもかかわらず、人類はその洪水の後でさえも、洪水前とまったく変わらなかったというのが、人類の壮大な罪です。人間の状態はアダムとエバの時と同じです。何が最善かは自分で決めたいのです。立ち上がれば神の座につくことができるとさえ考えているのです。贖いの恵みがなければ、今日に至るまで、これが人類の姿です。

アダムの罪と神の嘲笑

創世記11章5節に、人間のこの状況が正されようとしていることを知らせるふたつのしるしがあります。「そのときは、人間が建てた町と塔を見るために降りて来られた」とあります。まず、ここで「人間」と訳されている語が原文では「人の子ら」となっていることに注目してください。これは「アダムの子ら」とも訳せる表現です。町と塔を建てることは、アダムが神に背いて木の実を食べたのと似ているということです。アダムの罪深い性質はその子孫に受け継がれていきます。あなたと私も同じです。

第二に、「そのときは、人間が建てた町と塔を見るために降りて来られた」とあるのに注目しましょう。これは聖なる嘲笑です。著者は、神は「降りて来なければ見ることもできなかった」と、塔を馬鹿にしているのです。この塔は遠すぎて、天からは見えなかった、と。もちろん、神はどこからでもすべてをご覧になっています。けれども自分の小さな功績を誇る、神を侮る人間の傲りの滑稽さを示すために、著者は多少のリスクを取ったのです。それで「頂が天に届く」偉大な塔を、「どれ、見てみようじゃないか」と、神がかがんで覗き込まれる様子を皮肉たっぷりに描写したというわけです。

散らされ、堕ちる人類

『この壮大な罪とその結果としての世界にいくつも分かれた言語は、どのようにキリストの栄光を大きく輝かせることになるのでしょうか。』

神の栄光で地を満たすことを拒み、町での生活で身の安全を保障し、神の座にまで自らを高めようとする人間のこの壮大な罪に対して、神は何をなさるのでしょうか。創世記11章6-8節を見てください。

は言われた。「見よ。彼らは一つの民で、みな同じ話しことばを持っている。このようなことをし始めたのなら、今や、彼らがしようと企てることで、不可能なことは何もない。さあ、降りて行って、そこで彼らのことばを混乱させ、互いの話しことばが通じないようにしよう。」が彼らをそこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。

6節の神のことばに注目してください。「見よ。彼らは一つの民で、みな同じ話しことばを持っている」。このことばはつまり、神が人間の言語を分けようとしておられるだけではなく、そうすることによって人間自体をひとつの民から多くの民に分けようとしておられたことを示しています。神は言語と民族を増やそうとしておられたのです。それで7節に「さあ、降りて行って、そこで彼らのことばを混乱させ、互いの話しことばが通じないようにしよう」と書いてあるのです。このようにして神は人類を地の全面に散らされました。

つまり、人間のおこがましさ、傲りに対して神が取られた対応は、人間同士の意志疎通を難しくして、彼らが一致団結して神を侮る世界規模の計画を立てづらくすることだったのです。神は様々な民族の誇りが、他の民族の誇りを抑制するようなシステムをこの世界に埋め込まれたということです。神は、ご自分のかたちとして造られた人間のもつ、大きな可能性をご存知です。そして人間が神に信頼することなく、自らを高く上げ、独自の安全保障システムを設計する驚くべき自由をお与えになったのも、また神です。けれども限度があります。この世界に存在する何千という言語、何千という異なる民族は、驕れる人類の世界規模の野望を抑制しているのです。

キリストの栄光を計画された神の意図

では、このことの内にある、キリストの栄光のための、神の世界規模の計画に話を移しましょう。このシリーズで繰り返し学んだ原則を心に留めておいてください。神が何かを許容されるときには理由がある、という原則と、その理由も計画の一部である、という原則です。

『あらゆる言語で弟子が起こされることでキリストの権威と力はより一層「偉大」とされるのです。』

神は気まぐれに、行き当たりばったりに、目的もなく行動されることはありません。ですから、神がシンアルの平地でのこの壮大な傲慢と僭越と反抗の罪をお許しになったとき、神はご自分で何をされているか、またそれに対してどのように対応されるか、正確にご存知でした。つまり、世界中の民族と言語は、事が起こってしまってからの思いつきではないということです。それは罪に対する神のさばきであると同時に、イエス・キリストの世界規模の栄光のための神の計画でもあったのです。

そこでもう一度問いましょう。この壮大な罪とその結果としての世界にいくつも分かれた言語は、どのようにキリストの栄光を大きく輝かせることになるのでしょうか。

答えは、下に挙げる5つの方法で、です。

1.キリスト者が守られる

神が世界の言語を分けられたことは、すべてのクリスチャンを地球上から一掃する力を持つような、世界規模の巨大な反キリスト教国家の台頭を妨げます。私たちはよく、言語、文化、民族、政治国家の多様性は、キリストの栄光を世界に広げる福音宣教を妨げているかのように考えます。けれども、神の見方はそうではありません。神は人類の多様性よりも、画一性の危険を懸念しておられます。ひとつ言語の下、あるいは、ひとつ政府の下にまとまることを許されるには、人類はあまりにも邪悪です。キリストの栄光の福音は、世界が6,500もの言語に分かれているにもかかわらず、ではなく、分かれているからこそ、より良く広がり、花開くのです。

2.プライドが崩される

バベルの塔の物語がキリストの栄光を輝かせる第二の方法があります。誰かが「でも、終わりの日にはクリスチャンが世界中で迫害されるような巨大な世界政府が現れるのではなかったでしょうか」と尋ねたとしましょう。そうです。終わりの日に、神は悪を抑えつけている力を弱められます。パウロが「不法の者」(IIテサロニケ2:3)、ヨハネが「獣」(黙示録13:3)と呼ぶ反キリストが、世界中の注目を集めて台頭し、クリスチャンに対する恐ろしい迫害が起こります。しかし、ここにシンアルの反抗者とのつながりがあるのです。彼らが建てた塔はバベルの塔と呼ばれました(創世記11:9)。

『福音は部族の宗教ではありません。すべての言語、すべての民族のものです。』

ヘブル語でバベルという単語は旧約聖書で200回以上登場し、一部を除いて「バビロン」と訳されています。創世記11章9節で「それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。そこでが全地の話しことばを混乱させ……たからである」とあるのは、偉大な都バビロンを貶める意図があってのことです。塔や城壁、庭園や偶像崇拝を誇ったバビロンも、神に比べれば惨めな活躍でしかなかったということです。そしてこの「バベル」あるいは「バビロン」という名は、ヨハネの黙示録14章8-9節に登場する獣の都に与えられた名です。この中でキリストの栄光が輝くのは、大バビロンがたとえ一時的にクリスチャンの殉教者の血に酔ったとしても(黙示録17:6)、バベルの塔と同じように最終的には無に帰すことになるからです。この記述に、バビロンが「バベルの塔」の後身であることが見て取れるのです。

彼女の罪は積み重なって天に達し、神は彼女の不正を覚えておられるからです。……彼女が自分を誇り、ぜいたくにふけった分だけ、苦しみと悲しみを彼女に与えなさい。彼女は心の中で『私は女王として座し、やもめではない。だから悲しみにあうことはない』と言っているからです。……彼らは遠く離れて立ち、彼女の苦しみに恐れをなして、「わざわいだ、わざわいだ、大きな都、力強い都バビロンよ。あなたのさばきは一瞬にしてなされた」と言う。

確かに終わりの日には、神は国々にかけた抑止力を解かれます。国々はバビロンの傲りで膨れ上がるでしょう。クリスチャンは苦しむことになります。けれども一瞬にして、キリストがその無限の高みから降りて来られ、御口の息をもって不法の者を殺されるのです(IIテサロニケ2:8)。そしてバビロンはもう跡形もなくなります。人間の高慢は地上からかき消されます。創世記11章1-9節の物語はその伏線です。シンアルでの勝利、そして最後の勝利は、キリストの勝利なのです。

3.すべての民が集められる

バベルの罪と神のさばきがキリストの世界的な栄光につながる第三の方法はこれです。すべての言語、すべての民族に主権があるからこそ、イエスの権威と力の偉大さが示されるのです。「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」(マタイ28:18-19a)。確かに、罪への応答として、神は言語と民族を分けられました。けれども最終的には、あらゆる言語で弟子が起こされることでキリストの権威と力はより一層「偉大」とされるのです。多くの言語と民族に分け入り、救いをもたらすからこそ、キリストの力はますます栄光に輝くのです。

『イエスがすべての言語で受ける賛美は、その多様性のゆえに、たったひとつの民族によるひとつの言語での賛美よりも美しいのです。』

4.福音が栄光に輝く

そして、同じことが福音についても言われなければいけません。福音、すなわちイエスの死と復活のメッセージ、赦しと義認のメッセージです。ローマ人への手紙1章16節に「私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です」とあります。福音が栄光に満ちたものなのは、福音が局地的なものではない点が大きいと言えます。福音は部族の宗教ではありません。すべての言語、すべての民族のものです。もし言語に多様性がなかったなら、もし、バベルの壮大な罪とそのさばきがなかったとしたら、キリストの福音の世界的な栄光は、何千もの言語の輝きを反射している今のようには、美しく輝かなかったことでしょう。

5.イエスが賛美される

そして最後に、イエスがすべての言語で受ける賛美は、その多様性のゆえに、たったひとつの民族によるひとつの言語での賛美よりも美しいのです。

彼らは新しい歌を歌った。「あなたは、巻物を受け取り、封印を解くのにふさわしい方です。あなたは屠られて、すべての部族、言語、民族、国民の中から、あなたの血によって人々を神のために贖い、私たちの神のために、彼らを王国とし、祭司とされました。彼らは地を治めるのです。」

その後、私は見た。すると見よ。すべての国民、部族、民族、言語から、だれも数えきれないほどの大勢の群衆が御座の前と子羊の前に立ち、白い衣を身にまとい、手になつめ椰子の枝を持っていた。彼らは大声で叫んだ。「救いは、御座に着いておられる私たちの神と、子羊にある。」

シンアルの平地での壮大な罪が多くの言語を生み、それが地上のあらゆる言語による、最も栄光に満ちたキリストへの賛美へとつながりました。ハレルヤ!息のあるものはみな をほめたたえよ。

聖書 新改訳2017©新日本聖書刊行会

This article has been translated and used with permission from Desiring God. The original can be read here, The Pride of Babel and the Praise of Christ.
この記事は「Desiring God」から許可を得て、英語の原文を翻訳したものです。原文はこちらからご覧いただけます:The Pride of Babel and the Praise of Christ