祈る力が大きいクリスチャンもいるのか

マーク・ジョーンズ(著者) 、ブラッシュ木綿子(翻訳) - 2025年 06月 03日  - 

すべての真の信仰者は、仲介者であるイエス・キリストの同じ義で等しく義とされた者です。それでは、すべてのクリスチャンの祈りには、同じ力(効き目)があるのでしょうか。

信仰者の敬虔度によって、神が祈りを違うように聞かれるということはあるのでしょうか。あるいは、少し違う言い方をすれば、私たちが敬虔でないために、または特定の罪ゆえに、神の前にささげる祈りが妨げられることがあるのでしょうか。

これは慎重な取り扱いが必要な主題です。上にあげたような問いに対して早急に「はい」または「いいえ」と答えることは、神の民の祈りについて聖書が何を教えているかにきちんと注意を払わないことにつながるでしょう。神が何とおっしゃっているか、見てみましょう。

罪は私たちの祈りを妨げ得る

『故意に犯す罪は神と神の民の間の仕切りとなります。』

私たちは、信仰のみによって義とされた真理、すでにキリストとともにいる者と同じように、私たちのために天に蓄えられている資産も保証されている真理を大切にします。けれども、私たちの罪が祈りを妨げるという聖書の教えを避けることはできません。みことばに次のように記されています。

  • もしも不義を 私が心のうちに見出すなら 主は聞き入れてくださらない。(詩篇66:18)
  • 耳を背けておしえを聞かない者は、その祈りさえ忌み嫌われる。(箴言28:9)
  • むしろ、あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、 あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。(イザヤ59:2)
  • 求めても得られないのは、自分の快楽のために使おうと、悪い動機で求めるからです。(ヤコブ4:3)
  • 同じように、夫たちよ、妻が自分より弱い器であることを理解して妻とともに暮らしなさい。また、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。そうすれば、あなたがたの祈りは妨げられません。(Iペテロ3:7)

故意に犯す罪は神と神の民の間の仕切りとなります。私たちのうちには死ぬまで、あるいはキリストが再臨するまで、常に罪があります。しかしそれとは別に聖書は、私たちが意図的に罪を繰り返すなら、その罪を悔い改めるまでのあいだ、一時的に神に耳を傾けてもらえなくなることを教えているのです。

神は義人に耳を傾けられる

罪が一時的に私たちの祈りを妨げることがあるとすれば、その逆もまた真実です。ヤコブの手紙5章16に「あなたがたは癒やされるために、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、働くと大きな力があります」と書いてあります。この 「正しい人」は、すべてのクリスチャンを指しているわけではありません。

あるクリスチャンは、特別に敬虔であるがゆえに、祈りに特別な効き目があります。ヤコブはまた、力強い祈りをささげるクリスチャンがいることを話す前に、すべてのクリスチャンに罪を言い表すように勧めていることにも注目してください。敬虔なクリスチャンの中には、大きな信仰を持ち、熱心かつ頻繁に祈る賜物をもっている人がいます。御霊によって熱心に祈る賜物を、すべてのクリスチャンが同じようにもっているわけではありません。もしそうなら、ヤコブは「自分のために祈りなさい」と言ったことでしょう。

『真の祈りと真の信仰の人であったキリストは、不信仰な弟子たちにできなかったことができました。』

キリストこそ「正しい人」

キリストの祈りは、いくつかの理由で効果的でした。キリストは常に信仰をもって、熱心かつ頻繁に祈りました。それだけでなく、キリストはみこころを理解していました。キリストよりはるか昔に、預言者エリヤは雨が降らないように神に祈りました。良い考えだと思ったからそのように祈ったのではありません。そうではなく、干ばつも含めた、聖書に記されている、神の民に対する様々なのろいに基づいて祈ったのです(申命記28:22, 24)。

ヤコブはエリヤの模範的な祈りに触れ、そのような願いが「働くと大きな力を持つ」ことを示しました(ヤコブ5:16)。エリヤが私たちの模範であるなら、地上でのイエスの祈りはどれほどでしょうか。

ヨハネの福音書17章で、イエスは神に、御子として自分に約束されたことを果たしてくださるように願いました。神の民にはおこがましい人もいますが、イエスはそうではありません。イエスは熱心に、イエスと神の民に約束されたことを御父に思い起こしてもらっていたのです。イエスの粘り強い祈りは、「大祭司の祈り」で終わったのではなく、すべてが成し遂げられるまで、天においても続いています。

キリストには国々の民が約束されていたので(イザヤ49:1-12)、イエスはそれを願い求めました(ヨハネ17:20)。栄光が約束されていたので(ダニエル7:13-14)、それを求めました(ヨハネ17:1-5)。イエスは、ご自分のために正当に約束されていたものを、地上の生涯ですべて求めたことでしょう。

弟子たちは、不信仰のゆえに少年から汚れた霊を追い出すことができませんでした(マルコ9:17-23)。真の祈りと真の信仰の人であったキリストは、不信仰な弟子たちにできなかったことができました。御霊とともに(マタイ12:28)、キリスト自身の祈りと信仰が悪霊を追い出したのです。言い換えれば、キリストは弟子たちにはあることを期待し、自分には別のことを期待されたわけではなかったということです。

別の箇所では、「その敬虔のゆえに聞き入れられました」(ヘブル5:7)と、キリストの祈りと、それが聞き入れられた理由が書かれています。

私たちはキリストの祈りの生活を「人となられた神の、御霊による、神を恐れる祈り」と要約することができるでしょう。

正しい人とは

ヤコブは、正しい人の祈りには力があると書いています。真のクリスチャンはみな、転嫁されたキリストの義をもっているのだから、ヤコブは単に、すべてのクリスチャンの祈りは働くと大きな力があると言っているのでしょうか。神のみこころを知っていることと、熱心な祈りの実践が、力強い祈りをささげる唯一の条件なのでしょうか。

『罪のために祈りが妨げられる人がいる一方、信仰をもって熱心に祈り、神の命令を守る人は、より効果的な祈りをささげるということです。』

使徒ヨハネの言葉を考えてみましょう。「(私たちは)求めるものを何でも神からいただくことができます。私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行っているからです」(Iヨハネ3:22)。この聖句は、神から受けることは神に従うことと関係があると明確にしています。

ですから、私たちは正しい人となって祈ることを求めるべきでしょう(ルカ1:6; 23:50)。神に属していると言いながら神のみこころを行うことを怠る者ではなく、神のみこころを行う者となって祈ることを願い求めましょう(マタイ7:21)。

神は敬虔な者の祈りに耳を傾け、しばしばその祈りに答えてくださいます。しかし、神のみこころを行なわない者については、罪が祈りを阻害することを、聖書はこれ以上ないほど明確にしています。シンクレア・ファーガソンが書いているように、「祈りの領域においても、……行いのない信仰は死んでいる」のです。

まとめると、罪のために祈りが妨げられる人がいる一方、信仰をもって熱心に祈り、神の命令を守る人は、より効果的な祈りをささげるということです。もっとも弱いクリスチャンが跪いて祈るとき、サタンは震えあがります。キリストが跪いて祈られたらどうでしょうか。ですから、私たちはキリストの聖さを追い求めましょう。キリストの聖さは御霊によって与えられたもので、キリストの祈りを神に受け入れられるものとし、働くと大きな力をもつものとしたのですから。

聖書 新改訳2017©新日本聖書刊行会

This article has been translated and used with permission from Desiring God. The original can be read here, Do Some Christians Pray with More Power?.
この記事は「Desiring God」から許可を得て、英語の原文を翻訳したものです。原文はこちらからご覧いただけます:Do Some Christians Pray with More Power?