離婚再婚と聖書

ブレット・レイル(著者) 、ブラッシュ木綿子(翻訳) - 2025年 10月 30日  - 

結婚、離婚と宗教改革の五つのソラ

結婚や離婚を議論するにあたって、宗教改革をまず思い浮かべることはあまりないと思いますが、実は多くの点で重要です。宗教改革の中心には「五つのソラ」と呼ばれるものの重要性を教会が再発見したことがありました。「ソラ」は「~のみ」を意味するラテン語で、宗教改革はクリスチャンに対し、人生と救いを理解する権威として聖書のみに依拠するよう呼びかけました。クリスチャンはこの聖書から、恵みのみ信仰のみキリストのみ神の栄光のみの救いの原則を学ぶのです。ローマ・カトリック教会の伝統から五つのソラの強調へと教えが転換したことは、クリスチャンが神学的に何を信じるかにとどまらず、生活全般に影響を与えました。

『結婚そのものが偶像となることもあるし、結婚が、自己実現や親になることといった、他の偶像を礼拝するための手段となることもあります。』

このことは、ローマ・カトリック教会による非聖書的な制限のせいで結婚できなかった修道士のマルティン・ルターの生涯からも明らかです。宗教改革が始まった後、ルターはカタリナ・フォン・ボラと結婚しました。彼女はルターが修道院からの脱出を手伝った 12 人の修道女のうちの1人でした。ルターとフォン・ボラは、ローマ・カトリック教会の律法主義的な制限に従うのではなく、救いはキリストに対する信仰により、恵みのみによって与えられると信じ、聖書の教えのみに従うことを選びました。彼らの結婚は、福音による聖職者たちの革命へとつながり、聖職者も結婚の祝福を自由に享受できるようになったのです。

離婚と再婚に関する本稿を、宗教改革の五つのソラと、ルターとフォン・ボラの例から始めるのは、結婚と離婚という主題が、一方では世俗の「何でもあり」の風潮、そして他方では杓子定規に律法をふりかざす道徳主義の主張によって過度に歪められているからです。人が結婚するとき、その結婚は究極的には神に栄光を帰すことを目的とし、キリストへの信仰から恵みを与えられて、福音によって形作られていくべきです。しかしこの世は個人の状況や願いだけを考慮して、利用したり終わらせたりすることのできる単なる制度として結婚を見なすことが多いのです。

恋に落ちたから、子どもが欲しいから、両家の絆を強めたいからなど、人が結婚する「この世的な」理由は数多くあります。こうした理由は必ずしも結婚する上での悪い動機ではありませんが、神の栄光を第一にしなければ、結婚が偶像礼拝となる恐れがあります。結婚そのものが偶像となることもあるし、結婚が、自己実現や親になることといった、他の偶像を礼拝するための手段となることもあります。神ではなく人間に焦点を当てた目的を結婚にもっていると、(夫婦の愛が冷めたり、協力して子育てできなかったりして)思い通りにいかなくなったとき、残念だけれども避けられない結果として離婚を考えがちです。クリスチャンでさえ、良いものではあっても二次的であるべき願いを、結婚の第一の目的(神の栄光)と取り替えてしまうことがあるのです。

結婚や離婚について、この世的な考えに流されるクリスチャンがいる一方で、結婚や離婚にまつわる律法主義が神の聖徒たちを悩ませることもまた珍しくありません。身体的な虐待があるときなど、最も賢明で正しい選択は離婚と考えられる不幸な状況にあっても、恥じて隠れてしまうクリスチャンがいます。夫婦関係で成長したり問題を解決したりすることをあきらめてしまったクリスチャン夫婦の中には、離婚したら後ろ指を指されるからと、実質的には家庭内で離婚しているにもかかわらず、形式的な結婚を続ける人もいます。結婚が難しくなったときにこのような対処方法を取ることは、実際に離婚するよりも神を敬うことになるかと言えば、そんなことはありません。けれども、道徳主義のゆえに、結婚の外観を保てさえすれば良い、となってしまうことがあるのです。

『結婚で成功しているからと言ってその人の神の御前での立場が良くなることもなければ、結婚に失敗したからと言ってその人にキリストの恵みを受ける資格がなくなることもありません。』

しかしながら結婚は、クリスチャンの歩み全般と同じように、福音に基づく生き方から流れ出るべきものです。私たちの救いと神の御前での立場は、キリストの恵みのみによっています。結婚で成功しているからと言ってその人の神の御前での立場が良くなることもなければ、結婚に失敗したからと言ってその人にキリストの恵みを受ける資格がなくなることもありません。本稿では、離婚という主題に臨むにあたり、世俗主義と律法主義の双方の危険性を認識しつつ、何よりもまず私たちの結婚が神の栄光のためであることを心に留めたいと思います。記事の中で聖書箇所をいくつか参照しますが、特に離婚の問題について明確に語っている、マタイの福音書19章3-9節に焦点を当てます。

パリサイ人たちがみもとに来て、イエスを試みるために言った。「何か理由があれば、妻を離縁することは律法にかなっているでしょうか。」イエスは答えられた。「あなたがたは読んだことがないのですか。創造者ははじめの時から『男と女に彼らを創造され』ました。そして、『それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである』と言われました。ですから、彼らはもはやふたりではなく一体なのです。そういうわけで、神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません。」彼らはイエスに言った。「それでは、なぜモーセは離縁状を渡して妻を離縁せよと命じたのですか。」イエスは彼らに言われた。「モーセは、あなたがたの心が頑ななので、あなたがたに妻を離縁することを許したのです。しかし、はじめの時からそうだったのではありません。あなたがたに言います。だれでも、淫らな行い以外の理由で自分の妻を離縁し、別の女を妻とする者は、姦淫を犯すことになるのです。」

離婚に関するラビの伝統

マタイの福音書19章3-9節は、イエスに対するパリサイ人たちの「試み」から始まります。彼らはイエスに難問を投げかけ、イエスの教えがモーセの律法に反する証拠を得たいと願いました。そうすれば、イエスを偽教師として排除する理由となるからです。パリサイ人は、夫が妻を離縁することが律法にかなっているかどうかを尋ねました。

『問うべきは「律法に違反せずに離婚するにはどうすればよいか」ではなく、「忠実に神に栄光を帰すために、神の意図された結婚を追い求めるにはどうすればよいか」なのです。』

モーセの律法とラビの伝統では、特定の状況下で離婚が認められていたことを背景として知っておくと良いでしょう。ただ律法自体は多少曖昧であり、申命記24章1-4節にあるように、離婚した女性が再婚した場合、その再婚も離婚で終わったならば、女性は最初の夫のもとに戻ることはできないとしています。この箇所で最初の夫は、妻に「何か恥ずべきことを見つけた」ために、一方的に離婚を求めました。そして二番目の夫も彼女を「嫌い」、離婚します。「なんて可哀そうな女性なんだ!」と思いますね。ここに女性の言い分は記されていないのですが、モーセはどちらの離婚も容認しているわけではないと認識することが大切です。モーセは特定の状況について説明しているだけであり、ここでイスラエル人が正当に離婚しても良い理由を挙げているわけではありません。とは言え、ここは他の箇所よりも離婚に直接言及しています。そしてこの箇所から、離婚の正統な理由となる「恥ずべきこと」が何を指すかについて、ラビによる解釈が何世紀にもわたって展開されました。その結果、解釈の範囲は、妻が姦淫を犯すといった重大な事由から、家事が満足にできないといった些細な事由、さらには妻の見た目が気に入らなくなったという馬鹿げた事由まで、多岐にわたるようになりました。イエスが地上で教えておられたとき、ラビの伝統によって人々がどのような状況であれば離婚できると理解していたか、これで少しわかったと思います。

申命記24章1節の、イエス自身の権威ある解釈がマタイの福音書5章32節に書いてあります。「しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも、淫らな行い以外の理由で自分の妻を離縁する者は、妻に姦淫を犯させることになります。また、離縁された女と結婚すれば、姦淫を犯すことになるのです」。イエスは些細な理由(家事の不満や容姿など)で離婚することを容認せず、夫が妻を離縁できる唯一の正当な「恥ずべきこと・淫らな行い」とは、姦淫のみであることを明確にしました。また、気まぐれな理由で離婚した後の再婚は姦淫にあたると明言し、そのような離婚は神の目に正しい真の離婚ではないことを示唆しています。

イエスはさらに、女性が再婚して姦淫の罪を犯すことへの責任を、正当な理由なく離婚して妻を追い出した元夫に負わせています(「妻に姦淫を犯させる」)。これはイエスの時代には社会が家父長制であり、女性に自ら生計を立てる機会がなかったからです。夫に離縁された女性は、社会的弱者として、恥を忍んで実家に戻るか、生計を助けてくれる別の男性と再婚するしかありませんでした。それゆえ、妻が姦淫を犯していないのに夫に追い出されて再婚した場合の「姦淫」の主たる責任は、元夫にあるとされたのです。

「律法にかなっているか」

離婚に関するラビの伝統を理解すると、マタイの福音書19章3-9節に記されている「試み」をより良く理解できます。パリサイ人たちはすでにイエスの離婚についての教えを聞いており、その教えが自分たちの支持するラビの伝統とは相容れないと考えていました。彼らはイエスを陥れ、モーセの律法に反することを教えている証拠をつかもうとしました。彼らは「律法にかなっているでしょうか」(19:3)と問うことから始めました。もし彼らが結婚と離婚についての神の教えを真に理解しようとしていたなら、これは間違った質問です。神の最善を求める代わりに、彼らは離婚に必要な最低条件を尋ねているからです。

イエスはパリサイ人たちが聖書を理解していないことを指摘しました。彼らは様々なラビの伝統を根拠に罪を正当化してばかりで、聖書自体が結婚について何と教えているかに注意を払っていなかったのです。イエスは創世記の最初の数章に書かれている、最も古い結婚の教えに言及し、より良い聖書解釈を示しました。創世記は神の創造の意図と目的により、特別に互いを補い合う相手として、人が男と女に創造されたことを教えています。この関係において男性には特別な責任が与えられており、生まれ育った家族を離れ、妻と結ばれ、新しい家族を作るとされています(マタイ19:5)。この新しい家族は「一体となる」結びつきとして説明される「結婚」によって始まります。結婚後も、夫と妻それぞれが個人として神に責任を負うことに変わりありませんが、契約によってふたりは神秘的に一体となります。そして、みことばに従うことにより、ふたりで神に栄光を帰すようになるのです。この契約関係は性的に結ばれることによって証印をおされます。

『私たちはこの「故意の遺棄」の状況に、身体的・精神的・性的・霊的虐待、様々な依存症、結婚の放棄など、多くの悩ましい状況を当てはめることができるでしょう。』

イエスはまた、この契約の結びつきが永続的なものであり、配偶者の一方が死ぬことによってのみ解消されることを強調しました。「そういうわけで、神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません」(マタイ19:6)。このようにしてイエスは、パリサイ人たちが間違った質問をしていることを示しました。問うべきは「律法に違反せずに離婚するにはどうすればよいか」ではなく、「忠実に神に栄光を帰すために、神の意図された結婚を追い求めるにはどうすればよいか」なのです。

パリサイ人たちはそれでもなお、モーセの律法を持ち出して「試み」を続けました。イエスは、神が結婚を生涯にわたる契約と定めたにもかかわらず、なぜイスラエルで離婚が許されたのかについて、人々の心が頑ななためだと簡潔に説明しています。こうしてイエスは、モーセの律法における離婚を、「罪深い人々が混乱を引き起こした際、神の民に秩序を回復するためのもの」と位置づけました。離婚は、配偶者が放置され困窮するといった、罪深い心のせいで起こる混乱に際し、秩序ある方法で結婚を終わらせる手段を提供したのです。

この中でイエスは、神の民の間では、離婚は本来あるべきものではないこと、元々の結婚に意図されているものではないことを明らかにするために、「はじめの時からそうだったのではありません」と言いました。そしてさらにマタイの福音書5章の教えと同様のことを述べて、離婚についての自身の教えを明確にしました。「あなたがたに言います。だれでも、淫らな行い以外の理由で自分の妻を離縁し、別の女を妻とする者は、姦淫を犯すことになるのです」(マタイ19:9)。イエスは、離婚は本来起こるべきものではなく、キリストに従う者にとっては、性的不品行のみが結婚を離婚で終わらせる唯一の理由となるとして、モーセの律法に対する自らの権威ある解釈を今一度明らかにしました。こうしてイエスは議論の焦点を、人間の利己的な願いから、結婚に対する神の意図(生涯にわたる契約)へと戻したのです。

離婚してもよいとき

マタイの福音書19章にはあり、他の福音書記者の記述(マルコ10:11-12、ルカ16:18参照)には書かれていないのが、注解書で「例外条項」と説明される部分です。イエスは「淫らな行い以外の理由で」離婚を正当化する状況は存在しないと言いました(マタイ19:9)。「淫らな行い」(ギリシャ語でポルネイア)とは、結婚という契約の外で行われるあらゆる性行為を指します。したがってイエスは、配偶者が性的に不貞を犯した場合のみ、結婚を終わらせる正当な理由があると述べているのです。性行為は結婚の契約に証印を押すものであり、配偶者以外の者との性的関係はこの契約を著しく侵害するため、結婚の契約は離婚によって正当に解消されます。それは、不貞を働いた者は事実上、他者と新たな契約を結ぼうとしているのだからです(Iコリント6:15-16参照)。

ウェストミンスター信仰告白は、「結婚後の姦淫の場合には、潔白の側が離婚訴訟をし、離婚後はあたかも罪を犯した側が死んだかのように、他の人と結婚しても合法的である」(24.5)としています。ウェストミンスター信仰告白は結婚を契約と捉え、神の律法によってのみ締結または終了し得るとしています。通常、契約が終了するのは死による場合のみですが、姦淫は結婚の契約そのものの死と理解されるほどに重大な契約違反であるため、離婚が許容されるのです。

『イエスは他のあらゆる罪と同様に、不当な離婚と不当な再婚の罪のためにも死なれました。失敗した人にも失敗された人にも、神の恵みと癒しが差し伸べられています。』

パウロはが提示している、正当に離婚するもう一つの理由をここで考慮する必要があります。コリント人への手紙第一7章10-16節および7章39-40節で、パウロはイエスの離婚についての教えを発展させています。パウロは、結婚は契約であるため、クリスチャンは互いに別居したり離婚したりすべきではないと論じます。たとえ配偶者の一方がクリスチャンで他方がそうでない場合でも、パウロはクリスチャンの配偶者に対し、未信者の配偶者が別居を求めない限り結婚を継続するよう指示しています。しかしパウロは独自の例外条項を提示し、未信者の配偶者が別居または離婚を求めた場合、クリスチャンには姦淫でなくとも離婚できるとしているのです。コリント人への手紙第一7章15-16節にパウロはこう記しています。「しかし、信者でないほうの者が離れて行くなら、離れて行かせなさい。そのような場合には、信者である夫あるいは妻は、縛られることはありません。神は、平和を得させようとして、あなたがたを召されたのです。妻よ。あなたが夫を救えるかどうか、どうして分かりますか。また、夫よ。あなたが妻を救えるかどうか、どうして分かりますか。」ここでパウロが扱っているのは、イエスの教えでは直接触れられていない特定の状況、すなわち未信者の配偶者がクリスチャンの配偶者と別居した、あるいは見捨てた場合の対応です。パウロは、そのような場合、クリスチャンは争ったり、自分を捨てた相手とまだ結婚しているかのように振る舞ったりするのではなく、配偶者の願いを受け入れてよいと説明しています。クリスチャンは未信者の配偶者に対して、自分から離婚を求めてはなりませんが、相手が別れを望む場合はそれを受け入れる自由があるということです。

パウロの教えはイエスの教えに反するものではありません。むしろ使徒として、パウロはイエスの教えの上に、結婚の契約が破られる別の可能性を付け加えたのです。ウェストミンスター信仰告白はこれを「故意の遺棄」(25.6)と定義し、「教会や国家的為政者によってもどうしても救治できない」状況だとしています。

私たちはこの「故意の遺棄」の状況に、身体的・精神的・性的・霊的虐待、様々な依存症、結婚の放棄など、多くの悩ましい状況を当てはめることができるでしょう。このような場合、問題のある配偶者は未信者のように振る舞い、罪を犯し続けることによって配偶者としての契約上の責任を果たせなくなっています。重篤な過失を犯し続ける配偶者は、たとえ死んでいなくても(物理的に家の中にまだ存在していても)、結婚の契約を事実上破棄しているのです。こうしたケースでは、姦淫の場合と同様、離婚を求めても罪ではありません。

結婚を終わらせる「例外条項」に何が当てはまるかを理解しようとして、離婚に必要な最低条件を模索したパリサイ人のようにならないよう、私たちは気をつけたいものです。けれども聖書がこうした例外について論じているのですから、聖書が何を教えているかを理解しようと努力することは重要です。新約聖書は、いかなる状況であっても、「離婚すべき」とは教えていません。ただ、特定の状況では、間違いなく離婚が最も賢明な選択であることも付け加えておきます。また、正当な離婚によって婚姻関係は事実上消滅しますから、過失のない配偶者は罪を犯すことなく再婚できますが、新約聖書は再婚を積極的に勧めているわけではないこと、そして、「誰か他の人と結婚したい」というのは、決して離婚の正当な理由とはならないことも覚えておく必要があります。

離婚と再婚に関する最終的な考察

いくつかのポイントをまとめて本稿を終えたいと思います。

1.離婚は常に罪と結びついている。

離婚は結婚の死であり、生物学的な死と同様に、罪がなければこの世に存在しなかったものです。離婚の根本には常に罪がありますが、離婚の際、双方の配偶者に同等の責任があるわけではありません。離婚が正しく賢明な措置となるには、クリスチャンが未信者のように振る舞っていることが前提であり、信仰を告白しているクリスチャンが「故意の遺棄」の罪を犯しているならば、教会は忠実に戒規を履行しなければなりません。結婚は本来キリストとその教会を象徴するものであり、離婚は公になされる福音の証しに打撃を与えます。神はあらゆる罪を憎まれるのと同様に、離婚も憎まれるのです(マラキ2)。

『福音の力と、キリストに対する信仰によって与えられる恵みによって、結婚を通して神に栄光を帰すことができるよう、努めていきましょう!』

2.離婚が許容されるのみならず、最善の策であるときもある。

虐待や不貞行為などが婚姻関係で発生している場合、離婚は聖書的に正当であり、時に賢明な選択となります。離婚が賢明な行動であるか否かは、虐待を受けている配偶者や子どもの安全と福祉が考慮され、判断されるべきです。結婚を維持することで人が危険にさらされるなら、離婚した方が良いでしょう。自分自身と子どもの安全を守る方が、危険な状況に留まるよりも愛のある行動です。この場合、虐待という恐ろしい行為を行っている配偶者に離婚の原因となる罪があります。結婚を維持したいからと、無責任に配偶者に罪を犯させ続けることは、立派な行いではありません。

3.離婚は重大な過ちであることもあるが、決して赦されない罪ではない。

クリスチャンも間違うし、罪を犯します。時にはノンクリスチャンと同じように振る舞うことさえあります。キリストの恵みがなければ、健全な結婚生活を送れる人は誰もいません。離婚に至るほどの失敗をした人や、失敗の犠牲となった人にとって、福音は真に良き知らせです。イエスは他のあらゆる罪と同様に、不当な離婚と不当な再婚の罪のためにも死なれました。失敗した人にも失敗された人にも、神の恵みと癒しが差し伸べられています。神は私たちの結婚が御自身の栄光を中心に据え、福音によって形作られることを望んでおられますが、私たちの救いは結婚の継続にも良い結婚にもありません。私たちは、恵みが増し加わるために罪を選ぶわけではありません(ローマ6:1-2)。でも、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してないのです(ローマ8:1)。

福音の力と、キリストに対する信仰によって与えられる恵みによって、結婚を通して神に栄光を帰すことができるよう、努めていきましょう!

この記事は『性・結婚・ジェンダー』を聖書から学ぶ – CBS教授陣メッセージシリーズ第4回目です。

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