牧師の虐待を見分ける主な兆候その2

自分の権威を過剰に守る

マイケル・J・クルーガー(著者) 、ブラッシュ木綿子(翻訳) - 2026年 02月 24日  - 

「権力を得た者はみな、それを失うことを恐れる」

『スター・ウォーズ/シスの復讐』でダース・シディアス(別名パルパティーン最高議長)はそう言いました。彼は邪悪な側の人間ですが、言っていることは正しいです。権力者にとっては、権力を失うことへの恐怖が最大の動機となることがよくあります。

悲しいことに、これは虐待をする牧師にも当てはまります。ウェイド・マレンは著書『Something’s Not Right(何かがおかしい)』の中で、「虐待を行う個人や組織が第一に求めているものは、力を得たり保持したりすることである」(15)と、同様の見解を述べています。

マレンが正しいとすれば(私はそう思いますが)、牧師の虐待を見分ける主な兆候の2番目にたどり着いたことになります。すなわち、虐待する牧師は、自分の力や権威を過剰に守るということです。彼らは自分の立場に異議を唱えたり、疑問を投げかけたりする恐れのあるものはすべてつぶすのです。

『虐待をする牧師はよく、自分の権威が事あるごとに肯定され、守られるように、教会全体の文化を築き上げます。自分を批判から守り、自分に立てつく者は誰でも罰せられるような文化です。』

新刊本が2冊出るということで、そちらに集中していたためにしばらく中断していましたが、教会における霊的虐待についての新しいブログシリーズ「講壇からのいじめ」を続けます。(以前の投稿はこちらこちらからご覧いただけます。)霊的虐待は他の虐待ほど簡単に発覚しないので、牧師の虐待を見分ける上で気をつけるべき主な兆候をこのブログで取り上げています。

もちろん、ただ自分の権威を守ろうとしているからといって、その人が虐待をしていることにはなりません。人間なら誰しも、自分の役割や立場を少しは守ろうとするでしょう。けれども虐待をする牧師はよく、自分の権威が事あるごとに肯定され、守られるように、教会全体の文化を築き上げます。自分を批判から守り、自分に立てつく者は誰でも罰せられるような文化です。

では、牧師が自分の権威を過剰に守ろうとすることは、教会の働きの中で実際どのように現れてくるでしょうか。いくつか見てみましょう。

トップは誰だ?

自分の権威を守ろうとする牧師は、しばしば最も平凡な方法を取ります。つまり、「トップは私だ」、「私のほうがあなたより立場が上だ」、「私が責任者だ」などと言って、自分の権威を思い起こさせ続けるのです。

『虐待する牧師…にとっての一番の懸念事項が自分の権威を守ることであるならば、急に、すべての質問や反論が「不服従」に見えてくるのです。』

その上、牧師や長老の権威を教える聖書箇所を頻繁に引用することもあるかもしれません。そして自分には「御国の鍵」が与えられていること(マタイ16:19)、聖書は「あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい」と教えていること(へブル13:17)などに訴えるのです。

教会と教会の指導者に権威があることは本当です。聖書は反権威ではありません。

しかし、牧師の権威があまりにも繰り返し叫ばれるようなら、警告のサインと見るべきです。自分の権威を証明したいといつも願っていると、虐待につながりかねません。

みんな「反抗的」

古い言い回しに、「金槌しか持っていなければ、すべてが釘に見えてくる 」というものがあります。虐待する牧師も同じです。彼にとっての一番の懸念事項が自分の権威を守ることであるならば、急に、すべての質問や反論が「不服従」に見えてくるのです。

このため虐待する牧師は、自分の働きを少しでも批判する人に対してすぐに「反抗的」とか「不従順」といったレッテルを貼ります。

実際、その口調や言葉遣いが、教会よりも軍隊にふさわしいように聞こえることが多いかもしれません。でも、牧師は命令を吠え立てる将軍ではなく、羊を優しく導く羊飼いとして召されているはずです。

これは戦争だ

牧会の働きについて言えば、ひとつはっきりしていることがあります。それは、批判されることも仕事のうち、ということです。正しい批判も間違った批判もありますが、すべての牧師が何らかの批判を受けます。

『虐待する牧師は、羊を守るためではなく、自分を守るために長老を使っているのです。』

でも、自分の権威を守ることに固執し、虐待をしている牧師を批判したらどうなるでしょうか。手短に言えば、これは戦争です。いくつもの霊的虐待の事例が示すように、批判は、報復、脅迫、懲罰的な行動へとつながっていきます。

私たちの誰もが批判されるのが苦手です。それが人間というものです。けれども教会は、牧師が批判をどのように受け止めるかに注意を払う必要があります。わずかな批判でも最高レベルの戦闘準備態勢に入ってしまうようであれば、牧師の霊的虐待が疑われます。

弁護士に言ってくれ

虐待する牧師が自分の権威を守り、維持する方法のひとつは、教会の指導者層に主要な「パートナー」を築いておくことです。牧師は長老の中から忠実なメンバーを数人選んで地盤を固めます。どんな批判からも牧師を守り、擁護してくれる「弁護士」を用意しておくのです。

そうすれば、誰かが牧師の虐待について懸念を表明した場合でも、すぐに彼ら「弁護士」が駆けつけて牧師を弁護し、権威ある地位を守ってくれます。さらに、こうした弁護士は批判を口にした人の後を追い、彼らを貶める方法、彼らの人格が疑われる方法を探すのです。

ここで何が起きているかを見逃してはいけません。虐待する牧師は、羊を守るためではなく、自分を守るために長老を使っているのです。

このとき教会は、自分たちの教会の統治体制(ガバナンス)について、果たしてそれが霊的虐待から関係者を守るのに十分かどうか、真剣に考える必要があります。

イエスの考える「権威」との違い

興味深いことに、イエスは教会の指導者たちが度を越して権威主義的になる危険性を予期しておられました。マルコの福音書10章35-45節でヤコブとヨハネが権力の座に着かせてほしいとイエスにお願いします。彼らは「一人があなたの右に、もう一人が左に座るようにしてください」と言いました(37節)。この二人は、サマリア人がイエスの権威を軽んじたとき、「主よ。私たちが天から火を下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った兄弟であることを忘れないでください(ルカ9:54)。

『イエスの働きのモデルは逆説的です。自分の権利を主張するのではなく、放棄することによって導くのです。』

ヤコブとヨハネが考えるリーダーシップの取り方は明確で、「従わない人には鉄槌を下し、問題を解決する」です。

けれどもイエスの働きのモデルはこれとはまったく異なります。権力を求める弟子たちに対し、イエスはそれは異邦人(未信者)の考える「権威」だと言われました。「異邦人の支配者と認められている者たちは、人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています」(マルコ9:42)。

言い換えれば、イエスはこれが権力者のデフォルトのあり方だとご存知だったのです。上に立つ者は率いる者を威圧し、押しつぶす、と。けれどもここで衝撃の一言が続きます。「しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい」(43節)。イエスの働きのモデルは逆説的です。自分の権利を主張するのではなく、放棄することによって導くのです。いじめる牧師にとって先頭は先頭です。けれども神を敬う牧師にとって先頭は皆の後になる者です。ポール・トリップが言っているように、「弟子たちは主人になるように召されたのではなく、しもべとなるように召されていることを、イエスは教えておられる」のです(Lead, 134)。


This article has been translated and used with permission from the author, Michael J. Kruger. The original can be read here, Key Signs of An Abusive Pastor #2: Hyper Defensive About Their Own Authority.
この記事は著者マイケル・J・クルーガー氏の許可を得て、英語の原文を翻訳したものです。原文はこちらからご覧いただけます:Key Signs of An Abusive Pastor #2: Hyper Defensive About Their Own Authority