恥の力を破る

ジョン・ブルーム(著者)、ブラッシュ木綿子(翻訳)-  2022年 12月 06日 - 

彼女の人生はボロボロでした。5度の結婚に失敗した後、彼女は形式的なことにこだわるのをやめました。真昼の日差しが照りつける中、井戸の水を汲みに行きました。誰もいないので、誹謗中傷や非難がましい視線から隠れることができたからです(ヨハネ4章)。

彼は権力者でした。自分の地位を乱用して夫のいる女性と寝たところ、彼女は妊娠しました。悪事が露呈するのを恐れて彼は隠ぺい工作をしましたが、それは殺人にまで発展してしまいました(IIサムエル11章)。

彼女は12年間も長血に苦しめられました。彼女はその間ずっと汚れており、不快であり、慰めがありませんでした。イエスが他の人を癒されるのを見て、彼女は自分も癒されることを願いました。でも大勢の群衆の前でお願いすることはできませんでした。それで、群衆に紛れ、匿名でイエスの衣の房に触りました(ルカ8:43-48)。

以上は聖書に書かれた、間違った場所に恥を隠そうとした3人の姿です。素晴らしいことに3人とも、恥の力を打ち砕き、彼らを自由にしてくださる神の力を体験しました。この素晴らしい体験を、私たちも自分のものとすることができます。

恥に力を与えるもの

『恥は私たちの人生の大部分を支配し、支配された私たちは、失敗と弱さを他の人から隠すために、多くの貴重な時間とエネルギーを消費するのです。』

アダムとエバが木の実を食べ、裸であることに気づいてから、恥は私たち人類を苦しめてきました。アダムとエバは本能で、互いと神から身を隠しました(創世記3:7-11)。不思議もありません。彼らは今や神の御前に罪ある者となり、全く新しい恐ろしい形で、互いとサタンに対して弱い者となったのです。突如として彼らは、危険な世界に生きる、罪深く、弱く、傷を負った存在になったのです。彼らは神の義なるさばきの下に置かれるとともに(創世記3:17-19; ヨハネ3:19; ローマ6:23)、罪人同士の罪深いさばきと拒絶、また、悪魔の非難の訴えにも(黙示録12:10)、広くさらされるようになったのです。

アダムとエバと同じように、私たちも危険な世界に生きており、身を隠そうとする本能を持っています。

私たちのからだのうちには罪が生きており(ローマ7:23)、私たちは弱さを抱えています(へブル5:2)。私たちがしばしば経験する恥の意識は、失敗とプライドが強力に結びついたものだと言えるでしょう。私たちは道徳的に失敗します(罪)。私たちは自分の限界のゆえにも失敗します(弱さ)。そして私たちは、被造世界が虚無に服しており、意図された通りに機能していないためにも失敗します(ローマ8:20)。私たちは他の人の期待に応えることにも失敗します。罪深いプライドがあるため、私たちは自分の失敗や弱さを恥じ、どうにかしてこれを他の人から隠そうとするのです。

このことが何を意味するかというと、プライドに焚きつけられた恥は、私たちに対して大きな力を持つということです。恥は私たちの人生の大部分を支配し、支配された私たちは、失敗と弱さを他の人から隠すために、多くの貴重な時間とエネルギーを消費するのです。

間違った場所に隠れる

井戸の女性、ダビデ王、長血の女性のように、恥のせいで私たちもよく間違った場所に隠れます。

『…私たちには実際、隠れる場所が必要です。ただ、正しい場所に隠れなければいけないということなのです。』

私たちは家の中に、あるいは家から離れて、隠れます。自分の部屋やオフィスに隠れます。家事や庭仕事、ガレージでの趣味に隠れます。コンピューターやスマホの画面、新聞や雑誌の後ろに隠れます。音楽や映画、ケーブルテレビの後ろに隠れます。ファッション、キャリア、フェイスブック、講壇の裏に隠れます。忙殺されて隠れ、先延ばしにして隠れます。大っぴらに嘘をついて隠れ、会話を脱線させて隠れます。むっつりと不機嫌になって隠れ、ユーモアで笑わせて隠れます。虚勢をはって隠れ、臆病になって隠れます。また私たちは、外交的になって隠れ、内向的になって隠れるのです。

私たちにもそれぞれ、自分なりの真昼の井戸、隠ぺい工作、匿名の接触があるということです。私たちのプライドが、何としてでも自分の恥を隠そうとするからです。

恥の力を破る鍵

プライドのせいで私たちが恥を間違ったところに隠すからといって、私たちの隠れる本能自体が完全に間違っているわけではありません。そうではなく、私たちには実際、隠れる場所が必要です。ただ、正しい場所に隠れなければいけないということなのです。

私たちが求める「保護」を与えてくれる隠れ場所、すなわち、すべての恥が覆われ、もはや恐れる必要がなくなる隠れ場所はひとつだけです。それは、避け所としてのイエス・キリストです(へブル6:18-20)。イエスの死と復活だけが、罪の失敗で私たちが感じている恥に効く唯一の解決策です(へブル9:26)。罪の問題を解決するために、私たちが行くべき場所は他にありません。贖いは、イエスの御名以外にありません(使徒4:12)。私たちがイエスに隠れるなら、イエスは私たちを完全にきよめてくださいます(Iヨハネ1:9)。神の約束はことごとくイエスにおいて「はい」となるわけですが(IIコリント1:20)、きよめられた私たちが神の約束を信じて受け取るなら、こうした約束はすべて、私たちのものとなるのです。そして信仰により与えられる、神の約束から流れ出る恵みは、私たちのすべての恥ずべき弱さと失敗を覆うために十分満ち溢れるのです(IIコリント9:8)。

『プライドに焚きつけられた恥の力を破る鍵は、それよりももっと力強い、キリストのみわざとキリストの約束を謙遜に信じる信仰です。』

プライドに焚きつけられた恥の力を破る鍵は、それよりももっと力強い、キリストのみわざとキリストの約束を謙遜に信じる信仰です。恥は私たちに「有罪」、そして「無力」と宣告します。イエスは私たちを「無罪」、そして「わたしの恵みはあなたの弱さのうちに十分」と宣告します(IIコリント12:9-10)。キリストがすべてです(コロサイ3:11)。義(ピリピ3:9)とその他の必要をすべて満たしてくださる方(ピリピ4:19)としてイエスに信頼するなら、恥は私たちに対して持っていた力を失うのです。

これが井戸の女性にも起こったのです。彼女がイエスの言われることを聞いて信じたので、彼女の罪にまみれた人生は贖われ、彼女の恥は砕かれました。

これはダビデ王にも起こりました。ダビデは自分の罪を告白して悔い改め(IIサムエル12:13)、受肉前のキリストを信じたのです。そのため彼の大きな罪と恥はキリストに転嫁され、キリストがそのための代価を残らず払ってくださいました。

長血をわずらっていた女性にも、これは起こりました。イエスは彼女に、群衆の前でイエスにさわった理由と、ただちに癒された次第を話させました。彼女は自分の恥を公にしなければいけなかったのです。でも、それによって彼女は癒され、きよめられました。イエスは彼女の恥を、恵みを示す場とされたのです。

そして、この素晴らしい体験は、私たちのものともなり得ます。私たちに必要なのは、子どものようにイエスを心から信じることだけです(ヨハネ14:1)。


This article has been translated and used with permission from Desiring God. The original can be read here, Breaking the Power of Shame.
この記事は「Desiring God」から許可を得て、英語の原文を翻訳したものです。原文はこちらからご覧いただけます:Breaking the Power of Shame