間違った恥につながる不信仰と戦うには

ジョン・パイパー(著者) 、ブラッシュ木綿子(翻訳) - 2024年 12月 31日  - 

まず、恥の辞書の定義から始めましょう。恥とは「①罪悪感や②至らなさ、③不適切さを意識することによって引き起こされる辛い感情」のことです。恥を引き起こす各原因を例を挙げて説明しましょう。

  1. まず、罪悪感です。良心に反し、確定申告で情報を隠したとしましょう。それから数年はそのことを忘れ、見つかることもなかったため、何も感じませんでした。けれどもその後国税庁から責任を問われ、嘘をついたことと脱税をしたことが公になります。あなたの罪が知られてしまいました。世間の非難を浴びて、あなたは恥を痛いほど感じます。
  2. 次に至らなさを考えましょう。あなたは小さな国を代表してオリンピックに来ました。国では3000メートル走の第一人者です。ソウルで何千人もの観衆の前でレースに出場しますが、競争は非常に厳しいものでした。最後の1周になる頃には、他の選手から完全に周回遅れとなってしまい、あなたは皆が見守る中、たった一人で走り続けなければならなりません。ここに罪悪感はありません。けれどもあなたの感じる屈辱や恥は強烈かもしれません。【訳注: この記事は、ソウルオリンピックの開催された1988年に書かれました。】
  3. あるいは、不適切さもあります。パーティーに招待されて行ってみますが、会場に着いたら完全に場違いな格好をしていました。この場合も、悪意や罪はありません。ただ社会的な粗相、不適切さがあっただけです。けれどもあなたは「あぁ、馬鹿をしてしまった」、「恥ずかしい」と感じるでしょう。

『この世がどれだけ馬鹿にしても、イエスのことばは真実で、神を敬うものなのです』

適切な恥と間違った恥

この恥の定義からすぐにわかることのひとつは、恥には正当なものとそうでないものがあるということです。恥を感じるべき状況と、感じるべきでない状況があるのです。ほとんどの人は、上の例で嘘をついた人は恥を感じるべきだと思うでしょう。そしてほとんどの人が、ベストを尽くした長距離の選手は恥を感じるべきではないと言うと思います。がっかりするのは健全ですが、恥を感じるべきではありません。

聖書から、この2種類の恥について説明します。聖書も、感じるべき恥とそうではない恥があることを明確に記しています。感じるべき恥を「適切な恥」、感じるべきではない恥を「間違った恥」と呼ぶことにします。

間違った恥(感じるべきではない恥)とは、恥を感じる正当な理由がないのに感じる恥のことです。聖書的に言えば、神の栄誉を傷つけないこと、あるいはそうではあっても、自分が関与していないことに対して感じる恥です。言い換えれば、間違った恥は何か良いことに対して、神の栄誉を何ら傷つけないことに対して恥を感じている、あるいは、悪いことであっても、自分の罪ではないことに対して恥を感じているということです。私たちはこうした恥を感じるべきではありません。

適切な恥(感じるべき恥)は、恥を感じる正当な理由がある恥のことです。聖書的に言えば、神の栄誉を傷つけることに関わったときに感じる恥です。自分の態度や行為によって神の栄誉を傷つけたのなら、恥を感じて当然だということです。

ここで、間違った恥と適切な恥を区別する上で、神がどれほど重要であるかを理解してほしいと思います。神に栄光を帰すこと、あるいは神の栄誉を傷つけることに関与したかどうかで、すべてが違ってくるのです。根っこのところで恥と戦いたいなら、恥が神とどのように関係しているかを知らなければいけません。そして私たちはすべての恥に関して、根っこのところで戦う必要があるのです。というのも、間違った恥も、適切な恥も、根っこのところで対処する方法を知らないならば、私たちを動けなくさせてしまうからです。

間違った恥

それでは、間違った恥を示す聖句と、適切な恥を示す聖句を見てみましょう。

テモテへの手紙第二1章8節

ですからあなたは、私たちの主を証しすることや、私が主の囚人であることを恥じてはいけません。むしろ、神の力によって、福音のために私と苦しみをともにしてください。

この聖句が言わんとしていることは、イエスを証しすることに恥を感じるなら、それは間違った恥だということです。私たちはこのことで恥を感じるべきではありません。私たちがキリストについて良いことを語るなら、それはキリストに栄光を帰すことです。逆に恐れを感じて黙っているなら、それはキリストの栄誉を傷つけることです。ですから証しをすることは恥ずべきことではなく、証しをしないことが恥ずべきことなのです。

『私たちの恥の多くが、神中心ではなく自己中心なのです。』

次に、この聖句によれば、もしあなたがイエスのために困っているあなたの友人(聖句の場合は牢に入れられている)を恥と感じるなら、その恥は間違っているということです。世間はこれを弱さや敗北のしるしと見るかもしれません。でもクリスチャンは違います。神の名のために牢に入る覚悟があるなら、そのしもべの勇気は神に栄光を帰すことになるのです。私たちは、世間がどんなに軽蔑しようとも、このように神を敬う行為に関係していることを恥じてはいけません。

マルコの福音書8章38節

だれでも、このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるなら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るとき、その人を恥じます。

イエスの人格やことばを恥と感じるならば、それは間違った恥です。イエスが「敵を愛しなさい」と言われたのなら、他の人がそれをあざ笑い、非現実的だと言っても、私たちは恥じるべきではありません。イエスが「姦淫は悪である」と言われたのなら、都市でバリバリ働く「進んだ」若者たちが「時代遅れ」のレッテルを貼ったとしても、私たちはイエスの陣営に立つことを恥じるべきではありません。これは間違った恥です。この世がどれだけ馬鹿にしても、イエスのことばは真実で、神を敬うものなのですから。

ペテロの手紙第一4章16節

しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、恥じることはありません。かえって、このことのゆえに神をあがめなさい。

クリスチャンとして苦しんだり、非難されたり、馬鹿にされたりすることは、恥ずべきことではなく、神に栄光を帰す機会です。言い換えれば、聖書では、適切な恥と間違った恥を分ける基準は、人の目にどれだけ愚か、あるいは悪く見えるかではなく、それが実際に神に栄光を帰すかどうかだということです。

これを理解することはとても重要です。というのも私たちは、自分の行動が神の栄誉を傷つけたからではなく、他の人から良く見られることに失敗したからという理由で恥を感じることが多いからです。私たちの恥の多くが、神中心ではなく自己中心なのです。このことをよく理解しない限り、根っこのところで恥の問題と戦うことはできません。

ローマ人への手紙1章16節

『神に栄光を帰すことに対しては、それが未信者の目にはどんなに弱く、愚かに映ろうとも、恥を感じてはいけないというのが聖書の基準です。』

私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。

福音を恥じることが間違った恥である理由は、福音こそ、まさに救いをもたらす神の力だからです。福音は神を崇め、人を低くします。だからこそ、この世には全然力のように見えません。自分の力ではなく、子どものようになってイエスを頼ることを人に求めるわけですから、この世には弱さのように見えるのです。けれども福音を信じる者にとっては、罪人を救う全能の神の力です。

コリント人への手紙第二12章9-10節

しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

通常、弱さを感じたり侮辱されたりしたら、恥を感じます。けれどもパウロは大喜びします。パウロは、自分の弱さを恥じたり、侮辱や迫害を恥じることは、間違った恥だと考えています。なぜでしょうか。それは、キリストの力がパウロの弱さのうちに完全に現れるからです。

上にあげた聖句から、聖書における間違った恥の基準は、根本的に神中心であると結論づけたいと思います。神に栄光を帰すことに対しては、それが未信者の目にはどんなに弱く、愚かに映ろうとも、恥を感じてはいけないというのが聖書の基準です。

適切な恥

適切な恥を示す聖句からも、同じような神中心の原則が見えてきます。

コリント人への手紙第一15章34節

目を覚まして正しい生活を送り、罪を犯さないようにしなさい。神について無知な人たちがいます。私はあなたがたを恥じ入らせるために言っているのです。

パウロは「私はあなたがたを恥じ入らせるために言っているのです」と言っています。この人たちは恥を感じるべきだということです。神についてのひどい無知と、その結果としての誤った教理(復活の否定)と教会内の罪を見たなら、それゆえの恥は適切な恥です。言い換えれば、適切な恥は神の栄誉を傷つけることに対して感じる恥だということです。この場合は、神についての無知、神に対する罪、そして、神についての誤った信仰です。

コリント人への手紙第一6章5節

コリントの教会では、クリスチャンが信仰のない裁判官に争いの仲裁を頼んでいました。パウロはそのことを次のように責めています。

私は、あなたがたを恥じ入らせるために、こう言っているのです。あなたがたの中には、兄弟の間を仲裁することができる賢い人が、一人もいないのですか。

『神の栄誉を傷つけるときには、どんなに人の目には強く、賢く、正しく見えても、恥を感じるべきです。』

ここでもパウロは「私はあなたがたを恥じ入らせるために言っているのです」と言っています。彼らのしている行為(互いに争い、信仰者でない人にさばいてもらう)は神の名を貶めるものですから、彼らが恥を感じるとしたら、それは適切な恥です。神の栄誉を傷つけることに関与することによって感じる恥が、適切な恥だということです。

そして、ここで見落としてはならない点があります。この人たちは人の目に強く正しくあろうと躍起になっていたということです。彼らは人に認められたかったのです。裁判で勝ちたかったのです。自分たちに権利がないかのように、誰からも踏みにじられたくなかったのです。そんなことをされたら弱く見られますし、恥ずべきことです。彼らは、この世が恥と見ることを避けようとして、神が恥とされることをしてしまっているのです。

つまり、神の栄誉を傷つけるときには、どんなに人の目には強く、賢く、正しく見えても、恥を感じるべきだということです。

エゼキエル43章10節

人の子よ。あなたは、イスラエルの家が自分たちの不義によって辱められるため、彼らに神殿を示し、彼らにその模型を測らせよ。

神は、イスラエルはその不義のゆえに恥を感じるべきだと言われます。罪は神の栄誉を傷つける行為なので、常に恥の原因となります(適切な恥の例としては、ローマ6:21; IIテサロニケ3:14も参照のこと)。

以上のすべての聖句から、聖書における間違った恥と適切な恥の基準は、根本的に神中心であると結論できます。

間違った恥に対する聖書の基準は「人の目に、それがどれだけ弱く、愚かで、間違っているように見えても、神を敬うことで恥を感じるな。そして、神の栄誉を傷つけることに加担しなかったのなら、状況が悪くても恥を感じるな」です。

適切な恥に対する聖書の基準は、「人の目に、それがどれだけ強く、賢く、正しく見えても、神の栄誉を傷つけることに加担したのであれば、恥を感ぜよ」です。

間違った恥と戦う3つの例

さて、恥と呼ばれるこの辛い感情とどのように戦えばよいでしょうか。その答えは、恥につながる不信仰と戦うことです。神の約束を信じる信仰をもてるように戦えば、恥に打ち勝ち、その痛みから解放されるでしょう。以下に3つの例をあげて説明します。

1.適切な恥を長く感じ過ぎるとき

『罪に対する適切な恥の場合、痛みを感じるべきですが、感じ続けてはいけません。』

罪に対する適切な恥の場合、痛みを感じるべきですが、感じ続けてはいけません。感じ続けるのであれば、それは神の約束を信じていないからです。

例えば、あるパリサイ人の家で、ひとりの女性がイエスのもとに来て、泣きながら足を洗いました。彼女は恥を感じていたはずです。シモンの目はこの女性が罪深いことをその場にいた全員に語っていましたし、心の中で「イエスはこの女に足を触らせるべきではない」と考えていたのですから。確かに彼女は罪人でした。真の恥を感じるべきときがあります。けれども長引いてはいけません。イエスは言いました。「あなたの罪は赦されています」(ルカ7:48)。そして招待客がこの発言に文句を言うと、イエスは「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」(50節)と言って、彼女の信仰をもう一度助けました。

この女性が人を動けなくする恥の力と戦うのを、イエスはどのように助けたでしょうか。約束を与えることによってです。「あなたの罪は赦されています。あなたの信仰があなたを救ったのです。あなたの行く道は平安です」。つまり、問題は信仰だということです。招待客の刺すような視線の裏にある罪の糾弾を信じるか、それとも、もう十分に恥を感じたと優しく語るイエスのことばを信じるか、なのです。彼女は赦されています。救われています。安心して行って良いのです。

これが、長引くと私たちを動けなくさせる適切な恥の力と私たち一人ひとりが戦うべき方法です。私たちは次のような約束を握り締めて、不信仰と戦わなければなりません。

しかし あなたが赦してくださるゆえに あなたは人に恐れられます。

(詩篇130:4)

主を求めよ、お会いできる間に。呼び求めよ、近くにおられるうちに。悪しき者は自分の道を、 不法者は自分のはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。

(イザヤ55:6-7)

もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。

(Iヨハネ1:9)

 「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。

(Iテモテ1:15)

預言者たちもみなイエスについて、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられると、証ししています。

(使徒10:43; 13:39)

2.神に栄光を帰すことに恥を感じているとき

恥との戦いの2つ目の例は、イエスや福音など、悪いことでないばかりか、実際には神に栄光を帰すようなことに対して感じる恥についてです。

『私たちは神の約束に対する不信仰と戦うことによって、キリストや、福音や、キリスト教の倫理を恥に思う気持ちと戦うのです。』

 そのために、私はこのような苦しみにあっています。しかし、それを恥とは思っていません。なぜなら、私は自分が信じてきた方をよく知っており、また、その方は私がお任せしたものを、かの日まで守ることがおできになると確信しているからです。(IIテモテ1:12)

この聖句は、パウロが間違った恥とどのように戦ったかを示しています。パウロは「そのために、私はこのような苦しみにあっています。しかし、それを恥とは思っていません。なぜなら、私は自分が信じてきた方をよく知っており、また、その方は私がお任せしたものを、かの日まで守ることがおできになると確信しているからです」と言っています。

パウロはここで間違った恥との戦いは不信仰との戦いであることを明確にしています。「信じた方を知っており、信じた方の守る力を確信しているので、恥とは思わない」のです。私たちは神の約束に対する不信仰と戦うことによって、キリストや、福音や、キリスト教の倫理を恥に思う気持ちと戦うのです。福音は救いをもたらす神の力だと信じていますか。キリストの力は弱さのうちに完全に現れると信じていますか。間違った罪との戦いは、神の約束に対する不信仰との戦いなのです。

3.自分がしなかったことに恥を感じるとき

最後に、実際には神の栄誉を傷つけるようなことは何もしていないのに、他の人が私たちに悪い状況に対する恥を負わせようとする場合の戦いがあります。

これはイエスにも起こりました。人々はイエスを大酒飲み、大食漢と呼びました。神殿を壊す者と呼びました。偽善者と呼びました。「他人は救えるが自分は救えない」と言いました。こうした発言の目的はすべて、イエスに負う責任のない恥を負わせることでした。

『神の約束に希望を託す者は、だれも恥を見ることがないのです。』

パウロも同じです。パウロが法廷で弁明したとき、人々は彼を気違い呼ばわりしました。ユダヤ人の慣習の敵、モーセの律法を破る者と呼びました。恵みがあふれるために罪を犯すべきだと教えていると吹聴しました。これもすべて、パウロに負う責任のない恥を負わせるためでした。

そして、これはあなたの身にも降りかかりました。これからもまたあるでしょう。こうした間違った恥とどのように戦えばよいのでしょうか。私たちに恥をかかせようとする試みはすべて、最終的には失敗するという神の約束を信じることによってです。何が負うべき恥で、何がそうではないかが、今はよくわからないこともあるでしょう。けれどもそのどちらに対しても神は約束してくださっています。

イスラエルは主によって救われ、永遠の救いに入れられる。あなたがたは恥を見ることも 辱めを受けることもない。永遠に至るまで。

(イザヤ45:17; 49:23)

この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。

(ローマ10:11; 9:33)

言い換えれば、私たちが負うべきでない恥を負わせるために他の人が用いるすべての悪いさばきや偽りの批判、そのせいでもたらされるすべての苦悩や霊的な戦いは、最終的には成功しないという約束があるのです。神の子どもは全員、いつの日か正しいとされます。真理は知られます。神の約束に希望を託す者は、だれも恥を見ることがないのです。

聖書 新改訳2017©新日本聖書刊行会

This article has been translated and used with permission from Desiring God. The original can be read here, Battling the Unbelief of Misplaced Shame.
この記事は「Desiring God」から許可を得て、英語の原文を翻訳したものです。原文はこちらからご覧いただけます:Battling the Unbelief of Misplaced Shame