結婚:赦しと忍耐

ジョン・パイパー(著者) 、ブラッシュ木綿子(翻訳) - 2025年 01月 28日  - 

この説教シリーズで、妻のノエルの発言、「結婚はキリストと教会を指していると、何度言っても言い過ぎることはない」を引用したのを覚えていますか(エペソ5:31-32を参照のこと)。私は3つの理由から彼女の言うことは正しいと思っていますが、今そのうちの2つを挙げましょう。ひとつは、このように言うことは、結婚を下品な連続ホームコメディの深みから、本来あるべき、神の栄光の明るく澄んだ空へと引き上げるからです。もうひとつは、このように言うことは、結婚を恵みの基礎の上にしっかりと据えるからです。キリストが教会を花嫁として迎え入れたのは恵みによるのであり、また、キリストが教会との関係を維持しておられるのも、ただ恵みによるのだからです。

結婚は神のなさることであり、神を示すもの

この説教シリーズの1番目と2番目のメッセージは、今挙げたひとつ目の理由を裏付けるものでした。私はそこで結婚は神のなさることであり、神を指し示すものだと説明しました。結婚の栄光は神から発し、神によって成り、神に至ります。人間の結婚は一時的ですが、キリストと教会という永遠のものを指し示しています。この世の終わりには、結婚が指し示してきたより優れたものが現実となり、結婚は消えるのです。

イエスはマタイの福音書22章30節で「復活の時には人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです」と言いました。ですから私の父、ビル・パイパーは復活の時に重婚者となることはありません。私の母も私の継母もすでに亡くなっています。父は母と36年、そして母の死後、継母と25年、結婚していました。けれども復活の時には影は実物に取って代わられます。結婚はキリストと教会の栄光を指し示すものであり、復活の時には完成した栄光が影に取って代わるのです。

『結婚はキリストと教会の栄光を指し示すものであり、復活の時には完成した栄光が影に取って代わるのです。』

結婚とは恵みに基礎を置くもの

そして先週の3番目のメッセージの要点は、結婚は恵みに基礎を置くということでした。十字架で死なれたキリストの恵みを垂直方向で経験した私たちは、その恵みを夫から妻へ、妻から夫へと、水平方向に広げるのでしたね。どちらか片方だけが信仰者である場合も含め、クリスチャンの結婚とはこの垂直と水平の構造を持っているのだと、コロサイ人への手紙2章13-14節、そして3章13節から説明しました。コロサイ人への手紙2章13節の後半と14節には、神が私たちの罪を赦す根拠が書かれています。「私たちのすべての背きを赦し、私たちに不利な、様々な規定で私たちを責め立てている債務証書を無効にし、それを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました」とあります。罪のゆえに山積みとなっていた、私たちを責め立てている債務証書を、神は十字架に釘付けにして取り除いてくださったのです。もちろん、私たちの罪を取り除いたのは、木と釘ではなく、刺し通された御子の手と足です(イザヤ53:5-6を参照のこと)。

外に広がる恵み

十字架にある神の赦しの根拠を示した上で、パウロはコロサイ人への手紙3章13節の後半で「主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい」と言っています。つまり、キリストの死によって自分が垂直方向から受けた恵みと赦しと義認を、水平方向に広げて他の人に対しても与えなさいということです。特に、夫から妻に、そして、妻から夫にです。そして先週、メッセージの終わりに「結婚で重要なのは、なぜ性愛や互いを楽しむことではなくて、赦しと忍耐なのか」と問いかけ、それに対する3つの答えを提示しました。

  1. 罪のせいで必ず衝突するのだから、罪を赦し、違いを耐え忍ぶ必要がある。私たちはときに、何が罪で何が単なるふたりの相違なのかについてさえ、同意できないものである。
  2. 赦しと忍耐という骨の折れる行為こそ、枯れた愛情に再び花を咲かせるものである。
  3. まったく違う、欠けだらけのふたりが、キリストに頼りつつ苦難の炉の中で誠実にひとつの人生を歩むとき、神が栄光をお受けになる。

救済措置としての別離とその先にあるもの

『キリストの死によって自分が垂直方向から受けた恵みと赦しと義認を、水平方向に広げて他の人に対しても与えなさいということです。特に、夫から妻に、そして、妻から夫にです。』

そこで今日は、赦しと忍耐について、さらに深く考えてみたいと思います。初めに断っておきますが、私は、配偶者が犯す罪の中には、赦しと忍耐を続けていては罪を助長するだけであり、ゆえに救済措置としての別離がやむを得ない場合もあることを痛いほど承知しています。「救済措置としての別離」と、言葉を慎重に選んで言っています。

私が考えているのは、暴行、姦淫、児童虐待、酒乱、ギャンブル依存、家族を破滅させるような窃盗や嘘などの罪ですが、今日はこれについては話しません。今後、別離、離婚、再婚について取り上げる時に話したいと思います。今日は、そのような別離が必要となる状況に至らないように、赦しと忍耐について聖書から学びたいと思います。それにより、別離ギリギリのところにいる人も戻って来る、あるいは、世間で離婚と片づけられている結婚を回復させることさえもできるかもしれません。そしてこの教えの種が、いつの日か結婚するかもしれない子どもや独身の人の中にも蒔かれ、彼らの結婚が恵みの岩の上に建て上げられることを祈ります。

結婚の基礎となるキリストの人格とみわざ

パウロはコロサイ人への手紙3章12節でキリストの人格と十字架のみわざを大きな土台として据えます。これが結婚ひいては人生すべての土台です。人生の、そして結婚の主な戦いは、このお方とみわざを信じることができるかどうかの戦です。ここで言う「信じる」とは、本当に本気で信じること、つまり、信頼すること、受け入れること、大切にすること、宝とすること、拠り所とすること、それによって生きること、人生を変えられることです。パウロはコロサイ人への手紙3章12節で、キリストの人格と救いのみわざの上に建て上げられた、私たちの感情を掻き立てる現実をもって信仰者を激励しています。

選ばれた者

パウロはまず信仰者を3通りに描写し、励ましを受けるあなたの理解を助けています。「ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として……着なさい」とありますね。パウロはこれから、私たちはどのような心、態度であるべきかを、着るものになぞらえて話そうとしています。でもその前に、パウロは私たちを選ばれた者、聖なる者、愛されている者と呼ぶのです。私たちは神の選びの民です。神は世界の基が据えられる前から、キリストにあって私たちを選ばれました。ローマ人への手紙8章33節にあるパウロの言葉、「だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか」から、この事実がどれほどパウロにとって大切だったかがわかりますね。答えはもちろん、神に選ばれた者を訴えることのできる者など誰もいない、です。パウロは、神に選ばれているということは、神によってどうしようもなく愛されていることだという驚くべき事実を、私たちにも感じてほしいのです。選びの事実に抗うことは、愛されている事実に抗うことなのです。

聖なる者

『寛容になるとは、短い導火線ではなく、長い導火線をもった人となるということです。とても長い導火線です。』

次にパウロは私たちを「聖なる者」と呼びます。これは神のために取り分けられた、という意味です。神は、「聖なる民とする」という目的をもって、私たちを選ばれました。世から取り分けられた私たちは、この世のありふれた、汚れた民ではなくなるのです。エペソ人への手紙1章4節に「神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び……聖なる……者にしようとされた」とある通りです。ペテロの手紙第一2章9節には「あなたがたは選ばれた種族、……聖なる国民」とあります。「聖なる」というのは特定の行動である前に、私たちの地位であり、召しなのです。それでパウロは、特定の行動を「着なさい」と命じるのです。パウロはまだ私たちが聖なる者として完成されていないことを知っています。パウロは、私たちはキリストにあって聖なる者なのだから、聖なる者となりなさいと言っているのです。自分にふさわしい服を着なさい、「聖さ」を着なさい、ということです。

愛されている者

そしてパウロは私たちを「愛されている者」と呼びます。「神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者」。宇宙を造られた神が、あなたを選び、ご自分のためにあなたを取り分け、あなたを愛しておられるのです。神はあなたの味方です。敵ではありません。「 しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます」(ローマ5:8)。これが、夫と妻が互いに忍び合い、赦し合う土台です。ふたりともがこの事実に驚愕するところからすべては始まるのです。夫たちよ、この事実をしっかりと見て、味わいなさい。妻たちよ、この事実をしっかりと見て、味わいなさい。ここにいのちがあります。ここに喜びがあります。ここに希望があります。あなたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者です。これこそがあなたの人生、あなたの結婚の鼓動となるように、主に祈り求めましょう。

内の状態が外に表れる

この土台、つまり、深くて新しい、神を中心にしたアイデンティティを土台にして、信仰者は何を着るべきかを命じられます。神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者は何を着るべきなのでしょうか。これはつまり、キリストを通して与えられたアイデンティティにふさわしい態度や行動、このアイデンティティから流れ出る態度や行動は何か、ということです。

私は3つの内なる状態が、3つの外に表れる態度や振る舞いにつながっているのだと思います。「ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい」とありますね。

深い慈愛の心から親切へ

『当然の報いを要求するのではなく、相手が受けるに値するよりも良い扱いをするということです。』

これをペアに分解してみましょう。まず「深い慈愛の心」と「親切」があります。これは原文では文字通りに「あわれみのはらわた」と「親切」です。「あわれみのはらわた」が内なる状態、「親切」が外に表れる態度です。あなたのもっとも奥深いところであわれみ深くありなさい。そうすれば、その良い土壌から、親切の実が育ちます、ということです。ですから夫たちよ。福音のゆえに、信仰によってキリストに深く根を張り、よりあわれみ深い人となりなさい。妻たちよ。福音のゆえに、信仰によってキリストに深く根を張り、よりあわれみ深い人となりなさい。そして、この優しいあわれみ深い内面から流れ出る親切な態度と振る舞いで、互いに接し合いなさい。戦いは、あわれみのない自分自身とあるのです。祈りをもって、福音を通して、信仰によってこの戦いを戦いなさい。あなたは選ばれ、聖とされ、愛されているのですから、驚き、砕かれ、建て上げられて、喜びと慈愛のある人となりなさい。

謙遜から柔和へ

次のペアは「謙遜」と「柔和」です。「ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、……を着なさい」とありますね。文字通りには「低さ」と「柔和さ」です。これも、「低さ」が内なる状態、「柔和さ」が外に表れる態度です。高慢でなく、心が低くされている人は、他の人に対して柔和に振る舞います。柔和な人は他の人を自分より上に見て、仕えます。これは心が低く謙遜なときに起こるのです。

ですから夫たちよ。福音のゆえに、信仰によってキリストに深く根を張り、より低く、謙遜な人となりなさい。妻たちよ。福音のゆえに、信仰によってキリストに深く根を張り、より低く、謙遜な人となりなさい。そして、この低さから流れ出る柔和な態度と振る舞いで、互いに接し合いなさい。戦いは、高慢で自己中心な自分自身とあるのです。祈りをもって、福音を通して、信仰によってこの戦いを戦いなさい。あなたは選ばれ、聖とされ、愛されているのですから、驚き、砕かれ、建て上げられて、喜びと低さのある人になりなさい。

寛容から忍耐と赦しへ

『神はあなたの味方であり、神を愛する人たちのためには、すべてのことが働いて益となります。私たちの希望はここにあるのです。』

次はペアではありません。内なる状態がひとつ書いてあって、それが忍耐と赦しにつながります。12節と13節の前半を読みます。「ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい。互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい」。「寛容」が内なる状態、「忍耐」と「赦し」が外に表れる態度や振る舞いです。

ここで寛容となっている単語の文字通りの訳は、「長く苦しむ」(マクロスミアン)です。寛容になるとは、短い導火線ではなく、長い導火線をもった人となるということです。とても長い導火線です。寛容な人になりなさい。怒るのに遅く、聞くのに早く、語るのに遅くありなさい(ヤコブ1:19)。これまでに挙げた3つの「内なる状態」は互いに繋がっており、影響し合っています。「あわれみのはらわた」(深い慈愛の心)と「低さ」(謙遜)は長く苦しむこと(寛容)につながります。もしあなたが長く苦しむのではなくてすぐに怒ってしまうなら、恐らくあわれみと謙遜が足りないのでしょう。言い換えれば、選ばれ、聖とされ、愛されている事実がまだあなたの心に深く浸透していなくて、プライドや自己中心さが砕かれていないのでしょう。

ですから夫たちよ。福音のゆえに、信仰によってキリストに深く根を張り、よりあわれみ深く、より謙遜な人となり、それによって、より寛容になりなさい。妻たちよ。福音のゆえに、信仰によってキリストに深く根を張り、よりあわれみ深く、より謙遜な人となり、それによって、より寛容になりなさい。そして互いにどのように接するべきでしょうか。前のふたつはペアになっていました。深い慈愛の心が親切な態度に、謙遜が柔和な態度につながりましたね。では寛容は何につながるのでしょうか。

忍耐と赦し

ここにつながるのはひとつではなくふたつです。まず「互いに忍耐し合う」こと、そして「不満を抱いたとしても、互いに赦し合う」ことです。「忍耐」と「赦し」ですね。これはどういう意味でしょうか。結婚生活において、具体的にどのような行動として表れるでしょうか。まず言葉についてコメントしましょう。「忍耐する」とは文字通りには「耐える」こと、互いに我慢し合うということです。ルカの福音書9章14節でイエスもこの言葉を使っています。「ああ、不信仰な曲がった時代だ。いつまで、わたしはあなたがたと一緒にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか」。パウロも、「迫害されては耐え忍び」と、コリント人への手紙4章12節で使っています。ですからここでも、長く苦しむ人、互いに耐え忍ぶ、忍耐のある人になりなさいと言われているのです。「[愛は]すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。愛は決して絶えることがありません」(Iコリント13:7-8)。

もうひとつの言葉は「赦す」です。新約聖書には少なくとも「赦す」という単語がふたつあります。ここで使われている「カリゾメノイ」は、自由に、あるいは気前よく与えるという意味です。当然の報いを要求するのではなく、相手が受けるに値するよりも良い扱いをするということです。つまり、誰かがあなたに罪を犯してあなたに「借りがある」状態になったとき、その人はあなたに与えたのと同じだけの苦しみを受けるに値するわけですが、それを要求する代わりに、悪に対して気前よく善で報いることが、「赦す」ということなのです。これがカリゾメノイの意味するところです。あなたの態度、振る舞いは「赦し」です。悪に悪を返す代わりに、祝福するのです(Iコリント4:12; Iテサロニケ5:15; マタイ5:44; ルカ6:27)。

福音にある希望

『私は、忍耐と赦しの組み合わせこそ、牛の糞を堆肥に変える鍵だと思っています。』

パウロがここで、教会においても結婚においても、ともに生きていく上では赦しと忍耐が必要不可欠だと認識していることに注目しましょう。赦しは、「私に対するあなたの罪や、私を苛立たせるあなたの悪い習慣があるからといって、あなたをひどい目にあわせない」と言う態度です。そして「忍耐」と言うからには、こうした罪や悪い習慣は、自分にとっては本当に嫌なことだと認めているのですね。相手に悪いところが何もなければ、「互いに忍耐し合う」必要はないわけですから。

結婚するとき、相手が30年後にどのようになっているかはわかりません。私たちの先祖は、砂の中に頭を突っ込んで結婚の誓約文を書きあげたわけではありません。現実をしっかりと見据えたうえで、「健やかなる時も病める時も、富める時も貧しき時も、順境の日にも逆境の日にも、いのちの限り真実と誠を尽くすことを誓う」としたのです。相手が将来どうなるかはわかりません。夢見ていたよりも良くなるかもしれないし、悪くなるかもしれません。それでも、私たちは神に選ばれ、聖とされ、愛されています。神はあなたの味方であり、神を愛する人たちのためには、すべてのことが働いて益となります。私たちの希望はここにあるのです。

堆肥の山

では、堆肥の山はどうでしょうか。青々とした草の茂る野原を結婚に見立ててください。あなたは希望と喜びをもってこの野原に足を踏み入れます。将来に目を向けると、そこには美しい花や草木、なだらかな丘が見えます。その美しさを互いの中にも見ています。ふたりの関係が、美しい花や草木、なだらかな丘なのです。けれども間もなく、ふたりは牛の糞に足を突っ込みます。結婚のある時期には、そこら中が牛の糞ということもあるでしょう。夜遅くには特にそうです。自分と結婚相手の罪や欠点、変なところ、弱さ、悪い習慣が牛の糞です。あなたはあわれみ深くそれらを赦し、忍耐しようとします。

でも牛の糞は人間関係で幅をきかせます。ふたりの間には牛の糞しかないように感じられることさえあるでしょう。私は、忍耐と赦しの組み合わせこそ、牛の糞を堆肥に変える鍵だと思っています。ふたりはスコップで牛の糞をかき集めます。ふたりは顔を合わせ、「いや、本当にたくさんの牛の糞があるね」と認めます。そして言うのです。「でも、この関係にあるのは牛の糞だけじゃないよね」と。「牛の糞ばかり見ているから、他のことが目に入らなくなるんだ。一箇所にまとめて堆肥にしよう。必要なときにはそこへ行って臭いをかぎ、『こりゃひどい』と認めてできる限り対処しよう。でもその後、堆肥の山からは遠ざかって、野原の他のところに目を向けよう。お気に入りの小道を歩き、牛の糞のない丘へ行こう。そして、自分たちの野原には美しいところもあることを、神に感謝するんだ」

私たちの手は汚れているかもしれません。スコップの作業で背中が痛むかもしれません。でも、ひとつ確かなことは、堆肥の山のそばにはテントを張らないということです。堆肥の山には、行かなければいけないときにしか行きません。これが、私たちが結婚において互いに与え続ける、恵みの賜物です。私たちは何度も何度も互いに与え続けます。なぜなら私たちは選ばれ、聖とされ、愛されているのですから。

聖書 新改訳2017©新日本聖書刊行会

This article has been translated and used with permission from Desiring God. The original can be read here, Marriage: Forgiving and Forbearing.
この記事は「Desiring God」から許可を得て、英語の原文を翻訳したものです。原文はこちらからご覧いただけます:Marriage: Forgiving and Forbearing