愛が愛とは限らない

サム・オールベリー(著者) 、ブラッシュ木綿子(翻訳) - 2026年 02月 10日  - 

1967年の夏にリリースされたビートルズの『All You Need Is Love』(愛こそはすべて)という曲は、瞬く間に大ヒットとなりました。多くの人にとって、これは単なる名曲ではなく、偉大な哲学です。Tシャツやポスター、プラカードに『All You Need Is Love』(愛こそはすべて)と書いてあります。様々な信条や信念が交錯するこの世にあっても、最低限これだけはみんな同意できるだろうと思われているのです。互いに愛し合って、あまり物事を複雑にしないでおこうよ、ということです。

でも実際には、現実はそれより複雑です。「愛こそはすべて」という考えは、愛とは何か、愛とはどのようなものであるべきかについて、私たち全員に共通の理解がある場合にのみ機能します。ほとんどの場合、私たちにそのような共通理解はありません。

立ち止まって考えてみると、私たちの考える愛はかなり混乱しています。愛が重要だということはわかっています。愛してこそ人生、愛がなければ生きていけない、と感じてもいます。けれども、愛とは何かを正確に突き止めるのは、驚くほど難しいことです。愛が必要であることはわかるのですが、私たちはそれが何か、正確に言えずにいます。

『私たちは「これこれの行動は愛のある行動である」という前提をもとに主義主張や政治、個人的な倫理観を築きます。』

私たちはどのようにして愛を知るか

これは一大事です。私たちは「これこれの行動は愛のある行動である」という前提をもとに主義主張や政治、個人的な倫理観を築きます。#LoveIsLove(愛は愛)や #LoveWins(愛は勝つ)といったハッシュタグを付けて、あたかもそれで問題が解決するかのように、また、自分の話していることを理解しているかのようにしています。けれども、もし私たちが、自分で思っているようには愛について知らないのだとしたら、私たちが出している愛についての結論も、自分で考えているほど確固たるものではないことになります。愛は、私たちが考えているほど単純ではないのです。

新約聖書はそれを百も承知で、このように書いています。「キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです」(Iヨハネ3:16)。

つまり、キリストの到来無しに、私たちが愛について完全に知ることはできないということです。キリストなしには、私たちの愛の理解は良くて「不完全」です。私たちに愛とは何かを最も明確に示しているのが、イエス・キリストの福音なのです。ヨハネは続けて単純明快にこう書いています。「神は愛です」(Iヨハネ4:8, 16)。愛は愛です、ではなく、神は愛です、と言っているのです。

偽りの感情

私たちの愛の理解が、神ご自身の人格と御業に根ざしていなければ、どんな形の愛であれ、たとえ私たちがそれを「導き手」のように感じていたとしても、虚しく、からっぽで、究極的には偽物です。C.S.ルイスはかつて、「愛は、それが神になった時点で悪魔に変わる」と書きました。ルイスは次のように説明しています。

『「神は愛です」というのは、私たちが互いを真実に、正しく愛するためには、神に耳を傾けなければいけないということです。』

あらゆる人間的な愛は、その頂点で神の権威を主張する傾向がある。その声は、あたかも神のみこころのように聞こえる。それは私たちに、犠牲をいとうな、全身全霊をかけろと命じる。他のすべての主張を覆し、「愛のために」真心からなされる行為は、なんでも正しく称賛に値するとほのめかす。

(『四つの愛』7-8ページ)

「神は愛です」というのは、神が私の考える愛をすべて容認しなければならない、ということではありません。私たちは、さまざまな激しい感情や有害な感情さえも、いとも容易く愛だと勘違いしてしまいます。そうではなく、「神は愛です」というのは、私たちが互いを真実に、正しく愛するためには、神に耳を傾けなければいけないということです。神は私たちよりはるかに愛について知っておられるからです。

愛の異なる側面

文脈が異なれば愛の種類も異なることを、ほとんどの人が知っています。次の4つを考えてみてください。

  • 母親への愛
  • 配偶者への愛
  • 飼い犬への愛
  • 好物(ハンバーガー)への愛

それぞれ同じ「愛」という言葉を使っていますが、私たちは本能的に、対象に応じてその愛は異なることを理解しています。みんな愛ですが、違う愛です。実際、それぞれの愛は必然的に異なっていると言えるでしょう。配偶者への愛は親への愛と違って当然です。親への愛は、ペットへの愛とまったく異なるはずです。これを理解しない人はドキュメンタリー番組の題材となってしまいます。愛にはさまざまな形があるのであり、良く愛するということは、状況によって適切な愛で愛することができるということです。

『私たちの愛の理解が、神ご自身の人格と御業に根ざしていなければ、どんな形の愛であれ、たとえ私たちがそれを「導き手」のように感じていたとしても、虚しく、からっぽで、究極的には偽物です。』

適切な愛が明確なときもあります。けれども、ひとつの愛の形が、別の、適切でない愛の形へと迷走することもあります。友だち同士の愛であるはずが、一線を越えて恋愛へと変わることもあるでしょう。あるいは、親への愛が、親への不健全な依存になってきたと感じることもあるかもしれません。あるいは、人との関わりをペットに求めている人を目にすることもあるかもしれません。だからこそ、私たちには神の助けが必要です。それぞれの文脈でどのような愛が適切か、神が示してくださるからです。

前の愛より優れた愛

神が私たちに示してくださる愛はいつも、私たちが考えつくどんな代替案よりも、もっと愛に満ちた愛です。神に従うことが、私たちの他の人への愛を減らすことは決してありません。場合によってはそのように感じるかもしれませんが、それはおそらく、私たちが間違った方法で誰かを愛したいと思っているからでしょう。神は私たちに、その人を愛さなくなることを命じておられるのではなく、別の愛で愛するように命じておられるのです。

私は最近、キリストに出会う前にレズビアンのカップルだった女性ふたりと会いました。ふたりともがクリスチャンとなり、今では同じ教会に通う親しい友人となっているという、珍しい経歴のふたりです。以前は神への反抗が体現されたふたりの関係でしたが、今では互いにより敬虔になるための励まし合うことができています。ひとりが私に、「私たちの友情は、キリストにある姉妹となった今、罪の中に生きていたときよりもはるかに豊かなものになりました」と言いました。

彼女たちのケースが典型的であるとか模範的であるとかいうわけではありませんが、ただ、この証しから学べることがあります。聖書の教えに反する関係からキリストに立ち返ることは、大きな愛から小さな愛へと転じることではない、ということです。そうではなく、適切でない愛からより良い愛へと転じることなのです。愛であられる神に背きながら誰かを愛することは、決してできないということです。

私たちが「愛こそはすべて」と言えるのは、それがキリストに示された神の愛であるときだけです。「愛は愛です」は、偽りの愛を是認しかねません。「神は愛です」は、私たちをはるかに優れたものへと導くのです。

聖書 新改訳2017©新日本聖書刊行会

This article has been translated and used with permission from Desiring God. The original can be read here, Love Is Not Always Love.
この記事は「Desiring God」から許可を得て、英語の原文を翻訳したものです。原文はこちらからご覧いただけます:Love Is Not Always Love