『魂の世話を託されることは、美しく、同時に恐ろしいことです。これは聖なる務めなのです。』
第四子の妊娠も終盤を迎えた頃、医者が「もう子育てのプロだね」と冗談を言いました。でも実のところ、七年前に第一子を妊娠した時より赤ちゃんを迎える準備ができているとは言えない心境でいたのです。むしろ三人の子どもを抱えて、子育ての大変さを痛感していました。もう後数週で四人目に会えるという時、私は思っていたよりも「大丈夫」と思えずにいたのでした。
問題は子どもの数だけではありませんでした。(とは言え、初めの子を妊娠している時は、みんなどうやって一人以上育てているのだろうと思ったものですが。)長女を連れて退院した時、「え、これだけ?もう家に連れ帰るの」と思ったのを覚えています。私たちが親になれること自体が、いまだに衝撃をもって胸に迫ってきます。
今や四人の母として、母という役目の大きさを日々新たに実感するとともに、自分がその務めを十分に果たせていないことを痛感しています。
子育ては、私が予想していた以上に奥が深いです。私は決して、母親が常に正しい答えを持ち、いつでも何をすべきか知っている存在だとは思っていませんでした。でも、子どもの生を目の当たりにするということが、これほど驚くべきことだとは思いもしませんでした。親ほどに子どものことをよく知っている人はいません。だからつい、子どものことはもう理解したと思い込んでしまいがちです。けれども子どもについては学び続けることが多く、彼らの内の奥深くには、私たちがようやく見始めたばかりのものがたくさん隠されているのです。
それぞれの子どもに、個性と好み、長所と短所の独自の組み合わせがあるだけではありません。彼らの個性が明らかになる様を観察し、誰が何を得意とするかを知り、状況への反応の違いを予測し、それぞれに合ったサポートをするのは楽しいです。けれども最近、より深く実感するようになったことがあります。それは、子どもたちが日々、魂をもった存在として世界と、そして私と、関わり合っているという事実です。
『何年も前なら、母親業の重責に押しつぶされ、絶望と恐怖に陥っていたかもしれませんが、恵みによって、私は恵みに拠り頼むことを学んでいます。』
子どもに魂があることを前は知らなかったというわけではありません。でもその現実が、私にとってますます明らかになってきているのです。子どもと話す中で、彼らがどのように世界を解釈しているかがわかるとき、善を行う難しさに彼らがもがくとき、彼らが恐れと格闘するとき、自分の内外にある「堕落」に彼らが気づくときに、私はこの現実を見ます。
それは、ベッドから「ママ、質問があるの。聖書の質問!」と声がかかるときにも見ることができます。そのとき娘は単に聖書の知識を知りたいのではなく、「神の基準に届かない自分」という現実とどう向き合えばよいのかを知りたがっていました。私たちは腰を下ろし、心から悪かったと思うことの難しさ、赦すことの難しさを話し合いました。
その日の日中、私は主に娘の世話を焼く人、母親として子どもに接してきたわけですが、この時には共に罪と戦っている聖徒として語り合いました。パウロも自分の内なる戦いについて書いていて、自分がしたいと思う善を行えず、したくない悪を行ってしまうと言っていること、私にも同じ戦いがあり、イエス様に会うまでその戦いが続くことを伝えました。でも、イエス様は赦してくださり、私たちを変えてくださるのです。「わかった気がする」と娘は言いました。私たちはぎゅっとハグし、「おやすみ」を言いました。この時の会話は、娘の考えや気持ちを聞く以上の機会でした。私は彼女の魂で行われている働きを垣間見ることができたのです。
子どもたちは永遠の魂をもち、死んでも生きる存在です。その魂の内を垣間見るというのは息をのむ経験だと表現したいのですが、誤解を招きたくありません。それは美しい夕日を浜辺で眺めるというよりも、山の絶壁に立つ感覚に近いのです。絶景は素晴らしいのですが、切り立った岩の上で感じる無力感は圧倒的です。魂の世話を託されることは、美しく、同時に恐ろしいことです。これは聖なる務めなのです。
『あなたが弱さの中で神に目を向けるとき、神はご自分の恵みの十分性を示すことによって栄光を受けられます。』
娘と話した時、私たちは単に「考える者」として交流していたわけではありません。私は宗教的真理や哲学、児童心理学の知識だけで対応することはできませんでした。子育てとは魂の仕事です。娘は自分が正しいと知っていることや正しいと感じること、それを実践できない自分の経験、そうした失敗がもたらす結果について考えていたわけですが、そのときに彼女の心は永遠の結果を伴う真理を理解しようとしていたのです。子どもたちは日々、神の御前に歩むこと、自分の罪深さと向き合うことを学びながら、願わくば、福音の素晴らしさをも学んでいるのです。
私は子育てのプロではありません。強いママでもすごいママでもなく、他のママを鼓舞しているわけでもありません。これは建前で言っているのではなく、本当に自分が親として不十分であり、魂を育む責任を重いと感じているからです。それでも、長女がもう赤ちゃんではなくなった今、以前と比べて一つだけ成長できたところがあるとするなら、それは「十分な方」に頼ることを学んだと言える点です。
何年も前なら、母親業の重責に押しつぶされ、絶望と恐怖に陥っていたかもしれませんが、恵みによって、私は恵みに拠り頼むことを学んでいます。私のとこしえの避け所であり、助けである神に、もっと早く駆け込むようになったのは成長だと思います。神は弱った母親や、何をしているかわからないと感じる者を受け入れてくださる方です。高いところでパニックになりそうになると、今こそ信頼すべき時だと、以前より早く気づけるようになりました。不十分な自分に固執するのではなく、恵みを惜しみなく与えてくださる神に頼り、「自分は弱い」と宣言するようにと、そしてその宣言を、それでも「神は、さらに豊かな恵みを与えてくださる」というヤコブの手紙4章6節の約束で締めくくるようにと、私たちは召されていると思うのです。
手に負えないほど大きな課題に直面した時、私たちには大きな誘惑が二つあることがわかりました。一つは、この世が私たちの目を内に向かわせ、自助努力やポジティブなハッシュタグで乗り切るように仕向けることです。でも私たちの多くが、ペテロと同じような愚かな自信過剰に何度も陥ってきました。ペテロは自分は他の弟子たちと違い、キリストを否定することなど決してないと豪語したあげく、その夜に涙を流す羽目になりました。自分の強さを宣言した後に失敗する経験を、私たちも十分にしてきたはずです。
『あなたの抱える課題が特に大きく感じられるのは、本当にそれが大きいからかもしれません。神に従順に生きること、神のように愛すること、信頼し従うこと、苦しみの中で耐え忍ぶこと・・・。こうしたことは、いつだって「小さなこと」ではありません。』
震えて立ちつくすときの第二の誘惑は、自分の不信仰を謙遜で済ませようとすることです。もうすぐ王になろうとしていたサウルが、神からの召しをはっきりと受け取った後に荷物の間に隠れたように、私たちも一見謙遜に見える行動を装いながら、神の恵みに信頼しようとしていないだけかもしれません。
しかし私たちは第三の道へと招かれています。パウロがそうしたように、「私たちは弱くとも、私たちの神は強い方だ」と宣言する道です。信仰者として、私たちは弱さを認めるだけでなく、それを誇りとする自由を与えられ、「わたしの恵みはあなたに十分である」と宣言される神の御声を聞くことができます。神の力は私たちの欠けの中でこそ完全となります。それゆえに私たちは、神の約束された力を確信して、神の召される務めに立ち向かうのです。神の召しに直面したときにあなたが抱く誘惑が何であれ、このことを知っていてください。「神は、さらに豊かな恵みを与えてくださる」ということを。神は、自分を低くする者、困っている者たちに、喜んであわれみを示してくださいます。そしてあなたが弱さの中で神に目を向けるとき、神はご自分の恵みの十分性を示すことによって栄光を受けられるのです。
私には、あなたが今何に召されているのか分かりません。子育てでしょうか。何か他のことでしょうか。ただ確かなのは、私たちが無力に感じたり、自分は不十分だと感じたりするときは、神が私たちに課す聖なる使命は大きいことを思い出すときだということです。あなたの抱える課題が特に大きく感じられるのは、本当にそれが大きいからかもしれません。神に従順に生きること、神のように愛すること、信頼し従うこと、苦しみの中で耐え忍ぶこと・・・。こうしたことは、いつだって「小さなこと」ではありません。
教会であれ、仕事であれ、友情であれ、家族であれ、私たちは自分の力で強くある必要はありません。無力だからと萎縮することはありません。たとえ神が私たちの人生に与えられた召しが大きくて、あたかも断崖絶壁の上で震えながら立っているかのように感じられても、私たちには信頼する道があるのです。神が与えてくださった使命の美しさと大きさを十分に認識しつつ、私たちは神に目を向けます。確かに私たちの使命は大きく、私たちはそれに対して本当に不十分なのでしょう。それでも、神はさらに豊かな恵みを与えてくださる方なのです。