旧約聖書の解釈は、時に複雑なものとして語られることがあり、修士や博士レベルの学位を有し、古代近東の文化や言語に精通した者だけが携わるべき仕事かのように思わることがあります。確かに、こうした分野の研究はみことばを理解する上で大きな財産となるでしょう。しかしながら、私はこの短いエッセイで、旧約聖書を解釈するための4つの基本原則を提案したいと思います。旧約聖書を学びたいと願っている人なら誰にでも理解でき、考えて適用することのできる原則です。
1. 旧約聖書の中心はキリストである
旧約聖書には、歴史的な内容や古代文化に関する描写が多くありますが、旧約聖書は第一義的には古代史や古代文化についての書物ではありません。旧約聖書の中心はキリストです。より具体的には、キリストの苦難とそれに続く栄光、つまり、キリストの到来を告げる約束と、キリストの苦しみを通して、神が栄光の王国を築かれることが書かれています。私がこのように言うのは、エマオへの途上で、イエスが落胆した弟子たちに語ったことを繰り返しているに過ぎません。
『旧約聖書の中心はキリストです。』
そこでイエスは彼らに言われた。「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。」それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。(ルカ24:25-27)
これはイエスが復活後、昇天までの40日間ですべての弟子に教えた、旧約聖書解釈の修士課程クラスのメッセージと同じです。
それからイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、こう言われた。「次のように書いてあります。『キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、[エルサレムから開始して、]あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。』(ルカ24:44-47)
この旧約聖書の理解は、使徒たちの説教の一貫したメッセージでした。例えば、パウロはアグリッパ王に次のように語っています。
私は……堅く立って、小さい者にも大きい者にも証しをしています。そして、話してきたことは、預言者たちやモーセが後に起こるはずだと語ったことにほかなりません。すなわち、キリストが苦しみを受けること、また、死者の中から最初に復活し、この民にも異邦人にも光を宣べ伝えることになると話したのです。(使徒26:22b-23; 使徒3:18, 21, 24; 17:2-3; Iペテロ1:10-11も参照のこと。)
このように、寓意や人為的な操作なしに、イエス自身の教えに従って旧約聖書を正しく解釈するとき、すべてのページの中心的なメッセージはキリストだと言えるのです。だからといって、文脈から切り離して1節だけを取り出すとき、そうしたすべての節でキリストへの言及が暗になされているという意味ではありません。しかし、すべての聖書箇所が言わんとしていることは、何らかの形で私たちを福音の中心にあるメッセージへと導いているのです。
2. 旧約聖書には、私たちのためだけでなく、旧約の民へのメッセージがあった
『旧約時代には必然的に覆い隠されていたものもありました。御子の到来によってのみ、明らかにされるように定められていたからです。』
これは第1の原則を補完する重要な真理です。旧約聖書のキリストを中心としたメッセージは、新約時代に生きる私たちだけに啓示されているとするのは間違いです。旧約聖書は、キリストにおける約束の成就というレンズをかけなければ読めないものではありません。ヘブル人への手紙1章1節に、神は昔、旧約の民にしもべである預言者を通して語られ、また今、私たちにも、その絶頂として御子を通して語られると書かれています。モーセ五書は、モーセの時代に約束の地に入ろうとしていた人々に、挑戦と約束のみことばを語りました。1 イザヤは、捕囚が成就した後に、バビロン捕囚とキリストについての彼の預言を読む人々に対してだけでなく、アハズ王とヒゼキヤ王の時代にユダに住んでいた人々に対して語りました。列王記は、自分の罪と先祖の罪のために約束の地から引き離された人々の霊的な必要を記しています。そしてエゼキエルと歴代誌の著者は、捕囚後、「神に仕えて何になるだろう」と悩んでいる、同時代の気落ちした信仰者に向けて執筆したのです。
と言っても、預言者が未来のことを語らなかったわけではありません。それどころか、預言者は繰り返し未来を預言し、時には極めて正確に詳細まで預言したのです(例: イザヤ44:28; ダニエル11)。古代近東の神々の中にあって、主だけが唯一真の神であるという主張は、主だけがご自分の預言者を通して正確に未来を語られることに裏打ちされていました(イザヤ45:18-21; アモス3:7)2。実際に聖書では、預言が成就するかどうかで、預言者の正統性が試されました(申命記18:22)。しかし、このような「試験」が成り立つためには、成就する預言がなければいけません。短期的に成就した預言は、まだ成就していない神の約束をも信じるようにという、信仰者への励ましでもありました。
この最初の2つの原則から、旧約聖書を解釈する上での原則が、もう2つ導かれます。
3. 旧約聖書の著者たちは、自分たちが書いたものをすべて完全に理解していたわけではない
これは、旧約聖書の多くの箇所からも明らかです。ダニエルやゼカリヤといった預言者も、示された幻を完全には理解できないことがよくありました(ダニエル8:27; ゼカリヤ4:13参照のこと)。実際、ダニエル書11章に書かれているような預言を、ダニエルが完全に理解していたとはとても考えられません。そこには、アレキサンダー大王からアンティオコス4世エピファネスまでの期間の人や出来事について、多くの具体的な言及があります3。民数記12章6-8節に書かれているように、モーセを通して主が明らかに語られるのとは違って、預言というのはその性質上、暗示的で不明瞭なことが多いです。特に、キリストにおける神の目的の中には、旧約時代には必然的に覆い隠されていたものもありました。御子の到来によってのみ、明らかにされるように定められていたからです。
『旧約聖書の聖徒たちも、私たちと同じようにイエス・キリストの福音を信じる信仰によって救われた』
これについて考えるひとつの方法は、紀元前10年に「預言会議」が開催され、それに出席したと想像してみることです。この時までに、参加者には旧約聖書全巻に加え、中間時代の数世紀にわたる、旧約聖書について考察する時間もありました。けれども、もし誰かが詩篇22篇に基づいてメシアの磔刑を、あるいは、詩篇16篇に基づいてメシアの復活を、はたまた、イザヤ書7章に基づいてメシアの処女降誕を予測する論文を発表したとしたら、激しい論戦となったことでしょう。これらのことが実際に起こる以前には、こうした預言がそのように解釈されるべきであることが明白ではなかったのです。しかしながら、事後にふり返る視点を与えられた新約聖書の著者たちは、こうした記述により、預言されていたキリストの生涯、死、よみがえりが成就したことを正しく認識することができました。新約聖書の著者によって旧約聖書の記述に新しく奇抜な意味が付け足されたわけではありません。むしろ、「キリストは必ずそのような苦しみを受けるはずだった」(ルカ24:26)と教えられたイエスのことばから、旧約聖書のメシア預言を正しく読むならば、イエス・キリストがその真の成就であると認めざるを得なくなる、ということなのです。ユダヤ人への伝道の文脈で、パウロが旧約聖書からあれほどまでに説得力のある議論を展開できたのは、まさにこのためだったのです。
4. 旧約聖書の著者たちは、自分たちの描写したことの一部を真に理解してもいた
ですから、神の霊感を受けた預言者や、旧約聖書の他の著者たちの無知を強調し過ぎないことが重要です。来たるべき支配者がベツレヘムで生まれるというミカの預言の重要性を疑った人はいませんでした(ミカ5:2)。メシアはどこで生まれるのかとヘロデが問いただしたとき、その答えは明白でした(マタイ2:5-6)。イエスが「アブラハムは、わたしの日を見て喜んだ」と言ったとき(ヨハネ8:56)、(少なくとも)創世記22章で起こった出来事を考えていたに違いありません。アブラハムには、キリストの苦難とそれに続く栄光についての完全な理解はなかったかもしれませんが、愛する息子イサクが死ぬ代わりに主が雄羊を備えてくださったように、自分の罪のためにも、主が必ずや身代わりの犠牲を備えてくださるという真の理解があったのです。ダニエルは、ダニエル書11章に記されているプトレマイオス朝とセレウコス朝の対立を正確には把握していなかったかもしれませんが、そこで展開される歴史哲学から、エレミヤ書で預言されているさばきの70年が満ちれば終わりは近いと考えた自分の楽観的な見方が甘かったことをしっかりと認識していたことでしょう(ダニエル9:2を参照のこと)。終わりの前には、戦争と戦争のうわさがあり、帝国の興亡が繰り返されます。そしていよいよ戦いがおさまり塵が落ち着くときに、いと高き方の聖徒たちが勝利を得るのです。
同じように、ダニエル書7章の幻に登場する、神の属性(雲とともに来る)をもった人の姿(「人の子のような方」)について、ダニエル自身がどのように考えていたにせよ、その幻の中心的な意味は、御使いによってはっきりと説明されました(ダニエル7:16-17)。聖徒たちにはこれからも試練と苦しみが続き、歴史を終わらせる神の介入があってはじめて、最終的な栄光がもたらされることをダニエルは理解していました。幻を理解していたからこそ、ダニエルは動揺したのであり(7:28)、また、謎めいた「人の子」によってもたらされる究極の勝利の約束によって慰めを得てもいたのです。
『福音の首尾一貫した明白なメッセージは、創世記から黙示録まで、みことばのすべてのページを貫いているのです。』
さらに、旧約聖書の聖徒たちが正しく把握していたこれらの幻の中身と言えば、型と影ではあっても、福音そのものにほかなりません。これをパウロはガラテヤ人への手紙3章8節でこのように言っています。「聖書は、神が異邦人を信仰によって義とお認めになることを前から知っていたので、アブラハムに対して、『すべての異邦人が、あなたによって祝福される』と、前もって福音を告げました」。キリストの苦しみとそれに続く栄光という福音は、それが輪郭だけ、あるいは不明瞭な形であったとしても、最も早い時代から旧約聖書の読者に明らかでした。これを認めることは非常に重要です。それは、旧約聖書の聖徒たちも、私たちと同じようにイエス・キリストの福音を信じる信仰によって救われたのであり、彼らに、何か別の救いの方法があったわけではないからです。この考えを維持するためには、キリストの来臨によって完全に啓示される以前から、旧約聖書の信仰の目に福音のメッセージは真に見えていたと、パウロのように主張する必要があるのです。
多くの点で、旧約聖書の聖徒たちの置かれていた状況は、「今」と「まだ」の間に生きる私たちの状況とそれほど変わりません。私たちも、上述の紀元前1世紀の架空の「預言会議」出席者と同じように、神がこの世界にもっておられる究極的なご計画を曇りガラスを通して見ています。彼らと同じように、私たちも、神の将来の計画の一部については、はっきりと、誤りなく知っています。たとえば、キリストはからだをもって再臨され、すべての敵に勝利されます(詩篇2)。この世の王国は、私たちの主と、そのキリストのものとなります(黙示録11:15)。キリストを信じる人は、決して主から見放されることも見捨てられることもありません(ヘブル13:5)。しかし同時に、キリストの再臨について、漠然としか知らないこともたくさんあります。私たちの予測していたことと実際が異なっていて、将来驚くこともあるかもしれません。すべてが成就したときにふり返って見たならば、私たちの心も燃えることでしょう。そして自分のことを、「なんと愚かで心が鈍く、神がみことばによって啓示されたすべてを信じることができない者であったことか」と思うことでしょう。言い換えれば、私たちが驚くのは、約束されていたこととは違うことが成就するからでも、約束の一部が成就しないからでもなく、キリストにある私たちの救いのために働いておられる神の知恵の高さと深さを、私たちが理解できていなかったことによるのです。
旧約時代に隠されていた多くの事柄が、キリストの来臨によって今は明らかになっています。そしてまた、完成のときまで、私たちの目には部分的に隠されたままのものもあるでしょう。それでも、福音の首尾一貫した明白なメッセージは、創世記から黙示録まで、みことばのすべてのページを貫いているのです。聖書の福音のメッセージは、すべての時代、すべての世代の聖徒たちに、キリストの苦しみとそれに続く栄光を繰り返し指し示しているのです。
脚注
[1] 例えば、私の記事を参照してください:“Hagar the Egyptian: A Note on the Allure of Egypt in the Abraham Cycle,” Westminster Theological Journal 56, no. 2 (Fall 1994): 419–21.
[2] それゆえに、「あなたがたは、わたしが主であることを知る」と繰り返されるのです。預言の成就はヤハウェご自身と主の預言者の正統性を保証するものでした。
[3] ジョン・ゴールディンゲイによれば、ダニエル書11章では、紀元前322年から163年の間に存在した、プトレマイオス朝とセレウコス朝の支配者16人中13人が、詳細に、歴史的に検証できる形で言及されています。(参照: Goldingay, Daniel (Word Biblical Commentary; Dallas: Word, 1989), 295–6. )