クリスチャンは新しい契約の一員です。そうであるならば、なぜ旧約聖書を理解し、適用しようと務めなければならないのでしょうか。
旧約聖書の最初の一字である「旧」が、クリスチャンにとって(旧いのだから)「重要でない」とか「取るに足らない」という意味であってはならない10の理由を、以下に挙げたいと思います。
1. 旧約聖書はイエスが持っていた唯一の聖書であり、私たちの聖書の4分の3(75.55パーセント)を占めている。
占有面積が何かを示しているなら、みことばを本という形で私たちに与えてくださった神は、旧約聖書を大事にしておられるでしょう。実際、旧約聖書は神の第一の特別啓示であり、新約聖書でイエスにおいて成就するすべての基礎は旧約にあります。
『旧約聖書はイエスと最初期の教会が持っていた唯一の聖書である。』
旧約聖書はイエスと最初期の教会が持っていた唯一の聖書であり(マタイ5:17; ルカ24:44; 使徒24:14; IIテモテ3:15など)、今日私たちが「正典」とする聖書の主要な部分を占めています。
2. 鍵となる聖書の教えを私たちがどう理解するかは、旧約聖書によって大きく影響される。
『律法』の終わり(創世記から申命記)までに、聖書ではすでにその筋書きの上で柱となる5つの契約すべてが言及されています。すなわち、アダムとノアの契約、アブラハムの契約、モーセの契約、ダビデの契約、新しい契約です。旧約聖書の残りの部分でこれに肉付けされて、詳細がわかっていきます。これに伴い、旧約聖書の物語はより良い王、祝福された民、より広い土地への期待を抱かせます。旧約聖書で問題が生じ、約束がなされ、新約聖書で答えが与えられ、約束が成就するのです。歴史における神の御業を完全に理解するためには、旧約聖書が必要なのです。
さらに、聖書の教理の中には、旧約聖書からしか理解できないものもあります。例えば、創世記1章1節から2章3節以上に、私たちの世界観を形成する箇所があるでしょうか。聖所や神殿について正しく理解するために参照できるものが旧約聖書以外にあるでしょうか。イザヤ書40章以上に、ヤハウェなる主の唯一性を明確に宣言した箇所、イザヤ書53章以上に、身代わりの贖いを簡潔に表現した箇所があるでしょうか。旧約聖書がなければ、「詩と賛美と霊の歌」(エペソ5:19; コロサイ3:16)でパウロが言わんとしたことを、どのように知ることができるでしょうか。
最後に、新約聖書の世界観と教えは、旧約聖書で提供された枠組みの上に築かれています。新約聖書には、文字通りに何百もの旧約聖書の引用、言及、繰り返しが見られます。もし私たちがイエスの持っていた聖書に精通していなければ、新約聖書を理解することはできないでしょう。
3. 私たちは旧新両約聖書で同じ神に出会う。
ヘブル人への手紙の冒頭を見てください。「神は昔、預言者たちによって、多くの部分に分け、多くの方法で先祖たちに語られましたが、この終わりの時には、御子にあって私たちに語られました」(ヘブル1:1-2)。旧約聖書の預言者を通して語られた、まさにその神が、イエスを通して語られたのです。
『歴史における神の御業を完全に理解するためには、旧約聖書が必要なのです。』
と言っても、「旧約聖書の神は怒りに満ち、人に重荷を課すのに対し、新約聖書の神は恵みと自由の神ではないか」と尋ねる人もいるかもしれません。まず旧約聖書から、続いて新約聖書から、いくつかの箇所を考えてみましょう。
おそらく出エジプト記34章6節は、旧約聖書の中でもヤハウェなる主のご性質と御業を最も根本的に宣言している箇所でしょう。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み」、とあります。旧約聖書はその後、神が道を踏み外した民を赦し、守り続けた理由として、この真理を何度も繰り返しています。
主は、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約のゆえに、彼らを恵み、あわれみ、顧みて、彼らを滅ぼし尽くすことは望まず、今日まで、御顔を背けて彼らを捨てることはなさらなかった。
(II列王13:23)
もしあなたがたが主に立ち返るなら、あなたがたの兄弟や子たちは、彼らを捕虜にした人々のあわれみを受け、この地に帰って来るでしょう。あなたがたの神、主は恵み深く、あわれみ深い方であり、あなたがたが主に立ち返るなら、あなたがたから御顔を背けられることはありません。
(I歴代30:9)
それでも、あなたは何年も彼らを忍び、 あなたの霊により、あなたの預言者たちを通して彼らを戒められましたが、彼らは耳を傾けませんでした。そのため、あなたは彼らを地のもろもろの民の手に渡されました。しかし、あなたはその大いなるあわれみにより、彼らを滅ぼし尽くすことはせず、お見捨てにもなりませんでした。あなたは、情け深くあわれみ深い神です。
(ネヘミヤ9:30-31)
このように、新約聖書同様、旧約聖書にも神の恵みが満ちているのです。
さらに、新約聖書の中で誰よりも地獄について語っているのはイエスです。イエスは「からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい」と宣言しています(マタイ10:28)。同様に、「わたしを信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首にかけられて、海の深みに沈められるほうがよいのです」とも言っています(マタイ18:6)。パウロは申命記32章35節を引用しつつ、「愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。『復讐はわたしのもの。わたしが報復する。』主はそう言われます」と書いています(ローマ12:19)。そしてヘブル人への手紙の著者は「もし私たちが、真理の知識を受けた後、進んで罪にとどまり続けるなら、もはや罪のきよめのためにはいけにえは残されておらず、ただ、さばきと、逆らう者たちを焼き尽くす激しい火を、恐れながら待つしかありません」と書いています(ヘブル10:26-27)。このように、旧約聖書同様、新約聖書においても神の怒りが言及されているのです。
『新約聖書同様、旧約聖書にも神の恵みが満ちているのです。』
使徒の働き10章42-43節でペテロは「イエスは、ご自分が、生きている者と死んだ者のさばき主として神が定めた方であることを、人々に宣べ伝え、証しするように、私たちに命じられました。[旧約聖書の]預言者たちもみなイエスについて、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられると、証ししています」と主張しています。旧約の預言者がイエスの名で赦しを宣べ伝えたのに対し、新約の使徒であるペテロは、イエスをさばき主として宣べ伝えているのです。
確かに、旧約聖書にもヤハウェなる主の正しい怒り(義憤)が数多く書かれ、同様に新約聖書にも、尊い血で買われた、神の大きなあわれみが数多く表現されています。重要なのは、私たちは旧新両約聖書で同じ神に会うということです。聖書全体で、私たちは祝福と呪いの両方の約束に忠実な神に出会います。神が罪と悔い改めの両方をこのように真剣に受け止めておられるのですから、私たちも同じであるべきでしょう。
4. 旧約聖書は、私たちが喜び受け入れている「良い知らせ(福音)」を告げている。
福音とは、神であり、十字架につけられて復活したメシア(イエス)を通して、神がすべてを統治し、信じる罪人を救い、満ち足らせてくださるという良い知らせです。パウロは「聖書は、神が異邦人を信仰によって義とお認めになることを前から知っていたので、アブラハムに対して、『すべての異邦人が、あなたによって祝福される』と、前もって福音を告げました」と言っています(ガラテヤ3:8, 太字で強調)。アブラハムは、私たちが今現在楽しんでいる、全世界に及ぶ救いのメッセージをすでに知っていたということです。
同様に、ローマ人への手紙の冒頭で、パウロは「この福音は、神がご自分の預言者たちを通して、聖書にあらかじめ約束されたもので、御子に関するもの」であり、「神の力です」と強調しています(ローマ1:2-3, 16)。ここでいう預言者は旧約聖書の預言者であり、この福音をパウロは宣べ伝え、私たちはこの福音のうちに安息しています。
こうした旧約の預言者の中で最も顕著なのはイザヤです。イザヤは、ヤハウェの王なる僕(メシア)と、メシアにつく多くの僕たちが、貧しい人や心の傷ついた者を慰める「良い知らせ」を伝える日を予期していました(イザヤ61:1; 40:9–11; 52:7–10; ルカ4:16–21も参照のこと)。これは油注がれた王なる贖い主を通して、神が統治されるという良い知らせです。
このように、旧約聖書を読むことによって福音をよりよく理解して喜ぶことは、神から私たちに与えられたものなのです(ヘブル4:2も参照のこと)。
5. 旧い契約も新しい契約も愛を命じており、私たちは旧約聖書から愛について多くを学ぶことができる。
旧い契約では、愛こそ主がイスラエルに求めたものであり(申命記6:5; 10:19)、他のすべての戒めは、どのように愛するかを明確にしているに過ぎません。これはイエスが、旧約聖書全体が神と隣人を愛せよという戒めにかかっていると教えたときに強調した点でもありました。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』これが、重要な第一の戒めです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです」(マタイ22:37-40)。
『重要なのは、私たちは旧新両約聖書で同じ神に会うということです。』
イエスは「ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。これが律法と預言者です」と、愛を強調されました(マタイ7:12)。同様にパウロも、「律法全体は、『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という一つのことばで全うされるのです」と書いています(ガラテヤ5:14; ローマ13:8, 10も参照のこと)。イスラエルの民と同様、主はクリスチャンに、愛に特徴づけられた生き方を求めておられます。ただ昔と違うのは、主が今、新しい契約に属するすべての人に、主が命じられたことを実行する力を与えておられる点です。モーセが告げたように、神が新約の時代に心に割礼を施すと約束されたのは、まさに「あなたが心を尽くし、いのちを尽くして、あなたの神、主を愛し、そうしてあなたが生きるようにされる」ためでした(申命記30:6)。モーセはまた、将来この神の御業にあずかる者は、「主の御声に聞き従い、私が今日あなたに命じる主のすべての命令を行うようになる」と言いました(同30:8)。
モーセの旧約の律法は、人生のすべて、生き方の全般に及ぶ、包括的な愛を命じました。現代のクリスチャンは、キリストというレンズを通して見ることで、人生のすべてにおける幅広い愛の影響について、旧約聖書から学ぶことができるのです。
6. イエスは律法と預言者を廃棄するためではなく、成就するために来られた。
イエスは、自分が旧約聖書を脇に追いやるどころか、成就するために来たのだと強調し、クリスチャンにとって旧約の教えが永続的な意味を持つことを示されました。
わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します。ですから、これらの戒めの最も小さいものを一つでも破り、また破るように人々に教える者は、天の御国で最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを行い、また行うように教える者は天の御国で偉大な者と呼ばれます。
(マタイ5:17-19)
ここで重要なことは、旧約の時代は終わっても(ローマ6:14-15; Iコリント9:20-21; ガラテヤ5:18; ルカ16:16参照)、旧約聖書自体は、神のご性質を示し(ローマ7:12など)、キリストの卓越性を指し示し、あらゆる範囲に及ぶ愛の多面性を示す(マタイ22:37-40)点で、永続的な役割があるということです。モーセが主張したように、私たちが今生きている心の割礼の時代(申命記30:6)においても(ローマ2:29)、申命記に書かれているすべての教えは有効です。「あなたは再び主の御声に聞き従い、私が今日あなたに命じる主のすべての命令を行うようになる」とある通りです(申命記30:8)。
7. イエスは、旧約聖書全体がご自分を指し示していると言われた。
イエスと出会った後、ピリポはナタナエルにこう言いました。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです」(ヨハネ1:45)。あなたも、可能な限りイエスを味わい、見つめたいですか。私たちは旧約聖書の中にイエスを見いだします。イエスご自身が「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証ししているものです」と言われました(ヨハネ5:39; 5:46-47も参照のこと)。そして「モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされ」ました(ルカ24:27)。よみがえりの後、神の国のことを語られた(使徒1:3)イエスは、聖書を悟らせるために弟子の心を開いて、こう言われました。「次のように書いてあります。『キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。』エルサレムから開始して、あなたがたは、これらのことの証人となります」(ルカ24:46-48)。
『イエスのことをもっと知りたいなら、旧約聖書を読んでください!』
旧約聖書を正しく理解するならば、そこでメシアのメッセージと、メシアの生涯のゆえに与えられる使命を聞き取ることができるはずです。同じように、パウロは「[私が]話してきたことは、預言者たちやモーセが後に起こるはずだと語ったことにほかなりません。すなわち、キリストが苦しみを受けること、また、死者の中から最初に復活し、この民にも異邦人にも光を宣べ伝えることになると話したのです」と教えました(使徒26:22-23)。旧約聖書から説教する者としてパウロは、「あなたがたの間で、イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリストのほかには、何も知るまいと決心していた」と断言することができました(Iコリント2:2)。
ですからあなたも、イエスのことをもっと知りたいなら、旧約聖書を読んでください!
8. 「神のご計画のすべて」を宣べ伝えることを怠ると、主の御前で自分の身に危険を招くことになる。
パウロは、キリストにある神の国の福音を伝える宣教師であり(使徒19:8; 20:25; 28:30-31など)、モーセの律法と預言者、すなわち旧約聖書から宣教しました(28:23; 26:22-23も参照のこと)。使徒の働き20章26-27節でパウロはエペソの長老たちに対し、「ですから、今日この日、あなたがたに宣言します。私は、だれの血に対しても責任がありません。私は神のご計画のすべてを、余すところなくあなたがたに知らせたからです」と言いました。「神のご計画のすべて」とは、聖書に啓示されている救いの歴史における神の目的全体を指しています。もしパウロが、イエスにおいて呪いを覆して祝福するという、主の贖いの計画を知らせなかったとしたら、エペソの教会の教理的、倫理的な誤りについて、彼は神の御前に責任を負ったことでしょう(エゼキエル33:1-6; 使徒18:6を参照のこと)。
新約聖書が完成した今、私たちは「聖徒たちにひとたび伝えられた信仰」のすべてを手にしています。この「信仰」はしかしながら、「神のご計画のすべて」の枠組みの中で正しく理解されるものです。
ですから私たちも、キリストに照らして旧約聖書を大いに活用することによって、誰に対しても血の責任を負わないようにしましょう。
9. 新約聖書の著者は、神はクリスチャンのために旧約聖書を与えられたと強調した。
ペテロは旧約聖書の預言者について、「彼らは、自分たちのためではなく、あなたがたのために奉仕しているのだという啓示を受けました」と述べました(Iペテロ1:12)。旧約聖書の著者たちは、自分たちが将来の読者、つまり新約の教会に連なるクリスチャンに向けて書いていることを理解していたのです。
『パウロは、旧約聖書から自分を切り離す者は、神から離れる危険があると警告しているのです。』
同様に、パウロは、神の霊感を受けた旧約聖書の著者たちが、キリストの死と復活のこちら側に生きる新約の信仰者のために書いたことを確信していました。それで「かつて書かれたものはすべて、私たちを教えるために書かれました。それは、聖書が与える忍耐と励ましによって、私たちが希望を持ち続けるためです」(ローマ15:4; 4:23-24も参照のこと)とも、「これらのことが[イスラエルの民]に起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです」(Iコリント10:11)とも書いています。
従って使徒パウロは、ユダヤ人の母と祖母により旧約聖書に基づいて育てられたテモテに対し(使徒16:1; IIテモテ1:5)、彼が親しんできた「聖書はあなたに知恵を与えて、キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができます」(IIテモテ3:15)と強調しました。現代に生きる私たちは、キリストのレンズを通して旧約聖書を読むことで、神の怒りから、また罪への隷属から救われるのです。
パウロが次の節で「聖書はすべて……教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。神の人がすべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるためです」と言っているのもこのためです(IIテモテ3:16-17)。新約の信仰者は、キリストに照らして旧約聖書を読むことで、道を踏み外している兄弟姉妹を正し、叱責することができます。なぜなら旧約聖書には、「神に対する悔い改め」と「私たちの主イエスに対する信仰」(20:21)へと導く、多くの「益になること」(使徒20:20)、すなわち「神の恵みの福音」(20:24)が書かれているからです。
この事実に基づいて、新約聖書の著者はクリスチャンへの励ましとして旧約聖書を頻繁に用いました(例: Iコリント9:8-12; エペソ6:2-3; Iテモテ5:18; Iペテロ1:14-16)。私たちは今、旧約ではなく新約に属しているので、クリスチャンとして具体的にどのように旧約の教えに関わるべきかという、当然の疑問が生じます。とはいえ、旧約聖書がクリスチャンに宛てて書かれたわけではなかったとはいえ、それでも私たちのために書かれたという事実に変わりはありません。
10. パウロは教会の指導者たちに旧約聖書を宣べ伝えるように命じている。
クリスチャンにとって旧約聖書が今も重要である10の理由の最後は、パウロが「救いのために知恵を与える」ことができる、そして「神の霊感によるもので、有益」だと言っている「聖書」が、旧約聖書を指しているという事実に基づいています(IIテモテ3:15-16)。この事実を踏まえると、パウロがテモテに与えた忠告を理解する上で助けになるでしょう。
みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になるからです。
(IIテモテ4:2-4)
パウロにとって、テモテのようなキリスト教の説教者が旧約聖書を宣べ伝えることは必要不可欠でした。それが教会を背教から守ることにつながるからです。私たちには今新約聖書がありますが、それでもイエスと使徒たちが神の教会のために行ったように、私たちも旧約聖書を適切に扱うことができますし、実際にそうしなければなりません。パウロは、旧約聖書から自分を切り離す者は、神から離れる危険があると警告しているのです。
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