仲介者としてのキリスト:キリストの三職

トマス・J・ネトルズ(著者) 、ブラッシュ木綿子(翻訳) - 2025年 12月 02日  - 

定義

神と人との仲介者として、イエス・キリストは預言者、祭司、王の3つの務めを果たし、まとめています。キリストの預言者の務めによって私たちは必要な知識を与えられ、祭司の務めによって赦され、義と認められ、その結果神との和解が与えられ、王の務めによって敵意が取り除かれてキリストの恵み深い支配の下に入れられます。

要旨

神と人との仲介者として、イエス・キリストは旧約聖書に別々の職務として存在していた3つの務めをひとりで果たし、まとめています。預言者の職にある者は、神の民に神についての必要な知識を与えました。神のことばそのものであるイエス・キリストは、完全な預言者として来られました。祭司は、その務めによって神の民が赦され、義とされ、神と和解させられる人のことです。私たちが神と和解させられるのはイエスの犠牲の死と今なお続けられている務めによるのであって、イエスは完全な祭司です。歴代のイスラエルの王は神の支配を地上で遂行する使命がありました。今、イエスは全被造物の上に王として君臨し、神として、完全に神の支配を実行しています。この「キリストの三職」はジャン・カルヴァンによって初めて明確にされました。以降、信仰告白や教理問答においてキリストの三職がキリストの働きと人格を体系立てて説明する際の原則となっています。


聖書的根拠

『神のことばそのものであるイエス・キリストは、完全な預言者として来られました。』

受肉したキリストの人格は、論理的、存在論的に、預言者、祭司、王としてのキリストの職務に先立ちます。永遠の神の御子は創造されず、無限であり、御父、御霊と等しく神の本質を共有している方なのに、言葉では説明できない奇跡によって人性を取りました。これによって「永遠」の方が同時に「一時的」となり、創造されなかった方が創造され、無限の方が有限に、不変の方が「神と人とにいつくしまれ、知恵が増し加わり、背たけも伸びて」いくことになったのです(ルカ2:52)。一言で言えばイエスはインマヌエル、すなわち、神が私たちとともにおられる、です。イエスというひとりの人のうちに、契約の代表者として神が、私たちと同じようになられて私たちとともに住まわれたのです。神の力、知恵、無限の知性、比類なきへりくだり、卓越した美の行為である受肉はあまりにも素晴らしく、それ自体が私たちの礼拝を喚起する出来事だと言えるでしょう。(実際、イエスの生まれた夜には礼拝がなされました。)でも受肉はそれだけでなく、神の選ばれた民を完全に贖うために、必要不可欠のみわざでもあったのです。11世紀にアンセルムが鋭く論じたように、完全な義を保ちつつ、あわれみ深い救いのわざを成して、名誉を損なわれた神に償うことのできる方は、昔も今も、受肉した神の御子ひとりだけです。

このように、神との関係を回復するために必要な働きの具体的な職務は、旧約聖書では預言者、祭司、王の務めとして現れます。預言者職により私たちに必要な知識が与えられ、祭司職によって赦しと義認、その結果としての和解がもたらされ、王職によって敵意が取り払われ、私たちはキリストの恵み深い支配の下に入ります。救いの全行程における「ことば」の大切さは、モーセが最初の預言者として神に召された場面で見ることができます。口下手であるがゆえに恐れを抱いたモーセに対し、神は「人に口をつけたのはだれか。……今、行け。わたしがあなたの口とともにあって、あなたが語るべきことを教える」と言われました(出エジプト4:11-12)。預言者職に就くモーセに油を注ぐ役割を任ぜられた人はいませんでしたが、預言者の務めは神の油注ぎから生じると考えられていたことは、エリヤによるエリシャの油注ぎからわかります(I列王19:16)。預言者の上には御霊が突然激しく降り注ぎ、彼らは神からの重大なことばを語りました。それはときにさばきであり(エゼキエル34:1-10; ナホム; ハバクク1:5-11)、慰めであり(イザヤ40:1-2, 27-31; ゼパニヤ3:14-20)、解き明かしであり(アモス4:6-13)、未来の出来事を予見したものでありました(エレミヤ23:5-8; ダニエル10:10-17)。

サムエルがイスラエルの初代の王としてサウルを立て上げたとき、イスラエルの民への別れの挨拶でサムエルは二度、サウルを「主に油注がれた者」と呼びました(Iサムエル12:3, 5)。ダビデがサウルの死を知ったとき、ダビデはサウルを「主に油注がれた方」と呼びました(IIサムエル1:14, 16)。ダビデ自身、サウルが「主に油注がれた方」だったので、サウルを殺すことを拒みました(Iサムエル26:11, 23)。サムエルはダビデを王として油を注ぎました(Iサムエル16:13)。エリヤはハザエルに油を注いでアラムの王とし、同時にエフーに油を注いでイスラエルの王としました(I列王19:15-16)。

一連のいけにえをささげる責任を負う祭司たちへの油注ぎは、特別に啓示された儀式によってなされました。聖書で「彼らに油注ぎをし、彼らを祭司職に任命し、彼らを聖別し、祭司としてわたしに仕えさせよ」と命じられています(出エジプト28:41)。この油注ぎは究極の一致、喜び、そして楽しみを表していました。詩篇に「それは 頭に注がれた貴い油のようだ。それは ひげに アロンのひげに流れて 衣の端にまで流れ滴る。……がそこに とこしえのいのちの祝福を命じられたからである」とある通りです(詩篇133:2-3)。このように、贖いのみわざにおいて、預言者、王、祭司のすべての職務で一致する点があるのです。

預言者たちは、神の要求をすべて満たし、神に選ばれた民に真の知識、救いの知識、神に従うために必要な知識をすべて与えるために、御霊によって油注がれた方が来られることを予見していました。「見よ」とイザヤは主のことばを書きました。「わたしが支えるわたしのしもべ、わたしの心が喜ぶ、わたしの選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々にさばきを行う」(イザヤ42:1)。御霊により油注がれたこの方こそ、民を解放し(同42:6-7)、啓示し(同42:9)、治める(同42:13)方です。

イエスこそキリスト、すなわちメシア(油注がれた者)です。なぜならこの三職はすべて、油注がれた務めだからです。旧約聖書では、この三職はそれぞれ別の人物によって担われていましたが、キリストであるイエスはこの三職を統一されました。「神が遣わした方は、神のことばを語られる。神が御霊を限りなくお与えになるからである。父は御子を愛しておられ、その手にすべてをお与えになった。御子を信じる者は永遠のいのちを持っているが、御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる」とあります(ヨハネ3:34-36)。この短い聖書のことばに、預言者職(神のことばを語られる)、王職(その手にすべてをお与えになった)、祭司職(御子を信じる者は永遠のいのちを持っている)の三職を見ることができます。御子に御霊が限りなく与えられたということは、イエス・キリストの人格とみわざにおいて、油注がれた務めであるこの三職が絶対的に成就し、完成されるということです。ヨハネは福音書の冒頭において「ことばは神であった」、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」、そして、「いまだかつて神を見た者はいない」けれども、「父のふところで」永遠に生きておられるこの神のことばが「神を解き明かされた」と書くことによって、キリストの預言者職を強調しました(ヨハネ1:1-18)。キリストの祭司職についても福音書全体を通して書かれていますが、羊のためにいのちを捨てる点(ヨハネ10:14-18)と埋葬のために油注がれる点(ヨハネ12:1-7)で強調されています。キリストの王職は、イエスがピラトに対して、自分の国はこの世のものではないが、自分こそ王であるとはっきりと宣言した点に明確に表れています(ヨハネ18:33-38)。

『私たちが神と和解させられるのはイエスの犠牲の死と今なお続けられている務めによるのであって、イエスは完全な祭司です。』

ヘブル人への手紙の著者は、イエスが三職それぞれの意味するところを完全に遂行されたと伝えながら、イエスが三職すべてを引き受けられたことを簡潔に要約しています。「神は昔、預言者たちによって、多くの部分に分け、多くの方法で先祖たちに語られましたが、この終わりの時には、御子にあって私たちに語られました」。御子は語るのに適任です。なぜなら「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れ」だからです。「御子は罪のきよめを成し遂げ、いと高き所で、大いなる方の右の座に着かれました」。ここからわかるように、イエスの祭司の務めにはもう何も付け加えることはできません。このみことばはまた、完成された祭司の務めは、受肉した御子が贖い主なる王となることで頂点に達するとともに、メシアの務めの完遂を示しています。「御子については、こう言われました。『神よ。あなたの王座は世々限りなく、あなたの王国の杖は公正の杖。あなたは義を愛し、不法を憎む。それゆえ、神よ、あなたの神は、喜びの油で、あなたに油を注がれた。あなたに並ぶだれよりも多く』」。これはすべて「救いを受け継ぐことになる人々」のためでした(ヘブル1:1-3, 8-9, 14)。キリストが祭司職を完遂されたこととキリストの王としての支配の関係は、9章25-28節、10章8-15節にも見られます。特筆すべきは7章で、キリストがメルキゼデクのように義と平和の王とされ、神から特別に任じられて祭司の務めを完全に果たされたことです。「律法は、弱さを持つ人間たちを大祭司に立てますが、律法の後から来た誓いのみことばは、永遠に完全な者とされた御子を立てるのです」と書いてある通りです(ヘブル7:28)。

実際、ペテロはイエスがモーセの語った預言者であることに気づきました。「あなたがたの神、主は、あなたがたの同胞の中から、私のような一人の預言者をあなたがたのために起こされる。彼があなたがたに告げることすべてに聞き従わなければならない」(使徒3:22)。この預言者は祭司でも王でもあり、彼の上で「キリストの受難」は「実現されました」。そして彼の死と復活により「イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの前で、このとおり完全なからだにしたのです」。この祭司である預言者は、支配者として来られ「万物が改まる時まで、天にとどまって」います(使徒3:13-21)。ペテロの手紙第一全体で、ペテロの議論の前提として、こうした主題が底流となっています。3章18-22節では祭司としてのキリストが「一度、罪のために苦しみを受け」たことを示すことによって、この主題が凝縮されています。復活した後、天に上ったイエスは敵対するすべての霊に対する勝利を、預言者として宣言しています。「イエス・キリストは天に上り、神の右におられます。御使いたちも、もろもろの権威と権力も、この方に服従しているのです」。これが、イエスの完全な勝利を明示しています。

黙示録の最後の場面で、私たちは預言の啓示の完成を見ます。イエスの祭司職の永遠の結果と恵み深い王の支配が、キリストにあってひとつにまとまっています。「もはや、のろわれるものは何もない(祭司職)。神と子羊の御座が都の中にあり(王職)、神のしもべたちは……御顔を仰ぎ見る。神である主が彼らを照らされる(預言者職)……」(黙示録22:3-5)。

組織神学そして信仰告白としてまとめられた表現

聖書からキリストの三職の統合を導き出したのはジャン・カルヴァンで、『キリスト教綱要』で初めて明確かつ広範に表現されました。カルヴァンは「キリストが何のために御父からつかわされたか、何をわれわれにもたらしたかを知るために、とくに三つのことがかれのうちに見られなければならない。すなわち、預言者職、王職、祭司職である」という見出しでこの議論を紹介しました。カルヴァンは「敬虔な人々の精神は、『メシヤの来臨によってこそ理解の十分な光が待ち望まれるべきである』との確信につねに満ちていた」と主張しました(ジャン・カルヴァン『キリスト教綱要』第II巻、渡辺信夫訳、308-309頁を参照のこと)。この観点からカルヴァンはキリストを「いっさいの啓示の完成と完結」と呼びました。なぜなら「キリストにあるこの預言者としての威厳は、かれの説きたもうた教理の全体のうちに、完全な知恵のあらゆる部分が含まれている」からです(同309-311頁)。

カルヴァンはキリストの王権の性質は「霊的なものである」と主張しました。地上の「ダビデの家系」は「だんだんに衰え、ついに惨憺たる・恥ずべき滅びに完全に陥った」けれども、イエス・キリストにおいて、「かれの子孫は永遠に残る。かれの王座は太陽と同じくわたしの前にある」という約束は完全に成就しました(同311頁)。キリストの王権が霊的であるということは、イエス・キリストが主権者として与える祝福が永遠であり、富、平和、肉の喜び、一時的な安全といったあらゆる地上の苦楽を超越していることを意味しています。私たちには「われわれの王がわれわれを決して見捨てず、われわれの危急にさいしては助けを与え、ついにわれわれの戦いが終って、われわれは凱旋へと召されるにいたる」という望みがあります(同313頁)。キリストは王として、すべての敵を足の下に置き、鉄の杖で彼らをさばき、陶器師が器を砕くように粉々にするだけでなく、教会を守って、御霊の臨在と力を含めた教会の必要をすべて満たし、最終的に永遠のいのちへ導きます。「教会の永続的な持続」は「キリストの永遠の王座に基礎づけられて」います。キリストは「神の変わることのない定め」によってこの王職と確かな勝利に任ぜられたのです(同312頁)。

カルヴァンはキリストの祭司職を「和解」と「とりなし」でまとめました。旧約の祭司たちがそうであったように、キリストも「神の恵みをかちとり、また神の怒りをなだめるため」に、つぐないのそなえものをもって前に出なければなりませんでした(同316頁)。キリストはその祭司としての務めにおいて、私たちが神に近づくことを妨げていた罪と咎を取り除かれました。キリストの死によって、「かれの祭司職の効果と利益」とが私たちに及んだのです。キリストのとりなしにより、私たちは祈りが聞かれ、恵み深い御父がおられ、良心が清められたという確信を得るだけでなく、私たち自身も祭司として受け入れられます。私たちも、芳ばしい香りとしての祈りと賛美のいけにえを御前にささげることができるのです。

『イエスは全被造物の上に王として君臨し、神として、完全に神の支配を実行しています。』

ミラード・エリクソンは、キリストの三職を「役割」という用語を用いて論じ、「啓示」、「支配」、「和解」に分けて説明しました(ミラード・J・エリクソン『キリスト教神学』第3巻、伊藤淑美訳、361-369頁を参照のこと)。キリストの啓示的役割は、受肉前には神のことば(ロゴス)が預言者や神顕を通して語られることによってなされました。受肉したキリストはみことばを教えましたが、ご自身がみことばそのものであり、完全なる神の体現でした。昇天後は御霊を遣わし、贖いのみわざの性質を啓示する働きを完成させました。再臨のときにイエスは再び啓示を与えますが、「その際、神を完全に知り、キリストが語った真理を完全に知る妨げとなるものは取り除かれ」ます(同365頁)。

キリストの王職とは「キリストの支配」です。キリストの支配は、キリストが世界を創造し、また保っておられることに見られます。特に、キリストに属する人々がキリストを主として従う教会を支配します。今キリストは高く上げられた状態で支配していますが、再臨のときにはキリストの支配が明らかになります。そのとき、「すべてのものが、喜び励んでか、または不承不承にか、その支配の下に置かれる」のです(同368頁)。

キリストの祭司職とは「キリストの和解のみわざ」です。エリクソンはまずキリストのとりなしの働きを強調します。ヨハネの福音書17章でイエスは、弟子と、弟子の宣教によって信じるすべての人々のためにとりなします。イエスは特に、ペテロの信仰がなくならないようにとりなしました。現在イエスは義と認められた御民のために、彼らの罪が日々赦され、彼らがより完全に聖くされるようにとりなしています。エリクソンはイエスの祭司職の中でも最も大切な贖いのみわざについて、3章を割いて論じています。

改革派の伝統に基づく信仰告白と教理問答には、こうしたイエスのメシアの職務に関する項目が含まれています。ウェストミンスター信仰告白と教理問答は、預言者、祭司、王としてのキリストについての明確なまとめを提供しています。ウェストミンスター信仰告白は仲保者キリストの章を次のように始めています。「神はその永遠のご計画で、ご自身のひとり子主イエスを、神と人との間の仲保者、預言者、祭司、王……に選びまた任ずることをよしとされた」(日本キリスト改革派教会訳)。バプテスト派の第二ロンドン信仰告白ではこの任命は神と御子両者の間で結ばれた契約に従ってなされたものだという文言が加えられています。ウェストミンスター信仰告白ではこの章に8つの段落がありますが、バプテスト派の告白にはさらに2つの段落が特別にキリストの三職について充てられています。「神と人との間のこの仲介者の職務は、神の教会の預言者、祭司、また王であるキリストにのみふさわしく、その職務の全体にもせよ、一部にもせよ、彼から他のものに委譲されることはない。この職務の数と種別は重要である。我々の無知のために、彼の預言者の職務を必要とし、我々の神からの離反や、我々の最善の奉仕の不完全さは、神と我々とを和解させ、神に受け入れられるように我々を献げるために、彼の祭司の職務を必要とし、また神に対する我々の嫌悪と神に帰るに全く無力なことから、我々の霊的敵対者より我々を救出し守るために、我々を説得し、服従させ、引き寄せ、支え、助け、保護して天の御国に至らせる、彼の王の職務を必要とする」(東京聖書教会ホームページ掲載の第二ロンドン信仰告白より引用; https://tokyobible.com/pos_faith/london/#第八章)。

参考文献

聖書 新改訳2017©新日本聖書刊行会

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この記事は「The Gospel Coalition」から許可を得て、英語の原文を翻訳したものです。原文はこちらからご覧いただけます:Christ as Mediator: The Offices of Christ。このエッセイは「Concise Theology」シリーズの一部です。 このエッセイで述べられているすべての見解は、著者の見解です。このエッセイは、帰属リンク、変更点の表示、および同じクリエイティブ・コモンズ・ライセンスが適用される限り、他の媒体/フォーマットでの共有や内容の翻案/翻訳を許可するクリエイティブ・コモンズ・ライセンスによる著作権のもと自由に利用可能です。私たちのコンテンツを翻訳することに興味がある方、または私たちの翻訳者コミュニティに参加することに興味がある方は、The Gospel Coalition, INCまでご連絡ください。
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